第70話

 バスを降りるとかすかに磯の香りがした。


 海は遠くない。


 結子ユイコ恭介キョウスケの隣を歩き、ぞろぞろとした人の波に流される格好で、水族館へと向かっていった。


 かまぼこ形のガラス張りの建物である。


 受付カウンターで入館料を払い、中に入る。


 館内は空調が効いてひんやりとしていた。


 案内係のお姉さんの指示に従って、結子は恭介と一緒に順路を歩いた。前にも後ろにも人がギュウギュウしていて、歩きにくい。折角の日曜日に魚なんて見て何が面白いのかと、結子は完全に自分のことを棚に上げてぷんすかした。そのとき、自分の手に温かさを感じて、手を握られたことが分かり、驚いて隣を見ると、


「この人ゴミだろ。はぐれるといけないから」


 と何ということもない調子で恭介が言った。何でもないときのスキンシップは嫌がるのに、その必要が認められるときであれば問題ないらしい。結子は、若干、兄に手を引かれる小さな妹のような気分になり、カノジョとしてそんなことでいいのだろうか、と反省したが、


――キョウスケお兄ちゃんっていうのもいいかもしれないぞ。


 と思い直し、ひとりニンマリした。


 そのニヤケ面は首尾よく、見られることはなかった。通路が暗くなったのである。最初の展示コーナーに二人は入ったようだ。


 「生きた化石」というのが最初の展示物だった。生きた化石とは、太古の昔からあんまり形態を変えていない、進化に興味が薄いのんびり屋さんな生物たちのことである。


 結子が恭介と一緒になってまず覗いたのは、大きなお椀のような体にとげのような尻尾を持つ「カブトガニ」だった。広い水槽の底でじっとしている。体長は五十センチくらいはありそうだ。結子はどきどきした。その昔、大和と一緒になってカエルを捕まえていた頃のハンタースピリットを思い出した。


「その辺にいたら絶対捕まえるわ」


 結子は興奮気味の口調で言った。


「え、これを?」と恭介。


「カッコいいじゃん」


「カッコいいか?」


「うん」


「……まあ、ユイコがそう言うなら」


 ちょっと引き気味の声だったが、結子の耳には聞こえていなかった。なおもじーっとカブトガニを見ながら、


「カニっていうくらいだからさ、食べられるのかな?」


 いう。


 クスクス、という笑い声が周りから聞こえてきた。結子の声はたいして大きいものではなかったが、館内が静かだったので、響いたのである。


 結子は恥じ入った。ただし、そういう疑問を口にしたことに対して恥ずかしく思ったのではなく、恭介に自分のせいで恥ずかしい思いをさせてしまったことを後悔したのである。


「ゴメン」


 結子は恭介の耳元で囁いた。


 すると、恭介はそれには何にも答えずに、近くにいた案内係のお姉さんに向かって、


「カブトガニって『カニ』ってついているけど、カニの仲間なんですか? 食べられます?」


 少し大きめの声で訊いた。


 結子はびっくりした。


 案の定、周囲からの失笑は大きくなった。


――頭の悪い中学生だなあ。食べられるわけないだろ。


――きっと、お腹が空いてるんですよ。可愛いじゃないですか。


 という声なき声が聞こえるような気がした。


 恭介の行為は、明らかに自分をかばうためにしてくれた行為である。大きな声を出すことによって自分自身の方に注意を集めようとしているのだろう。結子は感動した。たとえその結果が二人で笑い物になることだとしても。しかし、


「カニの仲間ではありませんが、食べられますよ」


 案内係のお姉さんの声は薄い光の中で軽やかに響いた。


 途端に笑いは消えて、へえ、という感心したような吐息が漏れた。


「中国やタイの一部地域では食用にされているようです」


「美味しいんですか?」


 恭介が続けて訊くと、


「わたしは食べたことがないので何とも。ただ噂によると、美味しくないようですね」


 答えてくれるお姉さん。


「じゃあ、今日のお昼ご飯にするのはやめた方がいいですね」


「というよりも、日本では食べられません。法律で禁止されているんです。絶滅が心配されている生物ですので」


 また周囲から笑いが起こったが、今度のそれはバカにしたようなものではなく、からりとしたものだった。単純に二人のやり取りが面白かったので笑ったという風である。


「ご質問ある方は何でもお聞きください。こちらの方のように、是非新しい知識を得て、お帰り下さい」


 お姉さんが明るい声で言ってくれたので、恭介は大いに面目を施した。恭介が褒められたということは、最初に疑問を口にした結子の恥もすすがれたということである。


 結子は握っていた恭介の手をギュッとした。


「どうかした?」と恭介。


 どうしたもこうしたもない。嬉しいに決まっている。結果がどうということではなくて、自分のために恭介がすぐ行動してくれたということに、心が震えた。


「ありがと」


 結子が小声で言うと、恭介は、「え、何が?」と明らかに照れたような声を出した。


 その仕種が可愛くて、


――どうしよう、なんか今、凄くキスしたい。


 そんなことを思ったところで、結子は愕然とした。


 というのも、このときまでずっと今回のデートの目的を忘れていたことに気がついたからである。

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