第8話


 松原花音 4



       ※


 五月一日、日曜日。

 世間ではゴールデンウイークの賑わいが色濃く出ている本日、愛名西小学校ソフトボール部は春の市大会に挑んでいた。大会はトーナメント戦。午前中に一回戦が行われ、敗戦すれば即帰宅となる。エースである花音ではあるが、ある事情によりベンチスタート。臨時で先発することとなった五年生ピッチャーは、緊張のせいか練習の成果を発揮できずに毎回失点を許してしまう。愛名西小学校は、四回終わって二対六と負けていた。練習試合でも勝っているし、決して難しい相手でないが、臨時の五年生ピッチャーの緊張が原因の一つだろう。コントロールを乱して四球を連続し、甘いコースをジャストミートされる。投球リズムが悪く、味方の攻撃リズムを崩すという悪循環を孕んでいた。そんな後輩の姿に見兼ねた花音は、投球練習を開始し、五回からマウンドに上がる。鼻に大きなガーゼをつけて。顔の真ん中にガーゼがあるから、物凄く恥ずかしい。特にマウンドは注目が集まるし。けれど、乙女のような恥じらいなど気にしている余裕はない。この事態を招いは責任の多くは花音にあるのだから。試合に集中してストライクを先行させ、どうにかアウトを積み重ねていく。そうして最終回まで投げ抜き、その後の失点をエラー絡みの一点で抑えていた。に対して、花音が出場してから打線が爆発し、八点取って逆転勝利。そんな勢いのまま午後に行われた二回戦にも勝利し、明後日の火曜日に行われる三回戦に駒を進めることができた。残り四つ勝てば目標としている優勝である。その目標を果たすためにも、試合はもちろんのこと、練習もしっかり集中して挑まなければならなかった。


 試合の日の夜、七時三十分。

 すでに夕食を済ませ、日課である愛犬モコの散歩のために家を出た。いつもの散歩コースを歩き、中間地点である青願公園で寄り道をする。

 公園に入ると、さっきまで短い尻尾をちぎれんばかりに振っていたモコが、今は花音の足元でおとなしく伏せをしていた。その姿、実に退屈そうに。

 花音はジャージ姿で、設置されている照明とマンションの明かりに照らされたベンチの前に立っている。隣にはワンピース姿のほのかもいて、横のベンチには黒シャツ黒ズボンの黄金井が腰かけていた。

「まったくもう、ほんとのことなんて言えないからね、転んだことにしたらしたで、みんなにめちゃくちゃ笑われたわよ。『間抜け』とか『ドジ』とか。あー、やり切れない。なんでこんなことになるんだか」

 鼻につけたガーゼを気にかける。年頃の女の子としてはなるべく外出を控えたいところだが、今日は大事な試合だったので仕方ない。ちゃんと勝てたからいいようなものの、怪我の原因を誤魔化すのが大変だった。『転んだ』なんて、うまく誤魔化せたつもりはないけれど、でも、一昨日のことは話せない。

 出かけた美河郡の地で、あんな凄絶な事件に巻き込まれたなんて、とても言えるはずなかった。

 ただ、花音としては追いかけてきた犯人に怪我させられたと都合よく処理しているが、転んだときは触られてもいないので、転んだことは事実といえば事実である。なんとも苦々しい思いに悶々となってしまう。悔しいやら、恥ずかしいやら。ただ、こうして振り返られる未来があったからいいようなものの、当時はそんなこと考える余裕もないほど、超絶な恐怖に追いかけられていたのだから、まさに『必死』や『決死』だった。

「怪我のことで、最初の試合さ、先発から外されたんだよー。別にプレーできない怪我してるわけじゃないから、ちゃんと投げられたのにー」

 転んで顔面を打ちつけたときの激痛は骨折を覚悟するものだったが、骨に異常はなかった。ただし、こうしてガーゼをつけている。ガーゼはガーゼで恥ずかしいが、皮が擦り剥け、赤くなった鼻の方が数百倍恥ずかしいのだから仕方ない。自分でも見ているだけで痛々しいし。

「まあ、昨日の練習に出れなかったんだから、文句言える立場にないけどね」

 昨日の昼まで美河郡にいた。警官に事情を説明して、病院で検査をして、両親には心配かけて、別の警官に同じ事情を説明して、自分でもわけが分からずに泣いてしまって……思い返してみると、確かにそこにいたのに、花音を無視して、意味の分からないことが次から次に目の前を横切っていった印象である。どれ一つとして、自分でまともに処理できたことはなかった。

 ただ、一昨日ことがあったおかげで、これまでよりも神経が図太くなれた気がする。今日の試合だって、チームが負けているのにまったく慌てることがなかった。殺されそうになった一昨日ことに比べれば、試合に負けていることぐらい、どってことない。落ち着いて相手を見つめ、冷静に投球することができたのである。成長と呼べるものなのかは疑問だが、相変わらず暇な中学生が滑り台で下品な馬鹿笑いをしていること、前はいやな気持ちになったのに、あまり気にならなくなっていた。

 壮絶な経験、糧である。

「にしても、あの人に助けてもらえたからよかったけど、あのままだったら、こんな怪我じゃ済まなかったよね。考えただけで……ううー、身震いしちゃう」

 ほのかの家の前で花音が犯人に伸しかかられているとき、正面のアパートから出てきた滝川という人に助けられた。犯人は溝に落ちて気絶、そのまま病院に運ばれたそうだが、いい気味である。

 もし、あの滝川が助けてくれなかったら、間違いなく命はなかっただろう。最初は大きな体をしているから怖かったが、倒れている花音に覆い被さるような感じで上体を屈めて手を差し出してくれたこと、本当に嬉しかった。

 まさに『九死に一生を得る』である。

「黄金井、あんたも大変だったんじゃない? お母さんに迎えにきてもらってたみたいだけど、どうだった?」

「……別に」

 警察から連絡があったのだろう、美河郡まで黄金井の母親が迎えにきた。親子だというのにあまり会話がなく、目を合わす素振りもない。互いが互いを敬遠しているような……けれど、最後には二人で愛名市まで帰っていった。帰りの電車で、いったいどんな会話を交わしたのか、興味あるところだが……きっと黄金井のことだから話そうとしないだろう。そんなやつである。

 ただ、関係が少しでもよくなっていることを願うばかりだった。

「そうそう、ずっと気になってたんだけど」

 一昨日からずっと気になっていたが、周りに大人がいてなかなか話を切り出すことができなかったこと。

「結局さ、叔母さんの幽霊はいたの?」

「……いた」

 実にぶっきらぼう。

「……きっと、信じて、もらえない、だろうけど」

「ふーん……」

 もちろん信じられるはずがない。そんな、幽霊がいるなんて。けれど、思い返してみると、そんな幽霊に花音は助けてもらっていた。玄関を出る際、あの手が犯人の足を掴まなかったら、花音は捕まっていただろう。そもそも、警察の捜査で見つけられなかった犯人の証拠を見つけられたことでも、奇跡のような存在は認めざるを得ないのかもしれない。

 けど、幽霊なんて今までずっと馬鹿にしてきただけに、なかなか素直に受け入れるわけにはいかなかった。

 ただ素直になれないだけ、かもしれないが。

「ねぇ、黄金井、いいこと考えた。あのね、幽霊に事件を解決してもらえるんだから、黄金井は名探偵になれるんじゃない? だって、殺された被害者から直接犯人を聞けるんだから」

「興味、ない……」

「あ、そう」

「そんな、ことより……」

 黄金井は俯いたまま、しかし、体の向きを少し横にずらす。今まで花音と向き合っていたのに、今は横にいるほのかと向き合おうとするように。

「……安心して、いい」

 唐突な言葉は圧倒的に意味を成していなかった。美河郡にいく前の黄金井ならそこまでだが、しかし、今回は意味が補足される。

「……ちゃんと、成仏、できた、から」

「もしかして、お母さんのことぉ?」

「最後、嬉しそう、だった。よかった、と思う……」

 黄金井は満足そうに大きく頷いた。

(成仏、ね……)

 一昨日の電車で、祖父が『幽霊は光』だと言っていた。目で見えるものすべてが光であると。黄金井が本当に幽霊を見えているのなら、それはもしかすると花音たちには見えない『希望の光』を見ているのかもしれない。現に、その目があるからこそ、一度は絶望に沈んだほのかの心を解きほぐすことができるのである。

「よかった、な」

「お母さん……」

 ほのかの真っ白だった表情に、華やかな色が溢れる。

「よかったぁ。お母さん、よかったぁ」

 嬉しそうに目を細くしたほのかの声が震えたかと思うと、双眸から涙が溢れてきた。突如として母親を殺され、死体を目の当たりにすることとなって……ショックのあまり感情が壊れ、ずっと泣くことすらできなかったほのかの瞳が、今は宝石のように輝いている。押し込んできた感情が、ようやく解き放たれたように。

 もしかしたら、ようやく受け止められたのかもしれない。母親の死を。

「っすん。よかったよぉ」

「うん。よかったね、ほっちゃん」

 抱きしめた。涙を流していて、頬を大きく緩めているほのかを、花音は両腕で力いっぱい抱きしめた。鼻孔にはシャンプーのいい匂いがする。それは花音が使っているものと同じもの。

「ほっちゃん、入院してる叔父さんだって、すぐよくなるよ。それまで大変かもしれないけど、頑張ろうね。あたしも力になるから」

「ありがと……」

「うん」

 静かな公園。前の道を乗用車が走っていく。

 花音の胸ではほのかが泣いている。前には黄金井は所在なさそうに腰かけたまま視線を逸らしていた。

(……あれ?)

 近くに設置されている照明の下、猫がいた。灰色と黒色の斑模様で、ちょこんっと座っているので首からお腹にかけて白い毛に覆われているのが分かる。そんな猫がこちらをじーっと見つめて……小さく首を傾けたかと思うと、

『みあー』

 と鳴いた。そのまま跳ねるように歩いていってしまう。それは青願神社のある小高いに丘の方に向かって。

(あの猫、どっかで見た気がするなー……)

 花音はぼんやりと考えて、以前散歩していたときに見かけたような気がするところまで思い当たり……考えている間に猫の姿は見えなくなり、興味は消えた。視線を戻してみると、前にいる黄金井は相変わらず所在なさそうに視線を逸らしている。花音もほのかも、こんなに近くにいるというのに。

(おぉ)

 頭上に電球が光るというか、手をぽんっと叩きたくなるような、唐突に思いついたことがある。それは自然と口角が上がっていくもの。にんまり。

「ねぇ、黄金井、明後日ね、試合があるの。だから、応援にきなさい」

「はっ……?」

 突然のことに、思わず顔を上げた黄金井。目が点となっている。

 花音の口元はますます緩んでいった。

「もちろんほっちゃんを連れてきてね。約束したよ」

「ちょ、ちょっと……」

 今度はほのかが顔を上げた。涙目を大きく見開いて。その影響でまた涙が頬を伝っていく。

 花音は気持ちが高鳴っていくことが分かった。この分なら、これから楽しいことが待っているに違いない。

「明後日の試合、応援してね、ほっちゃん。ほっちゃんが応援してくれたら、ホームラン打っちゃうから。特大ホームランで、球場の伝説になっちゃったらどうしよ?」

「そ、そうじゃなくて」

「三振だっていっぱい取っちゃうよ。なんたってエースだからね」

 抗議するように見上げる瞳を、また力いっぱい抱きしめた。

 今日から五月である。まだ夜の風は少しだけ肌寒さが残っているけど、これからどんどんどんどん気温は上がっていく。躍動的な夏を向けて、どこか寂しい秋に寒くて厳しい冬を越え、また春を迎えることとなる。小学生として残された時間は残り十一か月。精一杯生きていく。

 こうして命がある喜びを実感することができているから。

「やっぱりさ、ほっちゃん、一緒にソフトやろうよ? 楽しいよ」

 抱きしめた体は、とても温かなもの。

「それから黄金井、あんた運動神経いいんだから、何か部活に入りなさい。足速いんだから、陸上部がいいんじゃない? ファイト!」

 生きていく。前を向いて生きていく。

 あんな経験をしたのだから、ちょっとやそっとのことで挫けはしない。

 現状、すぐ傍にいる二人の人間から、苦情にも似た抗議の視線を向けられているが、気にしない。

「あー、明日もいい天気だねー」

 見上げた空には、雲一つ見当たらなかった。マンションや小高い丘によって切り取られた夜空には、点在する僅かな星が瞬いている。

 絶対に、この夜空の向こうには楽しいことが待っている。そう確信できた。

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