第71話

 自分の頭がさして上等なものでないということは、結子にも分かっていた。考えるのは苦手だし、学校の成績だってよろしくない。


――顔も良くないしなあ……


 天は結子に二物どころか一物も与えてくれなかったわけである。天さんのケチ! もっともこの点については、結子の頭の気持ちを代弁させてもらえれば、


「ロクに使ってもいないくせに何を言っていやがる。ちゃんと使ってみてから、上等か下等かを判断しろ。生まれつきのせいにするんじゃない」


 ということになるかもしれないが、それはそれとして、とにかく結子は自分のことをアホな子であると認識していた。しかし、そうであったとしても、これはさすがにひどいのではないか。これは無い。


――まさか、今日の大大大目的を忘れているなんて……。


 三歩あるいたら全てを忘却の海の底に沈めてしまうことができるニワトリと五分を張れるほどの記憶力の無さである。今度競ってみてもいいかもしれない。どちらが早く物を忘れることができるか。勝った方が真の「忘れ王」となる。


 いや待て待て待て。


 結子は速やかに考えを改めた。これは本当に自分が悪いのだろうか。原因は他にあるのではないか。いや、絶対にあるはずである。自分に都合の悪い考えを改めることに自信のある結子は、


――分かった。カブトガニがステキすぎたせいだ!


 と、水槽の底で微動だにしない地球の大先輩に対して怒りを覚えた。彼(あるいは彼女)に気を取られすぎたため、このような事態に陥ってしまったのではなかろうか。


 待て待て。


 再び思い直す結子。


 やっぱり、カブトガニ先輩は悪くない。冷静に考えてみれば、水族館に来た時には既に現在の状態にあったのだ。今日の目的について全く忘れ去っている状態に。とすれば、来たあとに会った先輩に何ができようはずもないではないか。すると、


――電車のオッサンのせいよ!


 ということになる。電車の中で例のおやじがはしゃぎ過ぎたおかげで心が乱され、当初の目的を見失ってしまったのだ。朝は確かに覚えていたのに。……あのクソオヤジ! 電車のドアに思いきり足の小指をぶつければいいのに! 結子は心中でおやじに呪いの言葉をかけた。


 しかし、電車オヤジに責任を転嫁しても状況は変わらない。


 現在の状況を結子は整理してみた。


 一人の女の子がいる。


 彼女の横にはカレシがいる。


 彼女はカブトガニに夢中。


――オイ!


 結子は自分に自分でツッコんだ。


――ダメでしょ! カレシに夢中にならないと!


 たった今実際にカレシに心奪われたところだった。しかし、既にその心をカレシから取り戻してしまっている。我に返ってしまったのだ。どうしてそんなことになってしまったのかといえば、他でもない、今日の目的を忘れていたということに気がついたからである。気がついてグズグズと考えてしまったからだ。考えなければ良かった。考えず、とりあえず気分のままになすべきをなしてから、自分の記憶力の悪さについて反省すれば良かったのだ。


「どうかした、ユイコ?」


 恭介が言った。


 自分のあまりの要領の悪さにフリーズしていた結子は、その声にハッとすると、ううん、と慌てて答えた。


「行こう」


 恭介が結子の手を引くようにする。


 既に機は逸してしまって、結子はその手に引かれるしかない。そもそもが作戦など無かったわけで、こういう機をとらえることこそが、目的達成の手段だったとすれば、その手段を失った結子には、目的を達成することは絶望的になったと思われた。さっきのような機会がもう一度来ることを祈るしかないが、そうそう機会が回って来るような軽い行為ではない。


 次の展示物の前で、恭介が足を止める。


 水槽の中にいたのは、二十センチほどの大きな巻貝のような生物だった。


 一緒に足を止めた結子は、隣から感嘆の吐息を聞いた。


「オウムガイだ。これさ、理科の教科書で見たことあるよ。でも、やっぱ写真と実物だと全然違うよなあ。スゴイな。なあ、ユイコ?」


「…………」


「ユイコ?」


「そんなんどうでもいい!」


「えっ?」


 恭介が首を捻るようにする。


「オウムガイはダメなのか?」


「全然ダメ!」


「……ユイコ、大丈夫か?」


「もちろん、超クールだよ。超ハイ」


 言ってから、結子は気持ちを落ちつけようとした。自分ががっかりしているからといって、カレシに八つ当たりするようなそんな自分ではないはずだ。


 そうして、水槽の中のオウムガイを改めてじっと見た。


 巻貝の王様のようなオウムガイは、水中で悠然とたたずんでいる。


 結子は、地球の大先輩に対して失礼な言葉を吐いたことを、謝った。そうして、


――わたし、負けません。オウムガイ先輩!


 誓いの言葉を心の中で叫ぶ。


 もしも、今回チャンスが回って来なかったとしても、生きている限りチャンスはある。そうして、もしも今度チャンスが回って来ることがあれば次こそは躊躇なく事を行おう、と結子は決意した。

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