第37話 老害

 おじいさんの口臭は遠くまで臭う。

 中秋のころ、ワンブロック先の金木犀が香るのと同じくらいに、だ。

 スーパーで買い物をしていて異臭がすると思ったら、その先でキャッシャーのお姉さんを捕まえてガハハ!と口角泡を飛ばすおじいさんがいた。

 換気の悪いキャバクラのような空間では、滞留してさらに臭う。

 隣につけられてしまった私は諦めるしかなかった。

 おじいさんはよく喋った。

 外から見える保険適応の部分入れ歯で

「俺は金持ちだ!」

と豪語した。

 歯間に詰まって腐った残滓が唾といっしょに飛んでくる。

『きったねーな!くせーんだよ!ドレス弁償しろよ!』

と怒る気にもなれない。

「きちんと歯を磨きなさい!」

と諭す気にもなれない。

 キャバクラという異空間で肩肘張って頑張るおじいさんを、今さら傷つけてどうなるというのだ?

“知らぬが仏言わぬが花”と言うではないか。


「君気に入ったよ!名刺ちょうだい!」

 気に入られる努力をしたつもりはないが、嫌な素ぶりを見せなかったせいか場内指名(フリー客から取る指名)されてしまった!

「なかなかいい女だよ!」

 ある特定の年代の男にありがちな上から目線のポーズが切ない。

 女性蔑視というよりは“男らしさ”に執着しすぎて形骸化し、女性への接し方を学習してこなかった年代の男たちだ。

 おじいさんも風潮に流されて“個人学習”にはいたらなかった多数派のひとりだ。

「ありがとうございます」

 観念して差しあげる。

「うん。またくるよ」

 うれしそうに名刺を眺めている。

「ありがとうございます」

『またうんこ口臭の残滓入り唾シャワーにさらされるのか。ドレスもそのまま捨てることになるだろうから新調しなきゃだし、なかなか地獄だな』

 相手が相手なら

「我慢料!割増で!0がひとつ足りないよ!」

と抗議したいところだ。

 だが、誰に頼まれたわけでもないのに私は、ほとんどの感情が同情になってしまった。

 そうとも知らず、はしゃぐおじいさんが気の毒だった。


 臭覚には習慣性がある。

 だから皆、自分の臭いには鈍感なのだ。

 口臭のキツい嬢が客の悪臭を指摘するとき

『あなたもだよ……』

と、ひそかに思う。

 

 私はパートナーに

「臭わない?」

と定期的に確認するようにしている。

 忌憚なく答えてくれるのは、ごく親しい間柄の人だけだからだ。

「肌荒れてるけどどうしたの?」

 率直な疑問はありがたいばかりだ。

 だから、一瞬は傷つくけれど、知って改善できるほうが個人的には楽で“知らぬが仏”は間抜けで恥ずかしいのだ。

 だが、自分がおばあさんになって老人特有の改善できない箇所を指摘されるとき、そう言いきれる自信はない。

『“知らぬが仏”のままでいさせて!』

と思うかもしれない。





 




 


 

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