第34話 チンパンジー②

「あーらぁ!どうもぉー!いらっしゃいませぇー!今夜はどうなさったんですかぁー?」

 大げさに他人行儀に少し離れて座る。

「じゃあ頂きますねぇー!」

 Kの返答を待たずに

「お願いしまーす!」

ボーイを呼び

「スパークリングワインを!グラスで!」

一杯二千円のドリンクを頼んだ。

 今夜は本指名ではなく場内指名(フリー客から取る指名)だ。

 私はつけまわし(嬢を客席につけたり、客席から外したりする係。俯瞰力が試されるため、ある程度のキャリアを要する)と寝ていないので、本指名に切りかえす融通は利かせてもらえない。

 売上になるのは場内指名料とドリンクのキャッシュバックだけだ。

「かんぱーい!」

 ボーイが運んできたフルートグラスを一瞬で空け、背中を向けたばかりのボーイを呼ぶ。

「お願いしまーす!同じ物を!」

「かんぱーい!」

 また、一瞬でグラスを空けてボーイを呼ぶ。

「お願いしまーす!」

「おいおい!」

 さすがにKが止めに入った。

「え?何か問題でも?ほかの子つけましょうか?あ、そっか!グラスだとあっという間だからボトルで貰おう!」

 私は努めて無邪気にメニューを開く。

 ボトルは20%がキャッシュバックされる。

「お願いしまーす!〇〇を!」

 それでも、遠慮して可愛らしい値段のシャンパンを頼んだ。

 この間、Kはうろたえながら低く唸っているだけだった。


 ボーイがアイスペールに入ったシャンパンとフルートグラスをふたつ、持ってきた。

「俺は飲まないよ。この人だけ……」

 一杯目をボーイが、二杯目をKが注いでくれた。

 沈黙が続く。

 自分で火種を撒いておいて無責任な男だ。

「私に言いたいことがあるならハッキリ言いなよ。そのために呼んだんでしょう?私が嫌いなら私の欠勤日にくればいいじゃない?」

 そうではないとわかっていながら焚きつける。

 我ながら鬼だと思った。

「あてつけなんて女の腐ったのじゃない!」

「ああ!どうせ俺は女の腐ったのだよ!」

「腐ったので終わりたいの?」

「充分だね!」

 相変わらず卑屈だ。

 個人の精神構造は簡単には変わらないのだ。

「俺はクズだから……」

とか

「俺はいつ死んでもいいんだ……」

とか。

 嘆かれるたびに

「そんなことないよ!Kさんは優秀じゃない!必要とされている人は簡単には死なせてもらえないよ!」

と美辞麗句で励ました。

 Kは賛辞を激しく欲していた。

 実際、優秀でKを慕ってついてくる部下も多いのだ。

 だが、本人はそれだけでは不満足のようだった。

『基本的な何かが枯渇している』

 それがKの生いたちに端を発しているのは薄々わかっていた。

 それでも、私は愉楽の空間を切りうりしているだけのキャバ嬢だ。

 単なる客であるKの人生に巻きこまれる面倒は避けたかった。


「店をやらないか?金は出す。キャバクラは高いし、せわしないから。ゆっくり寛げるスナックをさ。そうしたら毎日通うよ」

 私への独占欲からだったのだろう。

 いつのころからか、Kは自分の人生に私を引きいれようとしはじめた。

 だが、Kには妻子があった。

 一時の感情で突っぱしる、身勝手で無責任な提案だと思った。

 そんな男に惹かれるはずもない。

 それでもKが執拗に誘うので

「ほかのお客さんが望まないよ。Kさんのためだけに出店するわけにはいかない。私の人生の変化は私自身が決める!」

きっぱり、お断りした。

「俺はこんなにも〇〇(私の源氏名)ちゃんのことが好きなのに!」

 泥酔してKは訴えた。

 もう、うんざりだった。


「指名替えしたいならすればいい。私は今まで綺麗に仕事することを心がけてきた。トラブルも極力避けてきた。それはこれからも変わらない。面倒な人とはかかわりたくない。お客さんはお客さんであってそれ以上でもそれ以下でもない。だから私はあなたの個人的な要求には応えられない。安易に応えてくれる子がいいならそういう子を指名すればいい」

 Kが苦悶の表情で聞いている。

『殴りたいなら殴れ!』

 私はそう思った。

『私のことが好きなんだろう。私の顔が、髪が、肌が、体つきが、ブレずに忌憚なく話すのが』

「〇〇(私の源氏名)ちゃんは大人で高度すぎる。俺なんておこちゃまだからさ……」

『それでも私が好きなんだろう。落ちない私がもどかしくて悪あがきしているんだろう』


 人の気持ちは止められないのだ。

 某メンタリストは言った。

“人は恋をすると判断力がチンパンジー並みになる”と。

 まさにKはチンパンジーだった。

 私への想いの強さからではなく

『どうして俺を愛してくれないんだ!』

という自分自身への強いこだわりから、拗ねて、イジケて、こじらせて、私の反感を買い、私を疲弊させ、絶望させた。

 それは他愛ではなく、Kの自己愛そのものだった。


 ふと“キャバ嬢の私”はチンパンジーにはなれないのだと思った。

 仕事の枠を超えてプロ意識を崩壊させてくれるほどの客に邂逅していないのだ、とも……。


「今日はもう帰る!お会計!」

 チェックまで時間があったが、私はKの申しでを受けいれた。

 その夜の私が

「えー!?もう帰っちゃうの?もう少し話そうよ!」

などと切りかえさないのを、Kは百も承知だっただろう。


 二人並んで無言でエレベーターを待った。

「ごちそうさまでした。ありがとう。お気をつけて……」

 職業病で反射的に言ってしまう

「またね!」

の言葉を飲みこんだ。

 打ちひしがれたKが扉の向こうに消えた。

 他人事のような遠景だった。


 その深手を不意にせず、少しでも女心を学んでくれていれば……。

 今後、Kが深手を負う機会も減るだろうと、それだけを願った。






 



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