第66話

 目覚めると朝だった。何だか気持ち悪い夢を見たような気がするが、覚えてないのでセーフとする。


「おはよう、太陽さん!」


 結子は、勢いよく起き上がると、窓にかかったレースのカーテンをシャッと開けた。降り注ぐ朝日のキスを期待した結子だったが、世界はまるで、和服美人の憂い顔のようなしっとりとした上品な暗さで満ちていた。曇りである。


 現在、朝の六時。休日だろうが何だろうが問答無用で六時に起きるように結子の体は調整されている。ここ四年間の習慣の賜物たまものである。世のお仕事が休みでも、主婦業に休みは無いのだ。


 結子は階下に降りて顔を洗うと、手早く朝ご飯の準備を済ませた。それから、シャワーを浴びる。シャワーから出てもまだ家族は起きてこないので、リビングのテレビをつけてみる。朝のニュースを見る。やたらとテンションの高いニュースキャスターは、プライベートなときもあのテンションなのだろうかとしばし考えて、どうでもいいや、と思い直す。そうこうしていてもなお家族は起きてこない。お腹が空いてきた結子は、ひとりで先に朝食を食べることにした。


 ひとりぼっちの食卓は何と清々しているのだろう、と結子はいつもよりいっそうご飯がおいしく感じられた。なにせお代わりをよそってあげる必要やグラスに麦茶を入れてやる必要がないので楽チンである。食べ終わったところで、ようやく起きてきた家族をしり目にして、結子は着替えのために自室に戻った。


 明日香に選んでもらったシフォンワンピースを身につけて、家族の前に姿を現した結子は、センセーショナルな驚きを巻き起こした。


 家族の口があんぐりと開いている。


「さすが、父さんの娘だ。まるで母さんの若い頃を見ているようだ」


「いい加減なこと言わないでください、あなた。わたしたちが知り合ったのは大学生の時でしょう。それはそれとして、いいじゃない、なかなか」


「いつものお姉ちゃんじゃない! ていうか、誰?」


 家族の賛辞に気をよくした結子だったが、ちょっと服を換えただけでここまで評価が改まるということは、日頃よっぽどしょうもない格好をしているという可能性も考えられて、それはそれでなんだかなという気もしたが、あんまり気にしないことにした。


 時間が迫り、いよいよ出陣の時が来た。結子は、これまた明日香に選んでもらったおしゃれパンプスに足を入れ、肩から斜めにバッグを下げると、意気揚々と家を出た。出たところで、雨の匂いがした。霧のように細かい雨が降っている。出鼻をくじかれた格好になった結子は、回れ右して家の中に戻ると、父に待ち合わせの駅前広場まで車で送ってくれるようにお願いした。父は渋い顔をした。結子はムッとした。


「このどしゃぶりの中を歩いて駅まで行けって言うの? お父さんがそんな人だとは思わなかった」


「いや、まあ送っていくのは構わないんだが……」


 そう言って父は、言葉を濁した。


 じゃあ何を構うのか、結子が厳しく問いただしたところ、送って行ったところで娘のカレシと二言三言交わさなければいけないのが気恥ずかしいとのこと。


「呆れた。そんな人見知り屋さんで、よくお母さんの実家にプロポーズに行けたよね」


「そのときはお母さんの方が恐かったからな」


「わたしはそのお母さんの娘だってことを忘れないでね。行きましょう!」


 結子が容赦なく言うと、父は諦めたようである。弟に向かって、


「せめてお前が父さん似で良かったよ」


 しみじみと言ってから、車を回してくれた。


 父の車に傘を持って乗った結子は、あいにくのお天気に幸先の悪いものを覚えたりはしなかった。はじめから幸運など期待していない。今日のことは全て人のわざでなすべきことである。お天気など何の問題にもならない。雨が降ればこうやって傘を持ち父に送ってもらうだけであるし、槍が降ったときは盾を買えば良い。きっとコンビニで売っているだろう。見たことないけど。


 駅前広場の前には車を一時停止できるスペースはあるものの、長い時間止めることができるスペースはない。長い時間止めたかったら有料の駐車スペースを利用するしかない。結子は、一時停止スペースですばやく車を降りると、父に、もし帰りも雨が降っていたらお迎えを頼むかもしれないと言っておいた。それから、降りなくていいよ、と続けると、父はほっとしたような顔をした。


「後ろからどんどん車、来るみたいだからさ。じゃあ、行ってくるね」


 結子は傘を差して車を出た。父の車はすぐに発車したようである。せめて娘がカレシと合流するところまでは見ていてくれてもいいのに、と思った結子だったが、そのカレシの姿を認めると、父のことは綺麗に頭から消え去った。


 恭介は、少し離れたところ、広場の一角に傘を差して立っていた。現在約束の時刻の十五分前であるにも関わらず、すでに雨の中にいる彼に対して、結子の胸は震えた。結子は、霧雨の中、万が一にも水たまりを踏んだりしないように、気をつけて恭介のところまで歩いていった。

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