第9話

 しかし、幾ら痛いのは誰でも嫌だとは言っても、最近の予防接種などに使う注射針は以前よりも細く作られていて、殆ど痛みを感じ無いものも存在している。

 風祭先生に頼めば、この注射嫌いの奈々美の為に、そう言うのを用意してくれそうな気もするが……。

 何しろ、俺がバイトを開始する時に受けた予防接種も、そう言う注射針のもので受けたからな?

 まあ、病院で任意接種の手配をするとか、接種の前には一応、診察も必要な訳だし、男子・女子と言う立場的に考えて、その役目は俺では無く、有栖川が負うべき事の様に思えたので、俺はだんまりを決め込む。


「もう駄目。私、水疱瘡みずぼうそうおかされて死ぬしか無いかも」

 有栖川は、頭を抱えながらそう覚悟を決める奈々美の言葉を、やんわりと否定した。

「いや、もう奈々美くらいの年齢だと、既に、水疱瘡にかかった事があるんじゃ無いかなあ……」

「あ、なるほど。あれって、おたふく風邪と同じで、1度かかって置けば、一生、かから無いって、良く聞くものね……。ああ、良かったー!」

 奈々美は顔を輝かせる。

「うんうん」


 水疱瘡にかかる何てのは、大抵、小学校に上がる前ぐらいの子供の頃の事だし、既に高校3年生で、御年おんとし満17歳になる奈々美にも、その持ち得る免疫力にブースター効果を付与する方法を教えてやろうかとも思う。

 が、こうして彼女が安心している所を下手に刺激すると、かえって意固地になって、追加接種を受けそうに無いので止めた。

 いつか、奈々美が不安を覚えた時に促してやろう。

「まあ、どうせ予防接種を受けるなら、奈々美の場合だと、風疹ふうしんとかHPVの方が良いんじゃ無いかな?」

 あっ、有栖川の奴。

 今、奈々美に予防接種をする様にけしかけてどうする、今けしかけて。

「ん? そう? それって受けて置いた方が良いの?」

「うんうん」

「じゃあそうする~」

 はぁ?

 あにはからんや……今の有栖川の言葉に、奈々美はあっさりと従う積もりの様だ。

 どうやら有栖川は、奈々美から随分と信頼を得ているらしいな。

 続いて、有栖川は、先程の水疱瘡を発症させるヘルペス・ウィルスに付いて、さらりと説明した。

「……そうか、ヘルペス・ウィルスって、100種類くらいあって、その内の幾つかが口内炎とかの原因になるのね。それで、細胞を持つほぼ全ての真核生物は……」

 ふんふんと頷きながら、奈々美は先程の特別授業のノートにそれをメモする。

「あ、あと、それって、うがいや手洗いで予防出来るの? あと、暑い地域とか寒い地域で、感染の仕方に違いとかはあるのかしら?」

 2人は、クリスマスと縁遠いものなどそっちのけで、そんな会話をしている。


 それにしてもだ。

 有栖川の披露する細菌・ウィルス学の話を熱心に聞いている、この奈々美の意地の悪そうなニヤケ顔はどうだ?

 そんな奈々美の表情に底知れぬ不安を感じた俺は、すっかり有栖川の熱心な生徒になっているこの幼馴染に質問を発する。

「おい、松原。お前……そんな事を聞いて、一体どうする積もりなんだ?」

「え? いや……ウィルスを使って全人類を破滅させるには、どうすれば良いかと思って」

 その瞬間、この部室にいる一同の視線が奈々美に集まる。

 奈々美──。

 お前は一体、何と言う恐ろしい事を言うんだ。


 新聞を傾げて奈々美に注目する高梨の顔を見ると、これはやはり、何やら険悪と言うか怪訝けげんな表情であり、永瀬の方はと言えば、これは凍り付いた様なアルカイック・スマイルを浮かべていた。

 そんな風にして、一同、しばしの間、絶句である。


 水を打った様な静けさの中、俺はようやく口を開く。

「は……? 何だって? 良く聞こえなかったな。もう1度言ってくれ」

「だから、人類を絶滅させるには、どうしたら良いのかな? と思って……」

「はぁ? 何だ、それは……? お前は細菌やウィルスを培養して、バイオ・テロでも起こす積もりか?」

 もしそうなら、これはきつく絞り上げてやらねばなるまい。

「ち、違うわよ! 本当にそんな事をする訳無いじゃ無い」

「じゃあ、何だ? 答えろ」

「いや、いま私、作成したウィルスを世界中にばら撒いて人類を絶滅させるとか、そう言う内容のゲームをやっているから、すみれの話が、その攻略に使え無いかと思って……グヘヘ」

 奈々美はそう言い、妙な笑い声を出しながら薄気味悪うすきみわるく笑った。


 ──何だ、ゲームの話か。

 俺は安堵しながら、この終わりの見え無い、研究活動のグループを同じくする2人の細菌・ウィルス学の話を切り上げさせようとする。

「あ、なあ……。そんな話も良いが、そろそろ、本題に入ら無いか? そう言うのは、別に、研究テーマの話し合いが終わった後でも良いだろ?」

 有栖川は、ふと気が付いた様に謝る。

「ああ、これは失礼しちゃったかなあ。それじゃ、私の話は、ここで一旦、終わりっ」

「うん、良く分かったわ。ありがとう。後、破傷風とか結核に付いても知りたいから、後で教えてよねっ」

 奈々美はノートに内容を書きつつ、いつものニヤニヤ顔をしながら、有栖川に向けて言う。

「うん。分かったかなあ」

 そうしてしばらくの後、奈々美がノートを書き上げたので、俺は研究テーマの議題の内容を再開する事にした。

「さて、仕切り直しだ。松原、この、クリスマスと縁遠いものに付いて、何か、思い浮かんだか?」

 俺は右手にシャーペンを持ち、机の上に自分のノートを広げてそう言う。

「何それ、アンケート?」

「そうだ。言って無かったが、もう、調査方法は、そう決まってるんだ」

 あはは、と有栖川は苦笑する。

「クリスマスと縁遠いもの……。ねえ、マッキー、何か思い浮かぶ?」

 と、奈々美は隣で読書中の永瀬に声を掛ける。

「あ……私ですか?」

 全く、こいつは何をやっているんだ。

 邪魔な先輩であるお前の手から、この幼気いたいけな顔をした後輩である永瀬を早く開放しろ。

「おい、俺はお前に聞いてるんだ。他の人を巻き込むな」

 奈々美はケロリとした表情で言う。

「え? 何で? 良いじゃ無いのよ。アンケート調査と決まっているなら、どうせ、知り合いみんなに聞いて回るんだし」

「それはそうだが、それが今である必要があるのか? 来週の水曜何だから、アンケートを実施したい前日に了解を取って、それからでも良いだろう。……悪いな、永瀬。松原が邪魔をして」

「あ、いえ……。ええと、クリスマスと縁遠いもの、ですよね?」

 永瀬は健気けなげにも、無遠慮な奈々美が読書中にいきなり投げ掛けて来た質問に答えてくれる様だ。

「ああ、もし良ければ、永瀬の方でも、それを考えていてくれるか? 回答は、メールで送ってくれれば良いから」

「あ、はい、分かりました」

 そう言って、永瀬はニコリと微笑む。

「じゃあ、そうしてくれるかな?」

 と、有栖川。

「はい、本日中に、ご連絡しますね」

「うん、ありがとう」


 有栖川と永瀬のやりとりが終わったので、俺は奈々美の方に向き直ると、周囲に許可無くその被害をまき散らすこの馬鹿女への尋問を開始する事にした。

「さあ、松原。お前の番だ。永瀬には、後でびて置けよ?」

「は!? な、何よ。私に命令し無いでよ。クリスマスと縁遠いものでしょ? ちょっと、考えるから待ってて」

「他人にはいきなり質問をぶつけて、自分は30秒以内に回答出来無いのか」

「私はマッキーみたいに頭良く無いのよっ。ほら、昔から忍耐は宝って言うでしょ。成海も、少しは他人ひとを待つ習慣を付けなさいよ」

 お前を相手にそんな習慣を身に付けたら、俺の一生は待ってばかりで終わって仕舞うに違い無い。

「それを言うなら、堪忍かんにんは一生の宝だ。まあ、忍耐と堪忍は同じ意味だから良いが」

「ふんっ。じゃあ、大体合ってるじゃ無いの。後は、一寸いっすんびればひろびる、とか、堪忍かんにん五両ごりょう思案しあん十両じゅうりょうとか言うし」

 何でお前はそんな時だけ、俺の知ら無いことわざを披露出来る記憶力を発揮するんだ。

 そう言うのは、試験の直前とかその最中とか、そう言う別の所で発揮しろ。

「兎に角、いま考えるわ。私が何か思い付くまで、話し掛け無いで」

「しょうが無い奴だな。早くしろよ」


 それから1分後、腕組みをしてうんうん唸っていた奈々美が、突然、その顔を輝かせて、ひらめいた様な声を出す。

「そうだ、思い付いたわ!」

「やっとか。早く話せ」

 そう俺が発言をうながすと、奈々美は嬉々として話を始める。

「言われ無くてもっ。さっき、五両とか十両とか言ったけど、これって、江戸時代とかに使われたお金の単位よね?」

「まあ、そうだが」

「こないだ、休みの日にご飯作るの面倒だから、台所の棚の中にあった煎餅せんべいをご飯代わりにして、それからジュースを飲みながらテレビの時代劇を見ていたんだけど……」

 お前がどれほど怠惰な休日を過ごしているのか、これで分かった。

 と、有栖川はその話に乗って来る。

「ああ、それって、あれかな? 赤穂あこう浪士ろうしの……」

「そうそう! それそれ! なーんだ、すみれもあの番組、見てるんじゃなーい」

 奈々美はそう喜ぶと、神妙な顔付きで話す。

「その時代劇だけど、話の中身はこうよ。日頃、パワハラや嫌がらせをしていた吉良きら上野介こうずけのすけが、その相手である浅野あさの長矩ながのりにキレられて、江戸城内の松の廊下で下剋上げこくじょうされ掛かったんだけど……」

「おい、待て! 下剋上げこくじょうって、それ、主に鎌倉時代から戦国時代、最大でもほぼ天下を取っていた信長や、その家来だった秀吉が君臨していた、安土桃山時代に掛けての話だぞ? 天下泰平の江戸時代に下剋上げこくじょうとか、そんなもの無いだろ。そう言うのを江戸時代にやったら、大抵、ただの謀反むほんじゃ無いか。そもそも、身分の上下関係はあるとは言っても、浅野は吉良の直接の家来じゃ無いんだから、下剋上何て言葉は的外れだ。どちらかと言えば、それは無礼ぶれいちが相当だぞ。……つーか、なんかこの話って、そこに書いてある議題から、脱線して無いか?」

 俺はホワイト・ボードの方に顔を向ける。

「あ……それは、そうかもなあ」

 有栖川は苦笑する。

「え? 下剋上げこくじょうって戦国時代なの?」

「そうだっ」

 こいつは、信長やその家来の明智光秀がやった事を、何だと思っているんだ。

 あれは下剋上そのものだぞ?

「あっ、そう。まあ、その時代劇の中身は良いとして……江戸時代の日本って、まだクリスマスとか普及して無いから、祝って無かったんじゃ無いかと思うんだけど」

「なるほど。確かに、それは良い着眼点かも知れ無いな」

「フフフ、ほらご覧なさい。私だって、ちゃんと時間を掛ければ適当な答えを導き出す事が出来るの。成海はせっかち過ぎて、損をしてると思うのよね。ニヒヒ」

「お前は何を言っているんだ。江戸時代? まあ確かにクリスマスとは縁遠いが、だが駄目だっ」

「は? それは何でよ?」

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