第5話

 そんな風にだらける奈々美を急がせる為、俺はタイム・リミットの宣告をする。

「おい、松原。これから20秒だけ時間をやるから、先月にやった俺達のグループ・ワーク活動の手順とその発表内容を、たった今、すぐに思い出せ。先月俺達が行った、グループ・ワークの時の事をな。今すぐに、だぞ?」

 有栖川は明るく微笑ほほえみながら、こう言う。

「20秒かあ……。成海君は、人をかすなあ」

「当然だっ。この話を始めて、さっきから既に、5分以上経ってるんだぞ? これ以上、松原の為に、俺達のグループ・ワークの話を、遅らせてたまるかっ」

「うーん。それも、そうだなあ……」

 このきに、みずからの雲行きが怪しくなって来たのを悟った奈々美は、慌てて反論する。

「はぁ? ちょ、ちょっと成海ィ! あんた何言ってんのよ!? ちょっと、待ちなさいよねっ! 先月にあった出来事をたった20秒で思い出せ、とか! 何? 私に与えられた猶予って、たったそんだけ?」

「20秒もあれば、十分過ぎるだろう。俺ならきっかり15秒……いや、半分の10秒でも行けるぞ?」

「嘘!? 今忘れてる事を、そんなにすぐに思い出せる訳無いじゃなーいっ!」

「そうか? じゃあ、お前がそれを思い出すまで、どれぐらい掛かるんだ?」

「え? リメンバーするまのでの時間? うーん……。そうね。時間は、大体1分半ぐらい頂戴ちょうだい。今日は、その話の為に特別授業用のノートを持って来てるから、これからそれを見て、先月の事を思い出してみるから」

 全く、そう言う物品の準備だけは、いつもちゃんと出来る奴だ。

「何だ、ノートはきちんと持って来てたのか……。それはおもけず感心だ。よし、良いぞ。その意外な準備の良さに免じて、持ち時間は初夏の特別大出血サービスで、2分やる。そもそも、1分半とか、何だか半端はんぱだしな。その間に、先月俺達のグループでやった事を、あらかた思い出してくれ。あ、ただし、今すぐにやるんだぞ?」

「何よ、意外って……。チッ、分かったわよ。思い出せば良いんでしょ? 良いわ、2分もあれば、余裕だしっ。キシシ……」

 奈々美はしめたと言った感じの妙な笑い方をしつつ、ページの間に指を挟んでいた『孤狼ころう』の文庫本を机の上に置いて完全に畳んで閉じ、彼女の膝の上に抱き抱えていた鞄からノートを取り出して、そのページをめくり始めた。

「うーん、1ヶ月前……1ヶ月前……。ああ、あったわ。これね」

「どうだ、記憶は戻ったか?」

「待ってよ、今、読んでるんだから」

 しばらくの後、奈々美は頷いた。

「……そうね、グループ・ワーク。そう言えば、確かにそんな事があったわ。うん。思い出した」

「はぁ……。ようやく、全部思い出せたかなあ?」

「うん、お待たせ~」

 奈々美は有栖川の方を見てニヤニヤと笑う。

「何だ、やっとか。て言うか、ノートがあるなら、先月の授業内容とか、そんなもの10秒で思い出せ。10秒で」

「無理よ! そんなの!」

「そうか? 良く考えて見ろ」

「ええと……。いや、やっぱ、流石さすがにそんなすぐには思い出せ無いでしょ。忘れっぽい私の頭を、成海の特別製と一緒にし無いでよ?」

 と、奈々美は身を乗り出し、俺に顔を近付けながらそう言う。

 俺は溜息交じりにこう返した。

「何が特別製だ。言うにこといて、他人ひとをサイボーグか改造人間みたいに言うな。良いか? この際だから言って置くが、俺はちゃんと勉強したから、この優等生とも呼べる今の成績を維持出来てるんだ」

「そうなの?」

「いや、そうだろ! つーか、俺の中学校の頃の成績って、お前や阿部とほとんどど変わら無かったじゃ無いか。俺が別に生まれ付き頭が良い訳でも、記憶能力に優れてる訳でも無い事が、それで分かっただろ」

「ああ、そう。そう言えば、そうだったわね……」

 奈々美は下を向いて思案しつつも、今の俺の話に納得した様だ。

「しかし……お前でも、一応、その自覚はあったんだな?」

「は……? 自覚って、何のよ?」

「まさかとは思うから一応聞いて置くんだけどな、松原? お前、これまで授業とかで習ったり、俺が教えてやったりした色々な事も、それから1ヶ月ぐらい経つと、今みたいにすっかり頭から抜けて、完全に忘れ去って仕舞うんじゃ無いだろうな? だとしたら、お前は一体、何の為に高校に通っているんだ? 学校の勉強は、予習だけで無く、授業を受けた後にちゃんと復習もして置け」

「そんな事、分かってるわよ。私だってそんな事、いちいち他人ひとに言われ無くったってやってますぅ~! ……って言うか、そんなお母さんみたいな事、成海に言われたく無いし」

「なら、最初から言われ無い様に行動しろ」

「フン」

「本当に予習と復習は、自分でやってるんだろうな……? じゃあ、質問だが、俺が去年の今頃の時期、1年次と、2年の1学期に受けた授業の内容をざっくりまるっとおさらいしてやった事があるが、その内容、覚えてるか?」

「え!? おさらい? うーんと……。まあ、確かに、2年生の時にはそんな事があったかも知れ無いけど、でも、その内容とか、そんな物、1年も年月が経った今、覚えてる訳無いじゃなーい! これって、常識よね。キシシシッ」

 そんな事を言い、奈々美は笑う。

「はぁ? 全く、何が常識だ。お前の常識は高校生の非常識だ。そもそも、それを同級生の俺に注意されて、そんな風に笑ってる場合か。して見ると……はたから見ても、松原は本当に学習に関する能力と意欲の双方に欠けている奴だな? お前、そんな自分自身の事を、自分ではどう思ってんだ?」

「私の能力に意欲? うーん……普通ぐらい?」

「ど・こ・が・だ? どう考えても、お前のそれらって、人並み以下だぞ!? 泣いても笑っても、俺達3年生は、もう来年には卒業するんだ。そう言うのを踏まえて、松原は、そう言う自分の立ち位置を、もっと冷静れいせいに見直した方が良いぞ」

「何よ!? あんた、この私ののびのびとした自由闊達かったつな生き方に、文句付ける積もりィ!?」

「のびのびとし過ぎだっ! 全く、お湯を入れて20分ばかりも経ったインスタント・ラーメンか、お前は!?」

「そう言う成海は、四角い焼きそばの奴の湯切ゆぎりに失敗して、その中身を排水口はいすいこう目掛けてぶちまけちゃうタイプよねっ。後は、お湯を入れてから1分もし無いうちに食べ始めて、麺が固いまま食べて、美味い! とか言うタイプ。うん、そうよ。そうに決まってるし。グヘヘ」

「何? そんな訳があるか! 俺はな、焼きそばを食べたいと思った時は、スーパーとかで売ってる、細長い袋に3食位入った生麺なまめんの方をだな、キャベツなどと共にフライパンで炒めて自分で作って食べるから、カップ焼きそばの湯切りとか、そんな事はし無くて良いんだっ! あと、好みの麺の固さとか、そんなもの、人それぞれだろ! お前の生き方の様に、十数分も経過して極度に柔らかくなり、具材だか何だか分からなくなった麺とか……そんなものっ、まともに食えるか!」

「何よ! 焼きそばは生麺だ! ……とか! 如何いかにもグルメぶっちゃってっ! 成海はインスタント焼きそばを馬鹿にするな!!」

「別に馬鹿にしちゃい無いが……たまにはそう言うのも良いだろうが、若い癖にそんな物ばかり食べていると、栄養がかたよって不健康になるぞ! あれは炒めたキャベツをメインとして、後はもやしとか豚肉、イカを入れるから美味いんだ。お前は他人ひとをグルメ呼ばわりする以前に、まずはそのイージーで偏った、自分の食生活を見直せ!」

「へんっ、余計なお世話よ! 私はちゃんとビタミン・サプリとか飲んでるから、栄養とかそう言うのは、大丈夫何ですぅー!!」

「まあまあ、2人とも」

 有栖川が、そこでとりなしに割って入ったので、俺は奈々美との間に突如として勃発した、この不毛な焼きそばを巡る論争をクールダウンする事にした。

「ああ、済まん。つい、カッとなって仕舞った……」

「フン。何よ、成海ったら。いつかインスタント焼きそばの美味うまさに号泣すると良いのよ。うん」

「お前にとってはそれが泣く程に美味くて、毎食でも食べたいくらいなんだろうがな。俺にはたまに食う位で十分だ」

「まあ、とりあえず、そう言う焼きそばの話は。また今度にしてくれ無いかな」

「ああ、関係無い話してごめん……。うん、分かった」

「所で、その成海君と奈々美の話を一旦、決着して終わらせる為に、少し、奈々美に聞いて置きたい事があるんだけどなあ」

「良いわよ。何?」

「去年、2年生の1学期までの範囲をおさらいしたって言うから、一応、聞くだけど……奈々美は、正弦せいげん定理ていりって、何だか、分かるかなあ?」

「ん? セーゲンテイリ? 何それ?」

 あの今から1年ほど前の昔に教えてやった内容をすっかり忘れているこの奈々美の様子を見て、俺は口を挟む。

「何だ、やっぱり覚えて無いじゃ無いか。松原。お前、今有栖川が言った三角関数は、その時、俺が教えた範囲にちゃんと入ってるぞ?」

「ん、三角関数……? それって、ピタゴラスの定理みたいな?」

「当たらずとも遠からずな事を言うな。何だ、三平方さんへいほうの定理って? 三角しか合って無いじゃ無いか」

「そんな……。ぐぅうう! くやしいぃいいい……!」

 奈々美の隣にいる永瀬の顔を見ると、必死で笑いをこらえているのが分かる。

 一応、三平方の定理も、平面上に描かれた三角形のそれぞれの辺の長さの関係性に付いての定理である以上、厳密に言えば、それぞれの角と辺の長さの法則性である三角関数と、全く関連してい無い訳では無い。

 例えば、sinサインとかcosコサインとか言う狭義の三角関数の中の加法定理を使った、三平方の定理の証明方法も数学上は存在している。

 しかし、それらの内容は、特に理系の大学への進学を目指していると言う訳でも無い高校生の覚えるべき内容としても、また、奈々美の理解力のレベルとしても複雑で難し過ぎるので、俺はそれには言及し無い事にした。

 悔しがっていた奈々美は、何か思い当たる事があったのか、急に真顔に戻る。

「あ、でも、三平方の定理はちゃんと分かるわよ。三角形の辺、a、b、cとある場合、斜辺をcとすると、aの2乗足すbの2乗は、cの2乗って事でしょ?」

 奈々美は机の上に置いたシャープペンを取り出すと、前回のグループ・ワークの研究で使ったノートのページの余白に、下手糞なタッチで三角形を描き、それぞれの辺に対応するローマ字を付した。

「あのな……そんなのは中学校で習う範囲だから、分かっていて当たり前なんだ。て言うか、その定理っていつでも成り立つ訳じゃ無くて、平面上に描かれた直角三角形の場合だけだぞ? まあ、長辺の事を斜辺しゃへんって言ってるから、その三角形が直角三角形なのは、自明じめいだと言いたいのだろうが」

 そんな俺の指摘に、奈々美は厳然げんぜんとして言い張る。

「何言ってるのよ! これは直角三角形よ! ほら、ここの隅の角に、四角が書いてあるじゃない」

「ああ、本当だ。じゃあ、良いか。で、他には、何か思い出せ無いのか?」

「数学の他に、化学と古文も教えて貰った気がするけど、今直ぐには無理よ。そんなに昔の事、急に思い出せ無いし」

 このやりとりで、有栖川は裁定を下した様だ。

「はぁ……。どうやら、かつて成海君が奈々美に施した学習の効果は、今では、大分だいぶ薄れて仕舞ったみたいだなあ」

 友人の物忘れの良さに意気消沈した有栖川は、うなだれる様に椅子に座った。

「かも知れ無いな……。おい松原。お前はあの時、俺が教えてやった内容を、本当に1つも覚えて無いのか?」

「え? まさか、そんな訳無いでしょ、グシシッ……。いや、すぐには思い出せ無いけど……」

「ほら見ろ。それが笑い事か」

「でも、学習の効果である記憶って、今日みたいないお天気の日に、アスファルトの上に水をいて作った水溜まりの様に、時間の経過によって消えく物だし……」

「蒸発・す・る・な! ったく、揮発性きはつせいメモリか、お前の海馬かいばは!?」

「は!? 揮発性って何よ? 何? 私がRAMラムなら、すみれがHDDで、成海はSSD? 良いわ。後で私達低速コンビの2人で、このスマート・メディア気取りの馬鹿をとっちめる為の算段さんだんを、隠れた所でしてやるから」

 馬鹿はお前だ。

「低速コンビって、それ、私の事なのかなあ?」

 と、聞き捨てならない言葉が耳に入ったのか、有栖川は明らかな作り笑顔で奈々美にそう問い掛ける。

 おい、有栖川まで怒らすな。

「別に普通と比べて低速って訳じゃ無いけど、ハードディスクって、SSDよりもデータの読み出しが遅いんじゃ無かったかしら? 低速コンビって言うのは、そう言う、比較的って意味でのコンビ名」

「ああ……。でも、低速コンビって、何か、嫌なネーミングだなあ……」

「コンビを結成するな、コンビを。おい、松原。一応指摘しとくが、その3つの中だと、読み出し速度はRAMが最速だぞ? 何が低速だ」

「え? そうだっけ? じゃあ、私が最速って事? 何だ、もうコンビ解消か……。まあ、最速じゃあ、しょうが無いわよね」

 お前が勝手に相方に指定した有栖川の方は、そんな鈍臭どんくさくてトロそうな名前のコンビ、さっさと解消したいみたいだぞ?

 俺は話題を本題に戻す事にした。

「そうじゃ無くてだ。俺が言いたいのは、お前は以前に習った事とかやった事を、忘れ過ぎだって事だ。1年も前の事をすぐには思い出せ無いって、それは誰でもそうなんだろうが、それにしたって1つも思い出せ無いとか、幾らなんでも、学習の効果が薄れ過ぎだっ。全く、あの時、俺は何の為にお前に時間を使ったんだ?」

「うーん、2年生の1学期の……期末試験で赤点を回避する為?」

 そこで俺は、深い深い溜息をく。

 全くこいつは、俺の時間を本当に何だと思ってるんだ。

 あの時の俺が、期末試験に自信が無いと泣き付いて来た奈々美に、数時間ほども費やしてそれに出そうな範囲を懇切丁寧こんせつていねいに教えてやった苦労は、どうやら、無駄骨だった様だな。

 って言うか、この奈々美の勉強やら成績の話って、本題だったか?

「何よ? 成海、あんたは何、そんなゲンナリした顔でこっちを見るのよっ? 半年以上も前とか、そんな前の事、忘れてても、別に不思議じゃ無いじゃなーい! 私だって、女子バレー部と推小研すいしょうけんの部活の他に、委員会活動とかがあって、色々と忙しいんだしっ」

 そう言う奈々美に、俺は疲れた声で反論する。

「そうか? それは……ここにいるみんなだって、大体同じだと思うぞ?」

「成海は図書委員だから良いけど、体育祭実行委員は、この7月に入る前の時期、とても忙しいの。だって、体育祭があるのって、1学期の期末テストが終わった夏休み直前だし」

「それは、そうなんだろうがな……」

「って言うか、体育祭実行委員の仕事って、何か私向きじゃ無い気がするのよね。そうだ、面倒臭いから、代わりに成海がやってよ?」

 全く、突拍子も無い事を言う奴だ。

「はぁ? おい、松原……自分から立候補して任された委員会活動を、お前は他人たにんにやって貰うのか?」

「だぁってえ、何か面白そうな仕事かと思ったら、書類の記入とか、そんなんばっかりだし……。一応、当日は白線引きとか、競技に使う器具の用意とか設置もするから、それはそれなりに面白いから私がやるけど……」

 如何いかにもダルそうな口振りで、奈々美は自分の属している委員会の活動への不満を述べる。

「全く、自分が面白いと思う事だけをやって、良く学校生活がきちんとやって行けると思うな? もう呆れるのを通り越して、むしろ、感心するぞ」

 全く、こんな無責任で好い加減な奴が高校3年生で、しかもこの学校の誇るそこそこ強豪の女子バレー部の部長をしているとか、世も末だ。

 もうお前は3年生を名乗ら無くて良いから、この先は1年生の教室で勉強して、入学時点からもう1度やり直して来いと言いたい。

「だからって、何もつまん無い事をわざわざ自分がやる事は無いでしょ……」

 奈々美はそう言ってまたブツブツとこぼす。

「お前は知ら無い様だからな、良い機会だから教えといてやる。いか? 体育祭とか文化祭とか合唱コンクールみたいなお祭りって言うのはな、一般論としては、当日よりもその準備の方が楽しいもんなんだ。お前自身はともかく、少なくとも、世間の認識ではそうなんだっ。だと言うのに、松原は随分と勿体無い考え方をする奴だな? 実行委員として書くべき書類があるなら、それを見ながら体育祭の当日を想像しろ、当日のにぎわいを」

 奈々美は舌を出して目をつぶりながら言う。

「ベーッ! そんなの、源氏物語を読みながら少年漫画の内容を想像するぐらい無理! あれを見ながらそんな事を考えられる成海は頭おかしいわ。うん、きっとそうに違い無いしっ」

「そんな訳があるか! 俺の方こそ、ごく普通だっ」

「奈々美、漫画好きだからなあ……」

「うん、そうよね。私、この学校に漫画読書部があれば入ってたと思うわ。タダで好きなだけ読めるし。ああ、漫画読書部、誰か私の為に作ってくれ無いかしらね」

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