メビウスの輪




 チキチキチキ



「……まさかここまで、精神的に追い込まれているとは思いませんでした。僕がもっと早く気がついていたら……そう思うと悔やまれます」


 チキチキ


 ……チキ


「彼女は以前から、部屋にいると視線を感じると僕に訴えていました。最初はここで昔あった殺人事件の事を知って、幽霊が自分を見ているんだと酷く怯えて……」


 アパートに向かいながら同じ言葉を反芻し、何度もシミュレーションを繰り返す。


「そういう迷信を信じる純粋な子だったんです。だから不動産屋にも、これまでこの部屋の住人達が事故や自殺で次々と亡くなっている事も伏せておくように頼みました……」


 チキチキ


 チキチキチキチキ……


「……僕が部屋に戻った時にはもう、彼女は血の海の中でした……。ただでさえ幽霊に怯えていたところへ、大家さんに覗かれていたのを知って心が壊れてしまったんでしょうね……」


 高志はアパートの階段を、一段ずつ音を立てずに上がる。躍る胸を押さえて静かに、誰にも気づかれないよう。


「……依子。お前はきっと別れ話になんか応じない。グズグズ揉めてたら、専務も一人娘の夫に相応しくないと断を下すだろう。せっかく本人が俺を好きだと言ってくれたのに」


 会社の重役の娘を娶り、順風満帆な人生を歩む……そんな陳腐な夢が、ここ数週間で異常なほど急速に高志の心を占めていった。


 チキチキ……チキ


「さあ……死んでくれ依子。昔の事件と同じように、このカッターで喉をサックリやって自殺。完全におかしくなってたんだと誰もが思うよ……誰も俺を疑ったりしない……」


 三日月に細められた高志の目に、現実は見えていない。

 ただ彼はソレに導かれるまま破滅に向かい、その手は怨念おんねんの刃をもてあそぶ。


「そうそう……キミは一つ勘違いヲしてる。あれはジュンコじゃない。順番の順に子と書いて、ヨリコとヨムンダ……」


 辿り着いた玄関ドアに、高志……いや、ソレは静かに合鍵を差し入れた。


「……ヨリコもよく相手のオトコに名前を呼ばせてた……。デモ最後は必ず、天井裏ニイルボクト目ヲ合ワセテイク……本当ハボクヲ愛シテタンダ」


 チキチキチキ……


「アノ時は、ボクを愛シテいながらドウシテ違ウ男を連れ込むノカわからなカッタ……。今はワカルヨ。見せ付ケテ、嫉妬デ狂ワセテ、キミはボクの身モ心モ……魂サエモ独リ締メシタカッタンダ……」


 気配も音もなくドアが開き、ソレが廊下をゆっくりと滑っていく。


「本当ニ、ワカラナイ事バカリダッタ……。ナゼ階段デボクトスレ違ウ時、キミガ息ヲ止メルノカ、ソノ後『キモイ』ト呟クノカ……。女ガソウイウ裏腹ナ生キ物ダト解カッタノハ、キミヲ斬り刻ンダ後ダッタ……」


 部屋の空間が、彼に支配される。


 誰も、何も、時間でさえも、ソレの静かなる妄執を阻む事は叶わない。


「ボクノヨリコ……ヨウヤクヒトツニナレル。今度コソ、キミダヨネ……。モシ、マタ違ッテタラ……」


 チキチキ


 チキチキ


「マアイイ……キミト溶ケ合ウマデ、終ワリナンカ要ラナイ……。ボクハ、ズット待ッテルカラ……」



 チキ……


 チキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキ……




 ──テーブルに突っ伏して眠る依子の傍らで、パソコンの画面が静かにフリーズした。


 真っ黒な画面にカタカタと白い文字が浮かび上がる。








    キタヨ ヨリコ










 【Endless】


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メビウス 満月 兎の助 @karinto

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