思想戦線異状なし

百舌鳥

プロローグ

その日に村は焼かれた

『泣きたくなければ、強くなれ』



 頭をがしがしと撫でられながら何度も何度も聞いた声。記憶の中の声の主ことレナードは、胸に幾つもの赤黒い孔を開けて倒れている。見開かれたモスグリーンは、もう閉じることはない。数歩先には、豪快に四肢を引き千切られた敵勢力数人分の死体。首の吹き飛んだ敵兵が名残惜し気に掴んだままの小銃は、レナードの胸板に弾倉いっぱいの風穴を開けたことで満足したかのように白煙を燻らせている。

 嗅覚を麻痺させる血の匂い。コンクリートの壁に床に、散らばる血だまりと弾痕と肉塊。そして、乱戦の中僕を庇って斃れた恩人のむくろ

 きな臭い世界を渡ってきたはずの三年間の中でも、とびきり危機的な状況のさなかにいて。不思議と僕の頭は、目の前で徐々に温もりを失っていく彼と出会ったあの日からの記憶を再生していた。


 世界地図においては中東の小国と形容されるこの国で。僕が三年前まで住んでいたのは、ぎりぎり村と形容できるくらいの小さな集落だった。細い道沿いの荒野を開拓した小さな果樹園と家畜小屋、井戸は村の共有財産。世帯数は両手の指で数えられるほど。小さいながらも歴史は古いこの集落は、急激な文明化がもたらした技術の進歩を敢えて拒否し、時代から孤立することで伝統的な生活を続けている。発展を望み、発達を受け入れた都市部に比べれば不便な生活だったが、それでも皆は満ち足りていた。果樹園や畑の実りを糧とし、皆で共有する。毎朝仕事をこなした後、弟を連れて隣町の学校に行く。

 学校で習うことは共通語英語の読み書き以外にも様々だ。五十年前に勃発したという第三次世界大戦のこと、首都や主要都市などの地理や歴史のこと、世界を取り巻く情勢のこと。朝に来たのと同じ道を引き返して集落に戻るころには夕方になる。

 夜は村長の家を訪れて、古語で綴られた伝説やお伽噺を読み聞かせてもらうのがお気に入りだった。大戦以降国内に普及した共通語こそ隣村の学校で習ってはいたが、この村での日常会話の大部分は、この国特有の古語で交わされていた。古語で語られるのは、かつてこの国に存在していた王家の歴史や、近海に棲みつく海龍を討伐した勇者の伝説。ふるめかしい響きを帯びた古語を紡ぎながら、今ではこんな話も古語と一緒にすっかり廃れてしまったけれどねと、村長の奥さんが哀しそうに微笑むのを覚えている。

 決して豊かではないものの、学校でなら共通語や古語の読み書きを学べる。生活に置ける重要性はそれほどでもないが、都市で果樹園の実りと交換してくる文明の利器もある。鄙びた平和な集落の、ある家の長男として生まれた子供。そんな僕の静穏は、三年前に終わりを迎えた。

 予兆はあった。集落の中心を通る街道を車が通る頻度が増え、しかも武装した男達が乗っているのが度々見受けられるようになったこと。村長の家で開かれる会合の頻度が増すにしたがって、大人達の雰囲気にどこか剣呑さが漂うようになってきたこと。父に連れられて果物や野菜を売りに行く、都市の空気が張り詰めはじめたこと。都市の至る所に設置されたモニタに流れる単語の意味を父に尋ねた時、険しい顔で発せられた『内戦』という響き。せめてこの村だけでも平和がずっと続けばよいのに。末の妹を膝枕しながら母がぽつりと零した言葉が、今も耳に残る。


 それが訪れたのは、僕が十四歳のことだった。いつもと変わらないように見えていたその日、弟と一緒に通っていた隣村の学校からの帰り道。歩き慣れた道の先、集落の方向から立ち上る黒煙が見えた。息せききって駆け付けたそのときには、既に。子どもの想像する火事などよりも遥かに惨たらしい凶行は、どうしようもなく幕を下ろしていた。

 燃え上がるのは、村の皆が丹精込めて管理していた果樹園。開け放たれた家々の扉から見えるのは、なけなしの財産すら奪われ漁られた室内。

 集落中央の広場には大きな穴が掘られており、縁からのぞく炎の舌がちろちろと空を舐めていた。穴の方向へ一歩踏み出せば、むわりと熱気が鼻を突く。どうか、ガソリンの臭気と入り混じるこの匂いが。日常で嗅ぎ慣れた、屠った家畜の肉を炙る匂いであってくれたら。現実逃避にも似た希望的観測を抱きながら。慣れ親しんだ村人達の死体を確かめる勇気もなく、僕は茫然と穴の前に座り込んでいた。


 それでも現実は、僕を放っておいてはくれない。


 背後で響いた破裂音。振り向いた僕の視界に入ったのは、それぞれ銃火器を携行して村長の家から出てくる四人の男達と、彼らの前に倒れている弟の姿。泣き叫びながら生存者を探していた弟は、額に赤黒い孔ひとつ開けて空を仰いでいた。

 男達は未だ僕に気付いていない。弟のことなど気にも留めずに、集落の家から持ち出したらしき貴金属や現金を互いに見せびらかしていた。

 逃げなければ。気付かれる前にここを立ち去らなければ、穴の中の皆の元へ蹴落とされるか、弟と同じ場所に風穴を開けられるかだ。分かってはいても、震える足は動かない。

 見つかれば、死ぬ。十四年の人生で初めて、心の底から湧き上がる恐怖に釘付けにされていた、そのときだった。男達から見て僕と反対側、村の外から獣の咆哮が聞こえた。

 下卑た笑いを浮かべて談笑していた男達の目の色が変わる。母の大事にしていた真珠のネックレスや村長のよく嵌めていた金の腕輪をポケットに捻じ込み、皆の胸や弟の頭を撃ち抜いたのであろう小銃を構えて咆哮のあった方角へ向かう。

 男達の背中が見えなくなった数秒の後に聞こえたのは、数発の銃声。共通語の怒号と共に響いた発砲音は、すぐに悲鳴へと変わる。水っぽいものが潰れるような音が数回、そして沈黙が訪れた。

 代わって何かが近づいてくる気配。一分足らずの時間で武装した男達を圧倒したそれが、次に狙うのは僕かもしれない。なのにどうしてか、立ち上がる気力は起きなかった。

 やがて家々の角を曲がり、僕の前へ姿を現したのは――牛ほどもある、巨大な狼だった。

 獲物を射殺すかのような鋭いモスグリーンの瞳。ダークブラウンの毛並みと口元には、点々と血痕が付着していた。傲然と悠然と、狼は立ち尽くす僕の元へ歩み寄って来る。


「泣きたいか」


 厳しく、深みのある男の声。狼が共通語で口を利いたことよりも、自分が涙を流していることに気付いた衝撃の方が大きかった。狼を見つめる視界が滲んでいるのも、頬が濡れているのも、そこで初めて認識する。

 僕は泣いている。当たり前の日常を踏み躙られて、大切な人々を殺されて。怒りと悲しみに叩きのめされて何もできずに泣いている。脳がようやくその事実を認めた瞬間、涙腺は決壊した。大粒の滴が止めどなくぼろぼろと湧き出る。感情のままに喚き、叫び、しゃくり上げて。僕はその場にうずくまった。

 視界の外。そんな僕を黙って見つめていた狼が、一歩近寄って来る気配がする。

「泣きたくなければ、強くなれ」

 僕が顔を上げた次の瞬間、蜃気楼が空気に融けるように見下ろす狼の輪郭が揺らいだ。曖昧になったシルエットは脈打ち収縮し、そして再度はっきりとした形をとった先。狼と同じダークブラウンの髪にモスグリーンの瞳を持つ。精悍な一人の男が佇んでいた。

「おい、ガキ。名は?」

「……シャヒン」

「なら。シャヒン、俺と共に来る気はあるか?」

 掴んだのは、差し伸べられた武骨な手。それが、僕とレナードの出会いだった。

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