第6話


 松原花音 3



       ※


「にしても、忘れ物ってなんなんだろうね、あいつ?」

 振り返って緩やかな坂道を見上げる。道路の先にある山々の緑、向こう側には真っ青の空。それらを目にしつつ、引き返していった黄金井に対して、大きく首を傾けるしかない花音。

「まあ、どうでもいいか。そんなのあいつの好きにさせるしかないもんね。じゃあ、早くおじいちゃんとこ戻ってアイス食べにいこう」

「花音ちゃん花音ちゃん、あのね、その……わたしたちも、家に戻った方がいいような気がするの」

「んっ……? どうしてぇ?」

 花音の目がまん丸になる。

「あんにゃろを信じてるなら信じてるで、それでいいじゃん。別に家を荒らされるわけじゃ……だったら問題ね。由々しき事態だわ。どうしよ?」

「そ、そんなこと、しないと思う」

「なら、いいじゃん」

 花音は一度大きく瞬きする。

「それとも、ほっちゃんはそんなに黄金井のことが気になるのぉ? あれれ、もしかして、もしかすると……好きなの? 黄金井のことが好きなの? もー、やめてよー、趣味悪いよー」

「ち、違うよぉ。そんなんじゃなくて、その……」

「ほんとにぃ? でも、ちょっとは気があるんじゃない? だったら、従姉妹として心配だよー」

「……怒るよ、花音ちゃん」

「あはははっ。ごめんごめん、冗談よ、冗談。そうよね、誰もあんなやつ好きになるわけないよね」

「そんなことないよぉ!」

 瞬発的に返ってきた言葉は、やけに大きかった。出したほのかも自分でびっくりしたように目を大きくさせている。と思ったら、すぐ俯いた。恥ずかしそうに、全身を小さく、くねくねっ。

「……そういう言い方、やめた方がいいと、思う。冗談でも」

「ほっちゃん、やっぱり趣味悪い?」

 だとしたら、これからの学校生活が心配になる。六年一組としての時間はまだ十一か月もあるのだから、変な噂が立ったら大変。でも、本人が望んでいるなら、それはそれでいいのかもしれないが……いや、それじゃ、従姉妹として困る。花音まで変な思いをするような気がして。

 とはいえ、恋愛感情があろうがなかろうが、そんなのは個人の自由。花音が関与すべきではない。

(よし)

 気分を変えるように、花音は今まで組んでいた腕を解き、胸の前でぱんぱんっ! と二度鳴らした。

「まあ、黄金井のことはもういいよ。とにかく、今は帰ろう。病院でおじいちゃんが待ってるよ。ほんとに遅くなると、おじいちゃんが心配してこの坂歩いてきちゃうかも。そんな苦労かけちゃ、孫として失格だわ。よし、帰ろう。それとも、ほっちゃんは黄金井を追いかけたい?」

「うん……」

「そう」

 黄金井を追いかけて引き返すと、祖父に心配をかける。けれど、無理矢理連れて帰ると、ほのかが気分を害することだろう。選択肢として、『ほのかも残して花音が一人で帰る』が適切に思える。しかし、それはそれでほのかと黄金井を二人にすることであり、なんかいやだ。除け者感もあるし。

「じゃあ、こうしよう」

 花音は軽く握った拳を大きく縦に振った。

「いくよー、じゃーんけーん」

「ど、ど、ど、どういうことぉ?」

「あたしが勝ったら、このまま病院に戻る。ほっちゃんが勝ったら、一緒に家に戻る。いくよ、じゃーんけーん、ぽん!」

 相手に考えさせる間もなく、腕を振ると、釣られたようにほのかも手を出す。

 出たのは、パーとグー。花音の勝ちだった。

「はーい、あたしの勝ちねー。ほら、帰るよー」

 目指すは駅近くにある五階建ての病院。周辺に大きな建物がないので、白い外観はここからでも見える。

 花音は坂道を下るように足を踏み出した。一歩、二歩、三歩、四歩、五歩、六歩……けれど、進んだ距離は一メートルにも満たない。その場で足踏みしていたようなものだから。じゃんけんに負けたほのかの表情が、『これでもかぁ!』ってぐらい冴えないものだったせいで。

(うーん……)

 花音は目を閉じて唇を尖らせ、こめかみを指で叩く。

 溜め息は、心でのみ吐き出した。

「……もー、しょうがないなー。ほっちゃんの好きにすればいいよ。家に戻りたいんでしょ、じゃあ、戻ろうか。はい、いくよ。いくんでしょ? なら、早くしよ。ほら、早く。急いで急いで」

「……ありがと」

「ダッシュよ、ダッシュ。早くしないとアイスが逃げちゃうんだから。って、おじいちゃんに頼めば絶対買ってくれるけど」

 ほのかを急かすように足を動かして……県道の信号機の色は赤。いきなり足止めを食らうことに。

(うーん……どうしてこうなっちゃったんだろ?)

 黄金井を追いかけて家に引き返すこと、とんでもなく面倒だが、だからといって腐るほどのことでもない。なぜなら、今頃ほのかの家で黄金井が何をやっているのか、興味がないわけでないから。

(あんにゃろ、待ってなさいよぉ)

 なぜか口角が上がっていた。


 県道の交差点を渡って交番横を通ったが、お巡りさんは机に座って仕事をしているようなので声はかけなかった。前方に戻った視界の隅でお巡りさんがこちらを見た気もするが、気にしない気にしない。声をかけられる前に足早に通り抜けていく……そのまま坂道を進み、深さ三メートルの溝を越え、ほのかの家に到着。あれからまだ十五分も経っていない。

 玄関前に立つ。隣の竹林が『ざらざらざらざらっ』と風に揺れていた。居間の窓前にある何もない物干しは生活感が得られず、なんだか寂しい雰囲気。住居だというのに、人がいる雰囲気がないことが、そういう気持ちにさせたのかもしれない。

「ねぇ、ほっちゃん」

 玄関の引き戸は一見すると閉まっているようだが、よく見てみると僅かに開いていた。先に戻った黄金井が開錠して入っていった証拠である。

「静かにね。しぃー」

 花音は口元に人差し指。鏡はないが、自身の顔に明るい気色が浮かんでいることが分かる。弾む心は、いたずらを思いついた子供のよう。

「静かにね、ほっちゃん。音立てちゃ駄目よ。あいつが何してるのか、突き止めてやるんだから」

 ほのかを背にして、玄関の扉をゆっくりと、なるべく音が立たないように開けていく。両手を格子に添えて、そーと、そーと……。

 開けた玄関からは木目のある壁が目に飛び込んできて、正面にある大きな鏡に花音が映る。空間は、自分が繰り返す呼吸すら気になるぐらい静まり返っていた。正面の廊下が台所につながっている。左右にある扉は閉まっており、左側が居間で、閉まっている扉越しに人の気配が。

 間違いなく、黄金井がいるのだろう。それ以外の人間がいたらびっくりだが、そんなどっきりはあるはずがない。

(あんにゃろー)

 気づかれないように、ほのかを玄関に待たせて、青線のあるスニーカーをそっと脱ぐ。土間に置く際の『こんっ』という小さな音に体を痙攣させつつ、立ち上がった際の体重移動で床が軋む音に、片目を閉じては奥歯をぐっと噛みしめる。薄い氷の上を歩くような緊張感を胸に、扉のノブに手をかけた。

 深呼吸。すーはーすーはー。

 目を見開く。

(さん! にい! いちぃ!)

 体ごとぶつかるように扉を豪快に開け、

「がばあああああああぁ!」

 咆哮。

「がばあぁ! がばあぁ! がばばばばあぁ!」

 居間にいる一人をピンポイントに威嚇すべく、大きく両腕を上げて、部屋に飛び込んでいった。

「わーはははははははっ!」

 直後に、心の奥から込み上げてくる笑い声を上げる。別に相手を馬鹿にするものでなく、慎重から解き放たれた状態が、おかしくておかしくて。

 部屋中央部には、炬燵前で床に崩れている黄金井がいた。まるで花音の襲来に腰を抜かしたみたいに、今は口をぽかーんっと開けて目を白黒させている。なんとも間の抜けた表情。

 そんな黄金井の表情に、花音は狙い通りいったことに自然と口角が上がる。

 愉快痛快。

「こらぁ、黄金井! ほっちゃん家で何やってんだぁ!? 正直に白状しろぉ! ほらほらほらほらぁ!」

「花音ちゃん花音ちゃん、そんな大声出した駄目よ。ご近所迷惑になっちゃう……ああ、黄金井くん、ごめんね、びっくりさせちゃって。あんなことするなんて思わなかったから」

「ほっちゃんが謝ることなんてないよ。だって、黄金井が驚こうが腰を抜かそうが失神しちゃおうが、あたしたちの知ったことじゃないから。だってだって、ここはほっちゃん家なんだから。そんなことより、あんた、いったいここで何してるの? 正直に言わないと、あたしが閻魔様に代わって舌抜くわよ。わっ、今の、決め台詞みたいで格好いい」

『閻魔様に代わって舌抜くわよ』

 得意そうに腰に手を当て、まだ状況が理解できずに体勢を崩している黄金井を見下ろす。

「まさか、ほっちゃん家で変なことしてたんじゃないでしょうね!? だったら、絶対許さないんだから」

 口にした花音も『変なこと』の具体的な想像はないが……とにかく強気で押し切ろうとする。相手は腰が引けているし、なんといっても黄金井だから。

「ほらほら、いったい何してたの? えーと、確か忘れ物したんだっけ? いったい何を忘れたっていうわけぇ?」

 仁王立ち。

 に対して黄金井は、尖らせた唇から長い息を吐き出し……ぼそりと一言。

「……見つけた、よ」

「はい……? 見つけた?」

 予期しなかった言葉に、目が点。首が横に大きく傾く。

「何を見つけたっていうのさ? まさか、後藤家の埋蔵金なんじゃ!? だったら、独り占めは駄目よ。ちゃんと分け前は三当分しないと。えーと、何買おうかしらぁ? この前かわいいワンピースがあったのよねー。あっ、でもでも、思い切ってグローブも新しくしたいしー……ってのか、それって埋蔵金じゃなくてほっちゃん家の箪笥貯金でしょうが。勝手に持ち逃げしたらあたしが許さないからね」

「……証拠」

 賑やかな花音を気にする様子はなく、黄金井は炬燵の上を指差した。

「証拠、見つけた……」

「証拠? あたしの箪笥貯金は一切スルーして、証拠って。ああ、そう。そうなんだ。それはよかったね……んっ?」

 付き合ってもらえない相手の冷めた反応に下唇を出すも……五秒後、花音の頭でようやく『証拠』の意味するところが理解できた。

「ちょっとおぉ!」

 花音がこの家にきた目的は、箪笥貯金を漁りにきたわけでなく、叔母の殺人事件を解決するため。いや、実際にはほのかの気持ちを満足されるためのようなものだが……少なくとも、立ち寄った病院で叔父を前にして、花音はそう誓った。

 けれど、どんなに探しても事件を解決できそうなものが見つからなくて、そもそも花音にそんな力はなく、悔しいけど諦めて帰るしかなかった……なのに、なんとなんと、目の前の黄金井は事件を示す証拠を見つけたという!

 停止した空気が、一斉に動き出していくみたい。

「どれよ!? どれどれどれどれぇ!? どれが証拠だっていうの!? けちけちしてないで、早く出しなさいよ」

「けちけち、してない。けど、その前に……悪い、後藤、ビニール、ある? ちっちゃいから、なくしちゃいそう」

「……う、うん。うんうんうんうんうんうんうんうん」

 突然の展開に気が動転しているのか、ほのかは目を大きくさせて何度も何度も首肯してから、台所の方に走っていく。背中まである髪の毛は、左右や上下といった不規則な動きで揺れていた。


「ふーん、これが証拠ねー。へー。へー」

 スーパーでもらえる透明なビニール袋。そこに小さな爪の破片がある。爪切りで一回ぱちんっと切ったぐらいの大きさ。言われてみると、半透明なそれは僅かに赤黒色が滲んでいる。これが何を示しているのか、見つけた黄金井にもよく分かっていないようだが、しかし、事件を解決に導く鍵であることに間違いないという。

 そうやって幽霊に教えてもらったとか。

 その発言、かなり怪しいけど。

「とにかく、これが本当に証拠だっていうなら、早くお巡りさんに見せにいこうよ。そうすれば、一気に事件が解決するんでしょ? やったじゃない!」

 満面の笑み、から、小さく首を傾げる。

「まあ、世の中そんなにうまくいくもんじゃないから、駄目で元々かもしれないけど、やってみる価値あるもんね。うんうん、これで美河にきた甲斐があったってもんよ。よかったよかった」

 半信半疑だが、何もないよりはましである。

 花音はビニール袋を黄金井に返した。

「あんたが見つけたんだから、あんたから渡しなさいよ」

 そういった手柄を横取りするつもりはない。『わざわざ一人で家に引き返して証拠を見つける』と黄金井が少しでも何かにやる気になったこと、普段の無気力を知っているだけに、嬉しくある。同級生相手であるが、教師や親の視線で子供を見つめる温かな眼差し。

「じゃあ、そうと決まれば出発ね。今度は忘れ物しちゃ駄目よ。って、それがその証拠だったんだっけ」

「……待った」

 今にも立ち上がって玄関に向かっていこうとしていたのに……出鼻を挫かれた。ぷっくりと頬を膨らます。

「なによぉ? こうして証拠が見つかって、せっかく盛り上がってきたところなのに。って、黄金井、ちゃんと聞いてるぅ?」

 振り返ると……黄金井は急におどおどというか、挙動不審になっていた。首を左右に動かしてあたふたしており、まるで何か見えないものに怯えているみたい。

 黄金井の様子、横にいるほのかは、首を傾げている。

 視線を黄金井に戻した。

「ねぇ、今度はどうしたの? せっかく見つけたなら、早くお巡りさんに見せた方がいいでしょ。心配しないで、駄目でも怒られることはない、と思うから。警察だって事件のヒントになる、かもしれないものがあるなら、きっと歓迎してくれるよ」

「……まずい」

 黄金井の表情がさっと青白いものに。

「まずいまずいまずいまずい。早くしないと。早くここから出ないと」

「はあぁ!? それはあたしが言ったことでしょ!? なによ、今さぁ──」

 花音の言葉が途切れた。それは異変を感知して。

 刹那! 怪奇現象が訪れる!

(なっ!?)

 突如として、『ぎぎししぃ!』と派手な音が響いた。大きく壁が軋んだのだ。

 同時に、消されていた照明が点滅する! 三人とも床に座っているので、スイッチの近くには誰もいないのに。

 窓が鳴る。『がたがたがたがたっ!』嵐が直撃しているかのごとく。段ボールの貼られた箇所が裂けた。

 飛ぶ。ものが飛ぶ。鋏や爪切りが宙を舞う。

 棚の上に飾られていた写真立てが落下。

 時計の針が不規則な動きをして、あろうことか目の前の炬燵布団が巨大な生き物みたいに跳ねはじめたではないか!?

(な、な、な、なによぉ!?)

 もはや言葉を失うしかない。

 巨大な地震が直撃しているみたいで、床がのた打ち回り、座っているのに自身の体が不安定に揺らぐ。

 直面することとなった異常事態に、もうわけが分からない。

 心の波は荒れる一方だった。

(なになになになになになになになにぃ!?)

 花音もそうだし、花音のいる空間そのものが混乱している。間違いなく、花音は今、人智の及ばない怪奇現象に直面していた。

「あああああああああああああああああぁぁぁ!」

 それはいったい誰から発せられた奇声なのか……花音のものだったとしても、パニック状態で、認識することもできない。

 直後! 閉じていた扉が開く。

 その音は、花音の心臓を直接鷲掴みにする強大な恐怖を招き入れていた。


       ※


 玄関へとつづく扉が勢いよく開かれる。

「みんな、大丈夫かい!?」

 空間を覆う光が大きく揺らいで……最初は巨大な熊が入ってきたと思った。だからこそ、花音は極限の恐怖に目を閉じてしまったが……けれど、声をかけられたことで、認識が間違っていたことを知る。当たり前だが、熊が喋るはずない。恐る恐る瞼を上げてみると……巨大熊が立っていたと思われたところに、巨体のお巡りさんが立っていた。

「ごめん、変な声がしたから、勝手に上がらせてもらったけど……いったい何があったんだい?」

「何って、そりゃ……あれ?」

 口からは『見ての通りよ』と出かかったが……いつの間にか怪奇現象が収まっていた。窓も壁も震えることなく、変な音が出てもいない。時計の針は正常に動いているし、季節外れの炬燵布団は置かれたまま。

「えーと……」

 二人の顔を見る。黄金井はじっと下を俯いており、ほのかはまだ動揺しているようで目を巨大化させて驚愕を示していた。

(白昼夢ってわけじゃないないみたいだけど……)

 きっと今のほのかと同じ表情をしていたのだと自覚すると、急に肩から力が抜けていった……今こうして不思議な現象が起きていない以上、お巡りさんにはどうにも説明できない。怪奇現象が起きていたなんて、きっと信じてもらえないだろうし。それに、下手に話して、変な風に思われてもいけない。

「どう、しちゃったんでしょう? あはっ、あはははっ……」

 笑いたくもないのに、自然と漏れていた。そうして笑いつづけることで、誤魔化せればいいけど。

「お騒がせ、しちゃいました? あは、あは、あははは……」

「三人とも、なんともないんだね。あー、よかったぁ。みんなに怪我でもあったら、どうしようかと思ったよぉ」

 被っている帽子の下、腕で汗を拭う仕草をするお巡りさん。家の主であるほのかの方を向いて、笑みを浮かべる。

「それはそうと、ほのかちゃん、帰ったんじゃなかったっけ? どうして戻ってきたの? もしかして、忘れ物?」

「あ、の……」

「あんまり遅くなると、家の人が心配しちゃうよ」

「……ぁ……」

「お巡りさんお巡りさん! 凄いんだよぉ!」

 やはりほのかはお巡りさんのことが苦手なのか、しどろもどろしていた。そんなほのかに代わって、花音が元気に声を出す。花火が打ち上がるように、元気いっぱい。そうするだけのことがあったから。

「見つけたの、証拠! 叔母さんを殺した犯人の証拠」

「えっ、証拠を見つけた……?」

 大きく瞬きをするお巡りさんは、一瞬だけ険しい顔をして虚空に目にし……はっと思い出したように頬を緩ませた。

「それはいったいどういうことだい? 本官に詳しく教えてほしいなぁ」

「いいよいいよぉ。あのね」

「……駄目、だ」

 跳ねる花音の声に対し、極めて冷淡な声を発したのは、黄金井。すでに立ち上がっており、視線を横に逸らしているものの、花音に何度も首を横に振る。

(どういうこと……教えちゃ駄目なの?)

 黄金井のことが理解できない。証拠を見つけたのなら、早くお巡りさんに渡せばいいものを?

 黄金井は視線を逸らしたまま、口を動かす。

「……その人、駄目」

「どうして? 黄金井、せっかくのお手柄なのに。ほっちゃんのためにも早く事件を解決したいじゃない」

「駄目、なんだ」

 黄金井は変わらずに俯いたまま。しかし、頑なに首を横に振る。

「早く、出よう。早く」

 玄関に向かおうとする黄金井。一刻も早くこの状況から逃げ出すみたいに。

 しかし、そんな黄金井の前に立ち塞がる巨大な体。

「ちょ、ちょっと待っておくれよ、黄金井君。どうも本官、嫌われちゃったかな? 悪いところがあったら謝るから、意地悪しないで教えておくれよ。そうやって仲間外れになんかしないでさ。一緒に捜索した仲間じゃないか」

「…………」

「犯人につながる証拠を見つけたんでしょ。やったじゃないか。お手柄だよ。なら、まず本官に見せておくれよ」

「…………」

「ああ、勘違いしないでほしいんだけど、別に手柄を横取りしようなんて考えてないよ。手柄はみんなのものさ。それが本物なら、金一封が出ちゃうかもね」

 丸い顔がにっこり。

「手柄のことはとにかく、本官はただ、一刻も早く事件を解決したいんだ。ほのかちゃんのお母さんを殺した犯人を捕まえたくて。だからさ、ほら、見つけたって証拠、本官に見せてくれないかい?」

「……渡せない」

 前を封じられた黄金井は、相変わらず視線を下げたまま、後退り。一歩、二歩……距離を取り、一度顔を上げて、また俯く。

「また、手袋、してる……」

「ああ、これかい?」

 お巡りさんは、自分がしている白い手袋を目に、笑み。

「そういえばさっきも言われたね? うーん、そんなにおかしいかなぁ。でも、証拠を扱うなら、手袋は必要だと思うけど。素手で触って証拠能力が失われたら大変でしょ? だから、ちょうどいいんじゃないか」

「家に入ってくる前から、してた。さっきも、そうだけど……」

「黄金井君、手袋のことなんかどうでもいいんだよ。どんな考えがあるか分からないけど、本官に任せてくれないかい? 悪いようにはしないからさ」

「……できない」

「どうして?」

「あなたじゃ、犯人、捕まえられない、から……」

 言い切った。

「だから、駄目……」

「どうしてどうして? 警察だよ? 本官頑張るよ。もちろん本官だけでなく、警察全体で捕まえてみせるよ」

「……駄目」

「どうしてさぁ?」

「……そんなの、決まってる」

 黄金井は頭を揺らして、耳を覆う色素の薄い髪の毛を乱している。

 お巡りさんを拒絶するやり取りにその動作、まるで気が触れたようであると同時に、襲いくる恐怖に立ち向かおうと必死になって戦うかのごとく。

「駄目、なんだ……お巡りさん、には、渡せない」

「うーん、これはまた難しい話だねー。いったい本官にどうしてほしいのかな? さっきも言ったけど、本官はただ、事件を解決したい一心なんだよ。なのに……ほら、ほのかちゃんからも言ってあげて」

「黄金井くん、本当にどうかしたの?」

「駄目なんだよぉ!」

 ヒステリックな叫び。今はどんな言葉も聞く耳を持たないように、黄金井はぐっと唇を噛みしめ……震えていた。寒さに凍えているように、頭も体も腕も膝も、あらゆる部位を震わせて、辛い何かに耐えている。

「……絶対、駄目なんだ」

「何を見つけて、何があるのか分からないけど……いい加減にしないと、本官だって怒るよ。証拠を見つけたなら、君たちは警察に届ける義務がある。だから、早く出しなさい。さあ、早く。大事な証拠なんだから、なくしちゃう前に」

「それじゃ駄目なんだよぉ!」

 また大きく拒絶した。

 そして……そして黄金井は全身をがくがくっと痙攣させる。意を決したように体に力を入れて、空間を凍らせるような一言を言い放つ。

 それは、状況を根底から覆すような、強烈な言霊。

「お巡りさんは……」

 黄金井の鳴らす喉が嚆矢となり、世界を一変させる。

「どうして後藤の母さんを殺したの?」

 空間に満ちる空気が激震し、動揺のいかずちが直撃した。


       ※


 つい最近まで夕方が物凄く短くてあっという間に暗くなったのに、最近は随分と日が長くなってきた。もう午後五時なのに、窓の外はまだまだ明るい。それもまだ茜色を含むことなく。芽吹きの春という季節がそろそろ役目を終えて、躍動の夏にバトンを渡そうとしているのだろう。

 そんな四月の二十九日。朝電車に乗って美河郡までやって来た花音は、突然後ろからナイフで刺されたような、強烈な仰天に身を置いていた。それはもう、生まれてからこれまで、ただの一度として疑うことのなかった地面が、突如と崩れて暗黒の闇に呑み込まれるみたいに。

 感情が激しく揺らいでいく。

「黄金井……それって、どういうこと?」

 さっきまで黄金井は『お巡りさんに証拠を渡さない』と、意味の分からないことを喚いていた。真意を見極めようと一歩引いてやり取りを見守っていたが……たった今出た発言は、とても聞き捨てられない。

『どうして後藤の母さんを殺したの?』

 それは質問であると同時に、質問する相手がある一つの条件を満たした上に成り立つもの。

 けれど、そんなこと、花音にはあるとは思えない。なんたって、相手はお巡りさんなのだから。

「こ、黄金井、どうしてさ? どうしてそんな馬鹿なこと言うの? それじゃまるで、お巡りさんがほっちゃんのお母さんを殺した犯人みたいじゃない」

「そう言ってる、つもり……」

「はあぁ……?」

 普段から何を考えているか分からないやつだが、決定的に意味不明なやつであった。相手はお巡りさんなのに、あろうことか殺人犯と間違うなんて。

 けれど、花音にはいつもの呆れた感じがしない。表面では否定していても、心の奥底では受け入れているような……加えて、心が小さく震えている。それが苦しくて、誤魔化すように口を動かす。

「黄金井、自分が何言ってるのかちゃんと分かってる?」

「当然」

「だって、お巡りさんが、なんて……」

「そう、なんでしょ?」

 黄金井が顔を上げた。その視線はこれまで喋っていた花音でなく、ずっと視線を向けることを避けていたお巡りさんに。

「どうして、殺した、の?」

「わはははっ……あのね、いくらほのかちゃんのお友達だからって、言っていいことと悪いことがあるよ」

 お巡りさんは大きく嘆息した。見せつけるように肩を上下させるが、それは少し芝居がかっている。

「まさか、本官がほのかちゃんのお母さんを殺した犯人なんてね、そんな馬鹿な話あるわけないじゃない。考えてごらんよ? 本官は警察官だよ、みんなのことを守る立場にあるんだから」

「……その前に、一人の、人間」

 この件に関して、黄金井は引く気がないのだろう。谷原口の上履きがなくなったときは平然と冤罪を受け入れたのに、ここは一切譲る気持ちがない様子。

 黄金井は強く主張する。

「さっきお巡りさんがくる前、ここに黒い霧はなかったんだ。なのに、お巡りさんがくる前、いきなり黒い霧が溢れてきた。とても危険なもので、最初に四人できたときもそうだった……けれど、危険な目に遭うというわけでなくて、不思議だったんだ。よく考えてみて、『危険が近づいてくるのを教えてくれていた』ってことに気がついた。だから、早くここから出そうとしたんだけど、間に合わなかった。悔やまれる」

「おやおや、口数が少ない方だと思ってたけど、随分印象が変わったね。へー、そうやってぺらぺら喋ることもできるじゃないか。本官、そっちの方が元気あっていいと思うよ」

 お巡りさんは余裕があることを見せつけるみたいに、大きく頬を緩ませる。ただし、黄金井に立ち塞がっている状態は変わらない。

「なら、その元気で本官が犯人であると疑った説明をしてくれないかい? 黒い霧とか危険とか、そんなのはよく分からなくてね。漫画のことかな?」

 笑うお巡りさん。

「そうして疑っている以上、もちろん本官が犯人だという理由があるんだろう? じゃなきゃ、気分悪いよね、本官」

「……理由は、これから、分かる、こと」

「おやおや、またたどたどしくなってきたね。あのね、子供だからまだ分からないかもしれないけど、根拠もないのに人を疑っちゃいけないんだよ。本官だからいいようなものを、厳しい人だったら怒鳴り散らされているところだからね」

「…………」

「今ならまだ『ごめんなさい』で済む話だけど」

「……とにかく」

 黄金井はその場から動くことなく……しかし、視線はお巡りさんが立ち塞がっている玄関の方でなく、台所につながる北側の戸を目にした。

「証拠は、ある。警察に届ければ、はっきりする」

「だから、それを本官に見せてごらんよ」

「駄目」

 すっと空気が流れる。

 瞬きの間に黄金井が素早く足を運んで台所の方に向かおうとするが……しかし、居間から出ることはできなかった。

 なぜなら、黄金井の動きをお巡りさんが邪魔したから。

「逃げるんじゃない!」

 一瞬、狂暴な悪魔のような巨大な影が部屋を横切った気がした。お巡りさんは、巨体を感じさせないほど俊敏な動きで、黄金井の右腕を掴んだ。自分の元に引き寄せる顔は、一瞬で紅潮し、赤鬼のような迫力で迫っていく。

 表情がぐにゃりっと歪む。

「ふざけやがってぇ! おい、坊主、どれが証拠だっていうんだぁ!? ああぁん!?」

 一瞬にしてお巡りさんの雰囲気が変わった。ずっと人のよさそうな丸い印象だったのに、言葉に棘が生え、瞳が濁った光を宿している。黄金井を引き寄せる動きと連動するように右腕を捻り上げ、力ずくで持っていたビニール袋を取り上げた。

「これかぁ!? ああぁん!? これがなんだっていうんだぁ!?」

 取り上げたビニール袋を見ているが、お巡りさんは中身を見つけられていない様子。それはそうだろう、透明なビニール袋に、指先ほどの小さな爪の破片が入っていること、ぱっと見ただけでは分からない。

 袋に何も入っていないと思ったのか、お巡りさんはその場に投げ捨て、力ずくで黄金井を押し倒した。そのまま背中にしかかる。

「どこだぁ!? どこに証拠があるっていうんだぁ!? 早く言え! さもないと痛い目を見ることになるぞぉ!」

「ぃぃ……」

 激怒した大きなお巡りさんに伸しかかられ、黄金井は身動きできず、ただただ小さな呻き声を漏らすのみ。

「さっさと出しやがれぇ! おい!」

「……あの」

 鬼気迫る状況下で、花音はどうすることもできない。けど、そんな状況でありながら、声を発したのはほのかだった。

 お巡りさんの突然の豹変振り、さらには黄金井が痛めつけられる状況を目の当たりに、居た堪れなくなったのか、拾ったビニール袋を手にしながら近づいていく。表情に足取りは、恐る恐るといった感じ。それでも勇気を出して袋を差し出す。

「こ、ここに、ある、よ」

「ちっ! どれだよぉ!? 何もねーだろうがぁ!?」

「……小さい、から」

「貸せぇ!」

 黄金井に伸しかかったまま大きく眉を吊り上げ、舌打ちしながら乱暴に袋を奪い取るお巡りさん。

 その荒々しい手が顔に当たったようで、『きゃっ!』と小さく悲鳴を残し、炬燵横の絨毯に倒れるほのか。

(ぁ、ぁぁ……)

 展開する光景に、相変わらず花音は呆然と立ち尽くすのみ。突如として世界が変異した目の前の世界に、反応することすらできずに何もできなかった。

 すぐ近くでほのかが倒れている。黄金井が床に押さえつけられている。なのに、そんな異常事態を前に、動くことも声を出すこともできない。本当なら、倒れたほのかには駆け寄ってあげるべきなのに。苦しがっている黄金井は助けてあげるべきなのに。

 花音は、何もできない。

 全身が、岩のように、動かない。

(ぁぁぁぁぁ……)

 花音の意識として、この空間に立っていることが精一杯。目の前で起きた暴力という恐怖が身を雁字搦めに絡みつく。心の表面で感じているのは、これまで一度として経験したことのない貼りつくような巨大な悪意。

 未知の領域に臆してしまい、膝が笑い、心が震え、脈動の周期がおかしくなる。頭には無数の細かい屑のようなものが飛び交い、思考することもままならない。

 こんなの、花音が花音でなくなったよう。

(ああ……あああ……)

 できない。

 何もできない。

 ほのかも黄金井も困難に陥っているのに、学級委員である花音では何もしてあげることができない。目の前で苦しんでいるのに、見ているだけ。

(あああああぁ!)

 下から見えない力に突き上げられている気持ち悪さがした。極めて危険な状況に追い込まれ、取り返しのつかない状況に背を向けようとしている……それは意識としてではなく、一つの生命として根本にある魂がこの場にいることを拒んでいるみたいに。

「ぁぁぁ……」

 耳にした自身でも驚くほど、口からは意味のない声が漏れていた。唸るようで、一切言葉にならない声。しかし、それを止めることはできないし、口を閉じることもできないし、現状をどうすることもできない。

 できないできないできないできない。

 今の花音は現実に身を引き、否定するように小刻みに首を振って、ショートカットの髪の毛が一定の間隔で揺らしていく。

 気がつけば、鼻の奥が熱くなっている。

 一気に視界がぼやけてきた。


 駄目だ。

 このままでは駄目だ。

 危ない。

 このままここにいたら危ない。

 逃げなきゃ。

 早く逃げなきゃ。

 取り返しのつかないことになってしまう。

 喉が鳴る。冷や汗が出る。鳥肌が立つ。頭痛が激しい。神経が磨り減る。恐怖に殺される。心が壊される。存在が抹消される。

 目の端には、悪意に満ちた巨大な塊がいる。今にも真っ黒な手が伸びてきて、呑み込まれそう。

 このままでは、命が刈り取られてしまう。

 逃げなきゃ。

 早く逃げなきゃ。

 ここにいては駄目。

 逃げなきゃ。

 早く。

 早く早く早く早く!

 早く早く早く早く早く早く早く早く!


「ああああああああああああああああああああああぁぁぁ!」

 理解の及ばない奇声が、咆哮と化す。拒絶反応が視界を真っ赤に染め、凄絶たる思いの果てに、もはや存在することもままならない。

「ああああああああああああああああああああああぁぁぁ!」

 逃げる。逃げていく。現実が間違っていようが、状況がどうなろうとも花音では絶対に正せない。

「ああああああああああああああああああああああぁぁぁ!」

 世界がどう転ぼうとも平穏を保つことができなくなった。

 直面する版、花音には逃げ出すことしかできない。

 だから、逃げる。

 逃げてしまう。

「ああああああああああああああああああああああぁぁぁ!」

 すべてに背を向け、恐怖に追い立てられるように居間を飛び出した。玄関で靴を履く時間も惜しんで扉を開けようとするも、勢いあまって左肩から激突する。

 全身に駆け抜ける激しい痛み。

(いがあああぁ!)

 痛みに顔を歪めるも、しかし、痛みを感じている暇はない。

 逃げないと。

 早く逃げないと!

 悪魔に殺される!

「ちぃ! くそがきぃ! 待ちやがれぇ!」

 地の底から放たれるような超絶な怒声。お巡りさんはその巨体を揺らして玄関に迫ってくるではないか!? 見開かせた両目を血走らせながら、赤鬼のような赤い顔は、花音を丸呑みせんばかりに大口を開けている。

「てめえぇ! 逃げられると思うなよぉ!」

 迫る迫る迫る迫る。玄関に巨体が突っ込んでくる。体ごとぶつかってくる勢いは、猛スピードで走るダンプカーのよう。

 に対して、小さな花音はあまりにも無力。とても受け止められる力はなく、避けようにも体は自由を奪われたように身動きもできない。逃げなければならないと分かっているのに、体がいうことをきいてくれないのだ。

 駄目! 駄目! 駄目! 駄目!

「ぶっ殺してやるぅ!」

 一瞬にして、世界は絶望に覆われた。


(……ぁ!)

 このまま捕まると、ほのかの母親と同じ運命を辿ることは必至。それ以外の選択肢なんて、どこにも用意されていない。

 死。

 死んでしまう。

(いや!)

 殺される。

 殺されてしまう。

(いやぁ!)

 眼前に迫る巨体。大きな体に覆い尽くされたら、もう二度と立ち上がることはできないだろう。

 終わってしまう。

 世界の終焉。

 ここで、すべてが。

(あああああぁ!)

 しかし……しかし、花音にはどうすることもできない。

(あああああああああああぁぁぁ!)

 しかししかししかししかし、突如として目の前に異変が起きる。それも、まったく思いもしない方角から。

 この瞬間、世界は花音の味方をした。

(な!)

 これまで一度として想像できなかった不可思議な現象が、切迫したこの空間に作用する。

(なんでぇ!?)

 意味は分からない。理屈としても不明である。考えたところで一生答えに辿り着くことはできないだろう。

 ただ、見えた。花音の目はそれを捉えていた。

 手。

 虚空に手が生まれた。

 黒い霞のような手。

 出現した手は、巨体の足を掴む。

 巨体は玄関前でバランスを崩し、勢いのままに派手な音を立てて転倒した。床には躓くものなんて何もなかったのに。

(あああああぁ!?)

 分からない。まったくもって、わけが分からない。こんな理解が及ばない異常空間において……残された事実は、目の前に花音を殺そうとしている巨体が倒れたこと。

 迫ってきた手がまだ届いていないこと。

 まだ花音は、終わっていないこと。

(ここぉ!)

 涙が流れる。汗が噴き出す。涎が漏れる。洟が唇に達するが……関係ない。どれもこれも気にかけている場合でない。

 体が一度痙攣するように跳ねると、背にした玄関の扉を勢いよく開けた。

 光に照らされる。外の空気が全身を撫でていく。

(だぁ!)

 逃げる逃げる逃げる逃げる。深い恐怖から逃げていく。生命が刈り取られる前に、巨大な鎌の届かない場所まで逃れなければ。

 外はまだ明るかったが、認識しているゆとりはない。涙と感情の高鳴りと激しい動揺と生死の狭間に立つ者の激情により、点のような極めて狭い視線のまま、背にした場所から少しでも離れるように駆けていく。

 駆ける駆ける駆ける駆ける。

 隣家との塀と小屋の間を抜け、通路に向けて疾走する。『道路にさえ出れば、誰かが助けてくれる!』という一心で。

 脚が縺れて転びそうになりながらも、地面についた手で立て直し、背後から迫る恐怖から逃れていく。

 一歩でも先に。

 少しでも遠くに。

 早く!

 早く!

(誰かぁ!)

 突き上げる衝動が自身を乱し、声にならない叫び声。

 走る走る走る走る。家の前の通路までは三十メートルもないはずなのに、なかなか近づいてくれない。

 走る走る走る走る。背中を這う狂暴さに心を圧迫されながら、塀に一度体をぶつけても、断じて足を止めることはない。

 走る走る走る走る。二人を置いてきた後ろ髪など気にすることもできずに、とにかく走っていく。

(ああぁ!)

 大きく枝を伸ばす大きな柿の木が見えた。刹那、深い溝が目に映る。コンクリートの橋が見え、コンクリートの路面が見えた。

 狭かった視界が、一気に世界を広げていく。

 外。外である。ようやく外に逃げることができる。

 あと少し。

 もう少し。

 刹那!

「ぃ!?」

 途中でバランスを崩そうとも、ここまで決死な思いで走りつづけてきた。だというのに、道路が見えたことで気が抜けたのか、コンクリート橋の僅かな段差に足を取られてしまう。深くお辞儀するように上体が前屈みとなり、スローモーションのように白い地面が迫ってくるではないか!?

 その瞳には、コンクリートの上に小石が転がっているのが分かる。隅に小さな雑草が生えていて、虫がすぐ横を羽ばたいていった。

 刹那に、鼻に激痛が走る! 手をつくこともできずに、コンクリートに顔面をぶつけたのだ。両目の間に激しい火花が散る。

「いいいぃ!」

 激痛のあまり、『痛い』という言葉もまともに発することができなかった。熱せられた鉄の棒を当てられているみたいで、鼻が熱い。乱反射するぼやけた視界は、痛みによって涙が溢れたことを意味する。

「やぁ!」

 襲われた激痛にも、止まるわけにはいかない。ただ今は、意識以前の神経が花音の体を動かしていく。

 腕立て伏せの要領で上半身を持ち上げて、素早く立ち上がろうとして、

「っ!?」

 立ち上がれない。なぜなら、立ち上がることどころか、起き上がることすらできなくなったから。

(ああ……)

 立ち上がることができない理由、それは別に足を怪我したわけではない。鼻は痛いが、身体的機能は正常である。けれど、今は立ち上がれない。理由は、うつ伏せ状態の背中から、巨大な重しに載せられたから。コンクリートに押しつけられる力に、全身がぺしゃんこに潰されたと錯覚したほど。

「逃げられねーっってんだろうがあぁ!」

 尋常なき狂気は、爆発的に膨張していた。

 花音は肺が圧迫され、呼吸もままならない。

(こ……)

 殺される。

 逃れようと、ぼやけた視線を巡らせようにも、視線があまりにも低いので周囲を見ることも叶わない。

 助けを求めようにも、背中から潰されては声にならない。

 こうして家の前まで出たから、誰かに見つけてもらいたいところだが……頭には、家までやって来た道程が思い浮かぶ。病院からきたとき、さっき引き返したとき、思い返される二回の行程では、誰一人として擦れ違うことがなかった。近くに住居はあるものの、家と家の距離は離れているし、そもそも人通りがない。こんなこと、愛名市では考えられないことなのに、美河郡ではこうした現実がある。

 振り返ってみると、唯一出会ったのがお巡りさんだった。今は全身を狂気と化して、花音の背中に載っている、この。

(も、う……)

 もう、駄目かも、しれない。

 力が入らない。

 握った拳から力が抜けていく……。

(…………)

 圧迫されて酸素が足りないのか、夏休みのプールに潜っているみたいに音がぼやけてきた。背中の巨体からは、伝わる振動によって喚き声が体に響いていく。

 目が虚ろに……。

「ふざけんじゃねーぞぉ! けっ! お前らのために人生を棒に振ってたまるかあぁ!」

 見えなくても、背中越しに伝わってくる小さな体重移動に、巨体が腕を振り上げたのが分かった。

 このまま殴られて、激痛に苦しんだ挙げ句に気を失って、家に連れ戻されて、ほのかと黄金井とともに殺される、そんな運命なんだ……。

 抗うこともできず。

 逆らうこともできず。

 悲観な未来が、花音の身に落ちていく……その直前! 世界は花音に新たな空気を吹き込んでいく。

(なっ……)

 軽くなった。今まで潰されんばかりに圧迫していた全身が、急に軽くなったのである。

(えっ……)

 感覚として背中に載っていた巨大なものがなくなり……と同時に、目の端では巨大な影が落ちていく。そちらは溝のある方向。溝の底から、鈍い音が響いてきたではないか!

(ど、どうなってるの……!?)

 予期せず訪れた変化に、痛む全身を小さく捻り、首だけ振り返る。

 するとそこには、肩を大きく上下させて巨体が立っていた。

「くそ野郎があああぁ!」

 激昂の巨体は、そのまま寝そべっている花音に覆い被さってくる。

(ひっ!)

 恐怖のあまり、花音は瞼を閉じ、奥歯を強く噛みしめ、心は粉々にちぎれそうになっていた。

(殺されるぅ!)


 そうして荒れ狂う世界は、一点の集約に向かっていったのである。

 女の子は、その後の展開に一切抵抗することなく、怒濤のように流れていく未知なる時間に、ただ身を置くことで精一杯なのだった。

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