第59話 自然淘汰
公園の染井吉野が葉桜をつけ、八重桜が蕾を開いた。
周囲には犬の散歩をする中高年と、キャッチボールする少年だけだ。
若い父親が赤子を抱いてコンビニエンスストアに入っていった。
すれ違うママチャリに子どもの姿はない。
スーパーマーケットやドラッグストアの紙製品は、いまだ不足している。
今はストックする時期ではないと思い、必要な分だけを買い物かごに入れる。
マスクをせずに出あるく若者の多さに驚く。
飲食店は看板の照明を消し、ガラス戸の向こうには店員の姿すらない。
歩道を塞いだやからが、顔を突きあわせて怒なっている。
ふだんなら、とても過ごしやすい街だ。
治安もけして、悪くない。
だが、今回の事態で居住者のリテラシーを疑う機会が増えた。
朝食をとるとき、コーヒーの風味を感知できるか否かを確認するのが日課になった。
野菜サラダの青臭さや、食パンの香ばしい小麦の甘味を感知できるか否か。
コロナウィルスの罹患が疑わしければ迅速に動けるように。
自宅から近い保健所に、できることなら高齢者の少ない時間帯を予約して徒歩で訪ねる。
何度もシミュレーションする。
昼職は時短や自宅待機が始まった。
夜職は夜間外出自粛要請の影響でワークシェアリングが始まった。
一日のキャストの出勤人数も僅少に制限されている。
生活費の捻出が主でキャバ嬢をしている熟女は、欠勤要請がない限り出勤するが、命がけだ。
特別給付金の給付が確実なら黙って家にいたいが、手元に届くまでは、そうも言ってはいられない。
生活か、生命か。
生命か、生活か。
究極の矛盾が続く。
“コロナウィルス対策店”と銘打った同業店が突如として現れたが、何をどう対策しているかは不明だ。
従事者の私が言うのもなんだが、この緊急時にキャバクラにくる客は、よほどの馬鹿だ。
接待なら延期すればいい。
それで双方、合点がいく。
「俺は絶対に感染しない!」
「俺はいつ死んだっていいんだ!」
プライベートでキャバクラにくる客は、精神論者か潜在的自○志願者なのか!?
根拠のない自信を持つのや、己の最期を思うのは勝手だが、不覚にも他人を巻きぞえにしてしまっては取りかえしがつかないではないか!
どんなに親密な嬢だからといって、自粛要請の最中、誘われて断れない理由などあるだろうか!?
どんなに耐えがたい孤独だからといって、生命の危機より耐えがたい孤独などあるだろうか!?
私は自身の生活云々の狭量で指名客を生命の危機にさらすことはできなかった。
目先の利益を追及すれば人間性を疑われ、彼らは私の元を去るだろう。
今は、じっと我慢のときだ。
ありがたいことに、私の指名客は社会通念をもった方がほとんどだ。
『しばらく様子を見ましょう。また、お目にかかれるときを楽しみにしています。それまでお元気でお過ごしください!』
『しばらくは同伴も来店も要りません!○○(指名客の名前)さんの命を守ります!』
親しいお客様のなかには、いつ誘われるのか!?と気を揉んでおられる方がいるかもしれない。
私は腹を決めて先手を打った。
いつもそうなのだが、緊急時には自分にとって大切な人とそうでないクズとが淘汰されていく。
利己的な人はこそこそと私の元を去り、利他的な人は相変わらず私のそばにいてくれて、お互いを気遣い励ましあいしながら苦境を乗りきるのだ。
今回、それが最も顕著だ。
事態が終息するまで、今、自分ができることを精一杯しよう。
多忙な季節が戻るまで、知力や体力を蓄え、精神力を鍛えよう。
そして、一人でも多くの人が一日も早く心身の健康を取りもどせますように。
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