幼なじみと呼ばないでっ!
春日東風
第1話
そのクサレ縁が産声を上げたのは今から十年前のことである。
空き地だった隣の敷地に家が建った。バルコニー付き二階建ての中々に立派な家である。結子の住んでいるところは丘を新しく切り開いて作られたニュータウンであって、当時、住民を大募集していた。隣の家はその募集に応じてやってきた家族の新居である。結子の家は一年先輩だった。
工事の音がちょっとうるさかったけれど、隣に新たな家ができていくのを見るのは楽しい見物だった。まるで大きな積み木細工が作られていくかのよう。基礎工事から棟上げへとだんだん家らしくなっていく様子を見ながら、結子は小さな胸を高鳴らせた。
しかし、である。
できるまでは良かったが、できたあとがいけなかった。隣家が完成すると、結子の部屋の窓から見える景色が一変した。それまで彼女の部屋からは、遠くの山並みや麓の街並みが一望できていた。
それなのに――
美しい景物は忽然と姿を消し、代わりに現れたのが白い壁である。家の壁。新築だからそれはそれは綺麗な白であったけれども、残念なことに壁を見つめる趣味は結子にはなかった。今もない。その見事な白とは対照的に結子の気持ちは黒くなった。
失意の結子。
そんな彼女をあざ笑うかのような声が白壁の中から聞こえてくる。壁には四角い窓が一つはめ込まれていて、その窓のガラスを通して愉快そうに笑う坊主頭の少年が見えた。
「ケケケケケ」
隣家の子どもだった。
結子は彼の邪悪な笑みを見たとき、生まれて初めて「憎悪」という感情を学んだ。
――イガグリのくせにっ!
ある日、そのイガグリヤロウが母親に連れられて挨拶に来た。菓子折りを渡しながら建築中の騒音のお詫びと今後のご近所付き合いのお願いを丁寧に口にする母親の横で、やたら鼻水をすすり上げた四歳の少年が、同じく四歳の結子をジロジロ、無遠慮に見ていた。
壁ショックもあってイライラッとした結子だったが、
「いつもニコニコしていましょうね、ユイちゃん」
そう母に教育されてきた彼女は、いささか引きつりながらも口角を上げてにっこりと礼儀を通した。結子は、自分は昔から礼儀正しいお子様だったのだ、と回想する。そんな深窓の令嬢然とした結子に対して、イガ君の一言は秀逸である。
「ブース」
結子の笑顔は凍りついた。
一瞬後、二人の少年少女の間の空気は引き裂かれた。
結子のキック。
左足を軸足にしたそれはそれは美しく力強い右回し蹴りだったと関係者は告げる。深窓にこもっているからといって、ピアノレッスンばかりしていると思ってもらっては困る。というか、もとよりピアノなど無い! 結子は、心の師であるジェット・リー直伝の武術の腕前を見事に披露した。
まともに横腹に一撃を食ったイガグリ少年は尻もちをついた。彼は肉体的なダメージよりも、何が起こったのか分からぬという精神的ダメージに、ちょっときょとんとしていたが、すぐに立ち上がった。その瞳に闘志の炎を燃やし、手の甲で鼻水を拭うようにすると、一方の手を結子に向かって伸ばし、くいくいっと指先で挑発した。彼はブルース・リーのファンだった。
にらみ合う二頭の虎。
今まさに死闘の幕が上がる!
――かと思われたところ、ブルース・イガグ・リーは彼の母親に思いきり頭をはたかれた。
「女の子に向かってなんてこと言うの! 謝りなさい」
上からねめつけるようにする母親に対して、あんまりな仕打ちだと言わんばかりの悲しげな顔で見上げる少年。いい気味である。「ざまみろ」と思っていーっと舌を出してやった矢先、結子は体がふわっと浮くのを覚えた。そのあと、おしりの方から小気味良い音が上がって、とともに激しい痛みが体中を走り抜けるのを感じた。腰を下ろした母に体を抱えられてお尻をひっぱたかれたのである。
互いに互いへの無礼に対して罰を受け、涙目になった二人だったが、相手の手前、泣く訳にもいかない。泣いたら負けだ、という共通認識が二人の間にはあった。ただし、なぜ負けになるのかということは分からない。
「ごめんなさい」と結子。
「ごめんなさい」とイガ君。
二人はそれぞれの親から相手に謝らせられた。なおかつ握手までさせられた。自分は悪くないと思った結子だったが、しかし奇妙なことに、彼の手を握った瞬間、紅茶に入れられた角砂糖のようにわだかまりがすっきりと溶けていくのを感じた。なお不思議なことに、彼の方も自分を認めてくれたことが分かった。
「我、生涯の好敵手を得たり」
そう思ったかどうかは知らないが、二人が相手の力を認め合ったことは確かである。
イガ君は名を
出会いは衝撃的だったが、そこはそれ、お隣同士の子ども同士、二人は仲良くなった。一緒の幼稚園に通い一緒の小学校を経て、中学の二年間を生き残っていくうちに、友情を育んだ。育んだというか勝手に育った。親はなくとも子は育つのである。
そうして現在に至るのだった。
結子はただ今中学三年生であり、もちろん大和もそう。
物語はここから始まる。
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