第56話 美しき者
週末だというのに客の引きが早い。
ふだんなら二波三波と続くのだが、それもない。
クソみたいなフリー客や、クソみたいな嬢のクソみたいなヘルプ(指名嬢が同伴((買い物や食事などをして客と嬢がいっしょに入店すること))や指名被りの際に手伝いをする嬢)につけられ、待機席に戻る。
こんなとき、自ら取捨選択しているとはいえ、クレイジーな顧客を抱えていない己の脆弱性を思いしらされる。
まともな客は皆、家路を急ぎ、人影少ない繁華街には妖怪臭だけが滞留している。
新型コロナウィルスをも恐れない“妖怪さみしんぼう”が、ふらふら往来している臭いだ。
日が変わるよりずっと以前に開店休業状態に陥る。
「来店予定がなければ上がってください……」
申しわけなさそうに店長が言う。
キャバクラは売上が物を言う世界だ。
どんな汚い手を使ってもいい、指名客を呼べる嬢が店に長く滞在できる。
こんな非常事態だからこそ、指名客が呼べなければ悪条件を甘受するしかないのだ。
不平不満を口にする嬢がいるが、気に食わなければ、さっさと辞めてしまえばいいのだ。
店の人間はそれを望んでいる。
キャバ嬢は使いすてだ。
まして、使えないキャバ嬢の変わりなど腐るほどいる。
すがりつき、ぶら下がる分際で文句を言うのは、飼い主の手を噛む犬と同じだ。
失意のなか、ほかの嬢たちと更衣室で帰りじたくをしていると、枕営業の嬢が太客(大枚を叩く指名客)と喋るイキった声だけが聞こえた。
「お疲れ様でした」
嬢や黒服(男性従業員。黒いスーツを着用している)にあいさつして店を出る。
手持ちぶさたの客引きに会釈し、大通りの交差点をわたって駅に向かう。
ほろ酔いで威勢のいい若いサラリーマンの一団が少し前を歩いている。
すると、ロードバイクに乗った男性が私と一団の横を追いぬいていった。
一団の手前で小さな黒い物体が硬質な音を立てて歩道に落ちる。
一団が一斉に動きを止めてそれを見ている。
次の瞬間、そのうちの一人がそれを拾いあげて走りだした。
「絶対間に合わないって!」
同僚らしき男性が叫んだが、若いエネルギーはあっと言う間に小さな点になって、ロードバイクの男性が消えたのと同じ脇道に消えた。
その一瞬の判断が、聡明で、勇敢で、すがすがしく、美しかった。
彼はロードバイクの男性に無事にスマホを届けることができただろうか?
終電にはまだ、時間があった。
同僚たちは彼の帰りを待っただろうか?
マスクの転売や紙製品の買いしめが横行し、人間の浅ましさばかりが露呈するなか、こんなにも美しい精神の若者がいることに驚愕し、震えた。
一瞬の判断はその人の核心そのものだ。
近ごろの若者は!とか、世も末だ!と慨嘆するのは簡単だが、彼に倣い、彼のような若者に未来を託すのも悪くないと思えた。
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