第6話

 それから実に三時間の長きに渡って、結子は自分自身の怒りと戦った。戦い続けた。それは結子史上に特筆されるべき死闘となった。というのも、これまで結子は怒りと戦って、それを押し隠したことなどなかったからだ。


「人間は感情の動物!」


 と豪語してはばからない豪胆な彼女は、怒りを覚えたらストレートにそれを表現してきた。ストレートのときもあったし、フックのときもあれば、アッパーのときもあった。右回し蹴りのときもある。そうやって、怒りを覚えたらたちどころにそれを発散してきたのだ。であるので、怒りの炎で相手を燃やし尽くしたことは数あれど、炎の消火に努めたことなどなかったのだ。


 消火活動は困難を極めた。そもそも消火をした経験が無いというのが前述の通り。経験不足。さらには、火を消そうにも消火剤が見当たらない。「わたしにも悪いところがあったんだ。ひっぱたかれても当然かも、よよよ」と思えるような反省材料があれば、それをぶっかけて怒りを消すのだが、困ったことにそんなものは全く見当たらないのだった。わたしは悪くない!


 昼休み、午後のニコマの授業、掃除、そしてホームルームの間、怒りをかき消そうとがんばったが、どうやら敗色は濃厚だった。結子はできるだけ大和の姿を見ないようにした。元凶を見てしまうと、ギリギリのところで抑えている怒りが一気にマックスになって、


「あんたのカノジョに殴られたお返し!」


 と叫んで、音高く往復ビンタを喰らわしてしまう危険がある。それでは折角、明日香の暴力に耐えた意味が半減してしまう。


 長い付き合いである。何らか感じるものがあるのだろう。大和は昼休み以降近づいてこなかった。


 結局のところ、結子は、受けた理不尽に対して湧きあがる感情をコントロールするのに、自分一人の手には余ることを理解した。自己解決を諦めた結子は、応援を頼むことにした。


「聞いてよ、恭介!」


 放課後、生徒用玄関で待ってくれていたカレシに向かって結子は開口一番、悲痛な声を出した。穏やかな顔で迎えてくれる彼を急かして校外に出てから、降り出しそうで降り出さない曖昧な空の下を、明日香の非道を思う存分訴えながら歩く結子。


「だから、一緒に来てくれれば良かったのにさ」


 同情の言葉を交えながら聞いてくれる心優しいカレシに、彼女の怒りは飛び火した。ところかまわず飛び移るのが火の性質である。


 恭介は理不尽な怒りの炎にも動じない。後ろから速足で歩いてきた男子生徒を通すため道を譲ったあと、


「叩かれたのは本当に気の毒だけだど、片桐もさ、それだけヤマトのことが好きだってことだよ」


 なだめるような口調で言うカレシに結子は冷眼を送った。


「あっちの肩持つ気?」


「いや、そういうんじゃないけど……」


「じゃ、どーいうのさ。あーあ、やだやだ。男の子ってさ、可愛い子が何かすると、例えそれが間違ってることでもその子の味方すんだもんなあ。可愛ければ何しても許されるんだ」


 恭介は苦笑したあと、声音を真剣なものにした。


「……片桐はユイコのことが恐いんだよ」


「はい? 恐いってどういうこと?」


「ヤマトの幼なじみがつまんない子だったら気にしないけど、ユイコみたいな子だから気が気じゃないってこと」


 結子は歩きながら腕を組んだ。褒め言葉のようにも聞こえるがどうにも釈然としない。明日香のような美少女が自分の何を恐れるというのか。


「そうでしょ?」


「いや、片桐よりユイコの方がずっと可愛いよ」


 恭介が少し照れながら言う。そういう言葉に素直にポッと頬を染めたりできない結子は、自分のあまりのリアリストぶりにがっかりした。


「ありがとう、キョウスケ」


 一応、礼を言う結子。


 恭介は、カレシとしてなすべきことをなしたのである。カレシには、カノジョのことを世界一可愛い女子だと思っているということを当のカノジョに告げる義務がある。仮に、恭介の言葉がそういう義務感からではなくて本音だったとしたら、眼鏡をかけろという話か、それとも彼の女の子に対する趣味が一風変わっているかのどちらかということになるだろう。とはいえ、仮にそのどちらかであったとしても恭介に対する気持ちは変わらない、と結子はひとりうなずいた。


――ていうか、眼鏡はぜひともかけて欲しい!


「ど、どうした? ユイコ」


 じろじろと顔を見られた恭介は若干体を引き気味にした。結子は組んでいた腕をほどいて、片手を伸ばした。彼女のしなやかな手は綺麗に伸びて、ちょっと離れたところにあったカレシの手をがしっと捕まえた。そのまま、焦ったようにきょろきょろ顔を動かす恭介に構わずに、結子はたっぷり二十歩は歩いてやった。


「誰か知ってる人いた?」


「同じクラスのヤツが手を振ってきたよ。明日、絶対からかわれるな」


「気にしなさんな。わたしは気にしない」


 結子はつないだ手を放した。気分が少し和らいでいる。これが恋の魔法というものだろう。


 恭介のおかげで気持ちは落ち着いてきたが、明日香の件をどう処理すれば良いかはまだ解決していない。ひっぱたかれたまま自分が耐えて事件が風化するのを待つ、などという消極性は結子には無い。起こったことには自らの力でケリをつけるのが彼女の流儀である。


「ま、とりあえず、これしかないな」


 家に帰り、宿題をほったらかしにして寝るまで考えた結果、結子は一つの結論に達した。


 翌朝彼女は隣の家の門前で、大和が出てくるのを待った。

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