第10話 泣かない女

『暑いよ!』

『寒いよ!』

『明るいよ!』

『暗いよ!』

『うるさいよ!』

『眠れないよ!』

『痒いよ!』

『痛いよ!』

『お腹が空いたよ!』

『ミルクが熱いよ!』

『オムツが湿って気持ち悪いよ!』


 赤ん坊が泣くのは要求を満たそうと庇護する者に訴えているからだ。

 泣きつづけられるのは、それが必ず満たされると確信しているからだ。


 私は泣かない赤ん坊だったらしい。

 それは母の記憶だ。

 オムツが濡れていると気難しい顔をしてうんうん唸るので、母が気づいて取りかえたそうだ。

 言葉を覚えるのが早く、たどたどしい単語で直接要求したそうだ。

「あんたは本当に手がかからない赤ん坊だった」

 こともなげに母は言う。

 赤ん坊の私は予見していたのだろうか?

 泣いたところで、いずれ、訴えや要求は満たされなくなると。

 庇護する者は儚く消えてしまうと。

 そのときに備え、泣かないことでシミュレーションしていたのだろうか……?


 大晦日、実家に帰った。

 そうはいっても、賃貸の壁の薄い小さなアパートの一室だ。

 すべてを失った母の、終のすみか。

 父は放蕩のすえ、私が成人する前に他界した。

 彼らは家族という単位を利用して自由に生きた。 

 さかのぼれば、脈々と継承されてきた黒い家族史。

 父母が過ごした不遇な子ども時代。

 ともに犠牲者である私たち。

 だから、赦さなければ。

 赦して解放されなければ。


 大晦日の夕方、母の住む街で待ちあわせ、駅前の老舗のそば屋で年越そばを食べる。

 それが毎年恒例になっていた。

 そのあと、混雑するスーパーで酒や惣菜や果物を買いこみ、母の奇妙な友人に出くわすたび、母に催促されて

「いつも母がお世話になっています」

と形ばかりのあいさつをするのだった。

「〇〇さん!」

 チンドン屋のような格好をした婆さんをわざわざ引きとめ

「娘なの!」

と自慢げに言う。

「あらそう……。全然似てないわね」

 舐めるような視線で私を査定した婆さんが不躾に言う。

 母と私は顔立ちや背格好はもとより性格にいたるまで、まるで似ていないのだ。

「独り者だからさ!羨ましいのよ!」

 婆さんが去ったあとで母が吐きすてた。


 駅前のスーパーから、そう遠くはないアパートまでの距離を、ひょこひょこ歩く母。

 私はうしろについて同じペースで歩く。

 久しぶりに娘に会えたうれしさでお喋りが止まらず注意散漫になり、道ゆく人とぶつかる。

 危ないので

「帰ってからね!」

と、たしなめた。


 アパートに帰ると、私が宅配便で注文していたお節料理が届いていた。

「昼過ぎに届いたのよ」

 スーパーの袋の中身を冷蔵庫にしまいながら母が言った。

 〇白歌合戦を見ながら、買ってきた缶ビールを開けてチーズをつまんだ。

 なじみの演歌歌手の歌を口ずさみ、顔も名前も知らない若手歌手の歌をBGMに世間話をして、途中、交代で風呂に入る。

 洗面台の棚に男物の剃刀と歯ブラシが二本、立ててある。

 煙草を吸わない母が惜しみなくカートンで○ブンスターを買うのは、この男のためだ。

 昔から母にすり寄る男の種類は変わらない。

 年末年始、男は大家族に囲まれ、母のことなど忘れて過ごすだろう。


 風呂から上がり、いっしょに“○く年くる年”を見る。

『今年も生きてしまった……』

 ゆるやかな厭世観に包まれる。

 年が明けたので

「「明けましておめでとうございます」」

とあいさつを交わし、私は自分のバッグからお年玉袋を取りだして母に渡す。

「ありがとうございます」

 母はそれを顔の前でうやうやしく掲げて立ちあがると、箪笥の一番上の引きだしにしまった。


 こたつを端に寄せて狭い部屋に布団を敷く。

 部屋の明かりを落としてテレビを見ながら駄弁っていたが、母のいびきが聞こえてきたので、私はテレビを消して目を閉じた。






 


 

 

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