第5話


 黄金井紬の瞳



       ※


 後頭部を怪我したことがある。

 赤ん坊の頃、母親の腕から落ち、後頭部を床に強く打ちつけたのだ。大泣きしたみたいだが、もちろん当の紬に記憶はない。ただ、手で触ってみると少し変形しているのは分かる。後頭部に突起のように尖っている箇所があるから。生えている箇所は違うものの、鬼の角のように。

 赤ん坊の紬がなぜ母親の腕から落ちたのか、それは小学校に入学してから知ることとなる。できることなら、知りたくない事実であったが……知ったがばかりに、自身の存在が大きく揺らぐ。

 こんな自分なら、いない方がよかったのかもしれない。

 後悔したくなる、生まれてきたこと。


 残っている一番古い記憶は、就学前のこと……紬にはぼんやりとした白い霧が見えた。座敷の角、白いものがうっすらと覆っている。好奇心に背中を押されるように近づいてみると、白い霧は頭と胴体と両腕と両脚があって、人間の形をしていた。目鼻がはっきりしているわけでないが、立ったまま、じっとこちらを見つめている。

『お母さん、あそこに誰かいるよ?』

 紬は指差して伝えるも、母親には『何言ってるの、誰もいないじゃない』と首を捻られてしまう。おかしい。あそこに立ってこちらを見つめている人がいるのに?

 ぼんやりと見えるもの、意識してみると結構たくさんあった。白っぽいものや黒っぽいもの、中間の灰色のものがあり、どれも人間や動物の形を形成している。ゆっくりと動いていくもの、ずっと動かずに立っているもの、時間をかけて霧散していくもの……。

 そういった霧に、追いかけられることがあった。濃い黒色に触れると、まるで力が吸い取られるみたいに意識を失い……気づくと家の布団で目覚めることとなる。高熱を出して、五日間苦しい思いをすることとなった。物凄く怖かったし、物凄く痛かったこと、記憶に強く刻まれる。

 ある日、紬は漫画で『幽霊』という言葉を知った。人智の及ばない不確定な存在。

 白い煙や黒い霧、それが自分以外の誰も見ることができず、『幽霊』と呼ばれる不確かなものであると理解するのに、長い時間を必要とした。それはそうである、紬には当たり前に見えているものが不確かなものだなんて思えなくて。

 白い煙が漂っている。同い年ぐらいの子供のようなシルエット。木の根元に立っているから、幼稚園の友達に教えてあげると、『誰もいねーじゃねーか。嘘ついてんじゃねーよ』と石を投げられた。額に当たって血が流れる。見てみると、みんなが遠巻きに紬のことを見ていた。誰一人として傍に近寄ってくれることなく。

『嘘なんてついてないのに。いつもいつも、本当のこと言ってるだけなのに。どうしてみんな信じてくれないんだろう?』

 道路を歩いていると、人型の霧が足早で通っていった高校生に吸い込まれていった。高校生は直後にバランスを崩して車道に飛び出し、走行してきた乗用車に激突。路面にたくさん血が流れ、救急車で運ばれていくのを目の当たりにすることに。周りが騒がしくなり、不穏な空気となる。とても怖かった。背筋が凍りついたかと思ったほど。体が震えて、家に帰ってすぐ布団に潜り込んだ。どす黒い血が路面に広がっていく光景が何度も頭を支配し、大量の汗が分泌されていく。気持ち悪い。

 ある日、家にお客さんがきた。母親の知り合いで、玄関から床に上がろうとしている。刹那、黒色の濃い幽霊が触れようとしていたので、『あれに触れられたら痛い目に遭っちゃうぅ! なんとかしなきゃ!』とお客さんのことを咄嗟に突き飛ばして……母親に物凄く怒られた。『なに考えるの!? お客さんに怪我させたらどうする気!?』と眉を吊り上げて。紬は助けてあげたつもりなのに、幽霊の話をしても一切聞いてもらえない。

『なんであんたは、いつもいつもそんな嘘ばっかり言うの!?』

『この世に幽霊なんているわけないでしょ!?』

『いい加減にしなさい! 今日はご飯抜きですからね!』

『いつまでもくだらないこと言ってるんじゃありません!』

『紬ぃ!』

 どれだけ言っても信じてもらえない。そればかりか、話せば話すほど、母親から突き放されてばかり。悲しい思い。紬は本当のことを言っているだけなのに、本当のことを信じてもらえないなんて。

 視線は徐々に落ちていった。

 気持ちは、小さなブラックホールに足元から吸い込まれていくみたい。


 小学校に入学する。学校にも幽霊はたくさんいて、たまに水をかけられたり転ばされたりした。いたずらされること、本当にいやでいやで仕方ない。

『本当だよ、幽霊がきて、僕を追いかけてきたんだ。必死に逃げたんだよ。捕まったら、呪われちゃうから』

 休み時間、校舎裏でどす黒い色をした幽霊に追いかけられ、思わず門を越えて学校から逃げ出した。なんとか幽霊を巻くことができたが、結果として学校から抜け出したこととなる。家に帰ってその理由を述べたとき……生まれて初めて母親に頬をたれた。勢いに床に転倒して膝を強く打ち、激痛が走る。涙が溢れてきた。痛みもそうだが、そうやって母親に手を上げられたことがとてもショックだったから。打ちつけた膝を庇いながら、そーと視線を上げると……見下ろされる母親からは嫌悪感が伝わってくる。

 寒気がした。

『いつもいつもいつもいつも! いい加減にしてちょうだい! あんたなんかね、あの時死ねばよかったんだわ!』

 紬の胸を打ち抜いた言葉。そこで紬は、赤ん坊のときに頭部を怪我した理由を知ることとなる。

 紬が赤ん坊の頃、母親は育児ノイローゼにかかっていた。まだ歩くこともできない紬を抱いていたとき、『この子さえいなければ……』と悪魔の囁きに心奪われ、わざと腕から落としたのだという。

『なんで死ななかったのよぉ!? あんたが生きてたっていいことないでしょ!?』

 目を剥いた母親の顔は般若のように恐ろしく……もう紬は顔を上げていられなかった。

 見つめるのは、いつも足元のみ。


 紬から前向きな力が失われていく。みんなが自分を敬遠していて、相手にしてくれない……だから、『なるべく幽霊のことは言わない方がいい』と思うようになった。嘘をついているつもりはないが、本当のことを言っても嘘つき呼ばわりされるなら、言わない方がいい。クラスのみんなにも、両親にも。

 気がつくと、紬は口数が減り、感情をなくし、ただ委ねるように時間の流れに身を置くこととなる。考えなく、心が淀んで、気力なく、目を背けて。

 紬の周りには誰もいない。どこにも落ち着ける場所がない。学校でも家でも、どこにいっても孤独となる。

 漆黒の闇に覆われているようだった。


 六年生となる。もう教室では誰とも話すことなく、いつも机で過ごしていく。周囲で起きる笑い声、本当にいやだった。授業中はいいが、休憩時間になると居心地の悪さに、意味なく校舎を彷徨って……幽霊を目の当たりにげんなりする。

 家に帰っても居場所がなく、親と一緒にいると息が詰まってしまうので、外に出る。そのことに関して、両親は何も言わなかった。紬のこと、心配するような素振りが一切ないから。

 嫌われているから。

 誰もいない夜の公園、覆われる静けさと寂しさが、紬にはとても安らいだ。一生こうしていたいとさえ思えるほど。

 暗くて寂しい夜の公園こそが、紬の居場所なのかもしれない。


       ※


 ある日のこと。

 登校した際、下駄箱に白い幽霊がいた。背が低く、髪が肩より長いから低学年の女の子と思われる。もしかしたら交通事故かなにかで小学校に通う前に亡くなり、それが未練で、ああして幽霊となって学校に通っているのかもしれない。これまで白色に被害を受けたことはないので、今回もきっと害はないだろう。見た直後は焦りを得たが、その色にほっと一安心。

 下駄箱で履き替えようとして……紬たち六年一組の向かいにある下駄箱が白く光っていることに気づく。下駄箱の大半は埋まっていて、まだ半分ぐらいが上履きであり、光の場所にも一足の上履きがあった。掃除道具入れ横の幽霊に目を向けると、顔の中央部に小さな穴が空き、まるで笑っているみたい。何をしたいのか分からないが、あまり関わるわけにもいかず、背中を向けて階段に向かっていく。

 その日の一時間目が大変だった。クラスメートの男子、谷原口が泣きじゃくっていたから。前日のホームルームでも同じような光景を見た気がするが……今回は自分の上履きがなくなったという。見てみると、白いソックスで教室前に立っている。ずっとあれで歩き回っていたとすると、きっと盛大に汚れているのだろう。裏を見たら真っ黒になっているに違いない。

 紬には関係ないが。

 上履きがなくても授業はできるが、一時間目は昨日のホームルームのつづきで、谷原口がまた騒ぎ出すことになるのはうんざりだし、そもそもこのような状態を放置する担任ではない。最初はクラスメートを疑っていたみたいだが……結局、一時間目はクラス全員で校舎中を捜索することに。

 紬の斑は西校舎四階を捜索する。同じ斑の男子は、開放されている図書室のソファーで遊んでいた。真面目に探すつもりがないのだろう。授業中なのに教室を出て遊べていることに、笑みすら浮かべて。授業がさぼれてラッキーと思っているのかもしれない。けれど、紬はその輪に入れないので、本棚と本棚の間とかカウンターの内側、廊下の隅に掃除道具入れを探すも、上履きは見つからない。早く見つければ教室に戻ることができるから、なんとか見つけたいのだが。

 けれど、こんな所を探していても見つかる気はしなかった。

 なぜなら、誰かが悪意を持って上履きを隠したのなら、一階にある上履きをわざわざ四階まで持ってくるとは思えない。『見つかってもいいものだから、隠すとしたら近い場所だと思うな』と考えていて……ふと今朝のことが頭に過った。あの子供の幽霊は紬に何かを伝えようとしていた気がする。何のことだか分からなかったが、もしかしたら……思いに駆られ、階段を下って下駄箱に。ほとんどすべての靴が下履きとなった下駄箱において、そこに谷原口の上履きが置かれていた。名前を確認したから間違いない。

 教室に戻って上履きのことを告げると、クラスの半分ぐらいとともに下駄箱に向かうことになる。瞬間、いつも騒がしい上杉と杉原の手にぼんやりとした白い光が宿っていた。また何かを伝えようとしているのだと幽霊を見ると、どこか嬉しそうに全身が揺れ、そのまま空間に溶けるように消えていく。ゆっくりと。

 視線を杉杉コンビに移す。二人はどこか挙動不審で、上履きが見つかったことに騒がしくしている谷原口から顔を逸らしていた。そのことから、あの幽霊は二人が上履きを隠した犯人であることを示していたことが分かる。とはいえ、幽霊のことを言うと、また変な風に思われるから杉杉コンビのことは口外できなかった。

 その後、なぜだか見つけた紬が犯人扱いされてしまう。せっかく見つけてあげたのに、その仕打ちはないだろうと思うも、どうでもよかった。早く教室に戻りたかったし、誰に疑われたところで、自分が犯人でないことは自分がよく分かっている。だから、これで一件落着になるならそれでいい。

 本当のことを話しても、どうせみんな、信じてくれないだろうし。そんなのいつものことだから、気にしない。

 気にしたら、辛い目に遭ってしまう。


 驚くべきことが起きた。こんなこと、初めて。

 感動したし、感激した。

 世界のすべてが敵だと思っていたのに。

 味方なんていないと思っていたのに。

 全員に嫌われていると思ったのに。

 誰も相手なんてしてくれないと思ったのに。

 信じられることなんて、一生ないと思っていたのに。

 なのに。

 だというのに。

『わたし、黄金井くんのこと、信じる』

 夜の公園。遠くで中学生が騒いでいて、紬の周辺はあまりに動きがなく、どこか溶け込むような夜の空気に包まれて……突如として現れたクラスメートは、紬のことを信じてくれた。

 後藤ほのか。背の低い女の子は胸の前で手を握り、精一杯声を出して、紬のことを真っ直ぐ見つめてくれる。

 嬉しかった。こんなこと、今までなかったから。こんなこと、一生ないと思っていたから。

 だから、こんな温かな気持ちにさせてくれたこと……お礼や恩返しというわけでないが、後藤の力になりたかった。本人は幽霊に興味津々なようで、死んだ母親に会いたがっている。もしそれができるなら、その願いを叶えてあげたい。自分を信じてくれた唯一の存在ために。

 すっかり忘れていた、『誰かのために何かをやろうとする』なんて。そんな気持ちにさせてくれただけでも感謝である。


 そうして紬は、美河郡にいくことを決意する。

 一緒にいた松原はとにかくうるさかったが……気にしない。気にしないこと、得意だから。


 愛名駅から電車に揺られて美河郡に到着。電車代は松原の祖父に出してもらった。親にこづかいを頼める関係でないので、交通費も昼食代も払ってもらえたことは、単純に助かった。孫の松原からは信じられないくらいやさしい祖父である。けど、もう一人の孫、後藤からすれば信じられるぐらいやさしい祖父である。血は難解であり、なんとも複雑だった。

 病院で意識のない後藤の父親を目に、『なんとか目覚めてくれればいいのに』と願いながらも病室の隅でじっとしていた。人が死を迎えることの多い病院にも幽霊がたくさんいるので、あまり歩き回るわけにはいかない。下手に視線を巡らせてやっかいなのに目が合っては大変。だから、病室に幽霊がいなかったことは、ほっとした。もし、黒いやつがいたら、後藤の父親があの世に連れていかれるかもしれないから。

 病院を後にして後藤の家にいく途中、交番で一緒となったお巡りさんと墓場に立ち寄る。病院同様、墓場は苦手な場所。案の定、未練を残して彷徨っている幽霊が漂っていた。しかも黒い。遠くの方だから松原や後藤は大丈夫だと思うが、もし黒い霧に触れられては呪われてしまう。高熱にうなされたり、体が麻痺しては大変だから、墓参りを回避して道路で待つことにした。油断していると近寄られてしまうし、すぐ呪われてしまうので、常に気を張っていなければならない。

 そして、墓参りから戻ってきた松原たちとともに、いよいよ後藤の家に。

(がぁ!?)

 家を見た瞬間、落雷のような激しい驚愕が全身を駆け抜けていった。

 二階建ての木造住居、あろうことか、建物すべてが真っ黒な闇色に覆われていたのだ。

 戦々恐々。

 とても立ち入れるような場所でない。紬の全身が拒否反応を示し、小刻みに震えていく。心臓は勢いをなくし、全身から熱が奪われたみたいに冷たい。玄関前に立ったものの、すぐにでも逃げ出したかった……しかし、引き返そうにも松原に通せん坊されては逃げられない。そもそも、今日はこの家を訪れることが目的である。ならば、どうしたところで逃げるわけにいかなかった。

 覚悟を決める。

 怯えながら、恐る恐る玄関に足を踏み入れようとして、

(っ!?)

 衝撃にぶつかった。正面に出現した黒い煙が手の形となり、踏み入ろうとしていた紬の胸を突き飛ばしたのである。まるで中に入ることを拒むように。

 尻餅をついて痛みが走るも、そんなことより背筋が凍りつく絶頂の恐怖を得て、脇の下に冷たい汗が流れていく。

 意識してみると、両手が大きく震えていた。これほどまでに強烈な闇、経験したことがない。こんな場所にいたら、どれほど強烈な呪いを受けてしまうだろうか? 下手をしたら死を招くことになるかもしれない……気持ちは激しい煽りを受けて、心は細い枝のようにぽきっと折れてしまいそう。

 けれど、立ち向かうしかない。これもすべて、自分のことを信じてくれた後藤のため。さきほどはつい逃げ出したいなんて弱気になったが、希望としては、なんとしても恩返ししたい。

 心の中心に力を込めて、玄関に踏み込んでいく。

(…………)

 空中を漂う闇色はとても深い。なるべく薄い部分を通るように心がけて、居間の炬燵に腰を落とす。

 後藤にお茶を淹れてもらい、そこでお巡りさんからこの家で起きた殺人事件の詳細を聞いた。

 けれど、紬はお巡りさんの話をまともに聞けていたかどうか……この家に入ってからずっと頭は締めつけられ、すぐにでも胃液が逆流してきそうなほど気持ちが悪い。きっと顔色は優れなかっただろう。このままずっといると、下手したら失神するかもしれない。

 ただ今は、意識を保つことで精一杯だった。


 唐突に異音が響く! 音を頼りに台所に向かうと、床に皿が割れていた。状況からすると、上にある食器乾燥機から落ちたみたいだが……割れた皿に黒い霧が覆っていることも然ることながら、一緒にいたお巡りさんの両手にも同様のものが漂っていたことに、紬は疑問を得る。

 どうしてお巡りさんは手袋をしているのだろう?

 尋ねてみると、『もし証拠を見つけた場合、ちゃんと取り扱うため』という回答だったが、納得いくものでない。警察が捜査した家に、こんな素人の子供が頑張ったところで証拠が見つかるとは思えないから。随分松原は張り切っているみたいだが、誰もがやり尽くしたゲームに、新たな裏技を見つけるようなこと、まず無理だろう。なのに、お巡りさんは手袋をつけて慎重に行動しようとしている……もしかしたらお巡りさんのやさしさで、自分たちに調子を合わしてくれているのかもしれない。わざわざ手袋をして。割れた皿を拾うにはちょうどいいみたいだが。

 いや、今の考え方は、やはり腑に落ちない……。


 後藤の家に漂う黒い霧はその後も不可思議な現象は起こした。壁から不自然なまでの軋み、壁にかけられている時計が不規則な動きをする。天井の照明は不規則に点滅して……しかししかし、紬が気になったのはそれらでなく、お茶を飲んだときにも使った、居間に置かれた炬燵だった。

 炬燵布団、見てみるとその一部に黒い点が生まれているではないか。もちろん現実にない霧状のものなので、紬にしか見えていないだろう。ピンポイントで生まれた霧は、まるで幽霊が何かを示しているみたい。考えてみるも……さっぱり分からない。茶色の炬燵布団に変わった箇所はなく、あそこに死体があったということだから警察だって徹底的に調べているに違いない。

 けれど、今も黒い霧が漂っている。その大きさ、野球のボールほど。

 いったい幽霊は何を示そうとしているのか? その事実が、紬の頭にずっと引っかかる。触れようとするも……躊躇した。あれだけ黒々とした闇色、どんな呪いを受けるのか気が気でないから。


 後藤の家にきて、一時間が経過した。連発する不可思議な現象が不気味であることと、病院に松原の祖父を残しているのであまり遅くなるわけにはいかないという理由で、帰路につくこととなる。証拠を見つけられず、張り切っていた松原は納得いっていないみたいだが、お巡りさんにも『早く帰るように』と言われたので、首肯するしかない。

 これ以上あの家にいると、心身ともに深い闇色に呑み込まれそうだったから、紬としては『助かった』というのが本音であった。家を出ると、頭痛も気持ち悪さもなくなる。肩を大きく上下して吐息した。空気がおいしい。

 交番のある県道の手前でお巡りさんと別れて、突き当たりにある一階建ての駅を常に視界にしながら歩いていく。けれど、視線は前方に向けられておらず、どこでもない宙を彷徨っていた。

 頭にあるのは、あの黒い霧が示していた『お巡りさんがしていた手袋』と『居間にある炬燵布団』について。

 どうして漂う幽霊は、あんなことを紬に見せたのか?

 いったい何を示していたのか?

 間違いなく、あの二つにはまだ気づいていない意味がある。

 そして、それらを見ることのできるのは紬だけ。

 ならば、まだ紬にはやることがある。このまま愛名市に帰ってしまえば、もう二度とこの疑問を解消できないだろう。

 後藤の力にもなれないままに。

 駄目。

 そんなの駄目だ。

 踏み止まる。

 まだ、やらなければならないことがある。

 このまま帰るわけにはいかない。

 今やらないと。

 でないと、ここにきた意味がない。

 今。

 今こそ。

 紬は腹の中心にぐっと力を入れて……後藤の家に引き返すことを決めた。玄関は施錠してあるので後藤から鍵を借り、一人であの闇に覆われる家に向かっていく。一緒にいた二人をこれ以上危険な目に遭わすわけにはいかないから、ここから先は紬の役目。

 思う。幽霊の示す何かを、しっかり受け止めないと。

 願う。後藤のために、何かを見つけなければ。

 行う。自身がここにいる意義を成し遂げるために。


       ※


 午後四時二十分。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 玄関前。鍵を受け取ってから坂道を走ってきたので、息が切れている。小刻みに肩を上下させながら、借りた鍵を玄関の扉に差し込み、開錠した。

「…………」

 また気持ち悪くなることを覚悟して、ぐっと息を止め、中に入ろうとするが、

(……あれ、どうしたんだろう?)

 ついさっきまで、この家は暗黒の闇色に覆われていたのに、霧が一切なくなっている? まるで漂っていた黒霧が、強風によって吹き飛ばされたみたいに。

(これなら)

 紬は玄関から居間に入っていく。案の定、頭痛も気持ちの悪さもない。これなら、大丈夫。

 さきほど見た炬燵布団を確認すると……南側の一部に、白い光が宿っていた。それも今は宝石のように輝いている。まるで誰かが、紬にそこを探るように目印をつけてくれているみたい。

(何があるんだろう?)

 紬は毛の短い絨毯の床に膝をつき、白い光に顔を近づけていくと……すると、光は徐々に小さくなる。その変化、このまま消えてしまいそうだが……違った。光は保たれたまま、小さくなることによって範囲を狭めていくよう。それは、示している場所のより正確な位置を教えるかのごとく。

 目を凝らして布団の細部を見つめていくと……白い点がある部分を手にして、両手で寄せて皺を作ることで、小さな発見をした。

(あっ)

 布団に小さな穴が空いていたのである。直径が一ミリメートルぐらいの凄く小さな穴。手を離すと穴が見えなくなり、皺を寄せて注視しないと見ることはできない。

(これって……)

 突如として帯びた緊張のためか、周囲の温度が冷えた気がして、無意識下で喉が大きく鳴る。目の前に提示されたものに対して、まだ何を意味するものなのか分かっていないのに、これからとても重要なことが起きると直感した。また喉が大きく鳴り、少し呼吸が荒くなる。胸に手を当てなくても、鼓動は強く感じられた。早鐘のように。

 どくどくどくどくどくどくどくどくっ!

(……何か、ある)

 布団には綿が詰められて、ふかふかしている……注意しながら触れてみると、小さな異物が混入しているのが分かった。細くて、指先よりも小さいもの。それでも得た触覚は確かに存在する。

 穴を大きくすれば簡単に取り出すことができるが、よそ様の布団なので鋏を入れるわけにはいかない。布団に皺を寄せて、異物をうまく穴の方に誘導していくことに。

 膝に布団をかけ、布団に皺が寄せては、異物が穴に近づく。また皺を寄せて、穴に近づけて、また皺を寄せて……ちょっと穴を通り過ぎてしまった。失敗。

 細かい作業は焦れて、いらいらする。けれど、根気よく取り組んでいく。ここが重要である、安易に投げ出すわけにはいかない。慎重に、丁寧に、少しずつ、少しずつ寄せていって、そして……感触しか分からなかった異物が穴から顔を出した。

 半透明の灰色。

(……ああ)

 指の先で掴み、そっと手に載せてみると……異物は手相の皺に挟まってしまうぐらい小さなもの。きっとこの大きさなら、警察だって見逃していただろう。

 見つけた異物は、爪の破片であった。

(っ!?)

 爪であることを認識したとき、紬はぱっと顔を上げる。すると炬燵の向こう側に、白い人型の霧が形成されていた。目鼻はないものの、髪の毛が肩にかかっているので女性に違いない。

(……後藤の)

 白い霧はとても不明確なもので、ましてや生前の面識もないはずなのに……しかし、紬には目の前に現れた幽霊が後藤の母親であることが分かった。

 そこで、そうして、今は嬉しそうに立っている。そう思ってから、『嬉しそう』という感想が自然と湧き上がっていることに、なんだか紬も気持ちが安らいでいた。

(……これが)

 手の上の爪。鼻息でも飛んでいきそうなので、慎重に炬燵の上に移動させ、じっくり観察してみると……僅かに赤黒色が混ざっていることに気がついた。

(……きっと、これが犯人を示す手がかりなんだ)

 見つけたもの、胸が高鳴っていくばかり。

 この爪が何を表しているか、今の紬には分からない。分からないが、でも、これがこの家で起きた殺人事件を解決へと導く証拠であると確信した。

 果たしてこの爪は誰のものであるか? 犯人のものなのか、はたまた、殺された後藤の母親のもので、付着している赤黒色が……犯人の血!?

(そうか、これを伝えようとしてたんだ!)

 ここにきて、ようやく光が示そうとしていた意図を理解した。思考がその地点に至ることができたこと、自然と頬は緩んでしまう。『見つけたよ!』と幽霊に向かって大きく頷くと、目の前の幽霊はゆっくりと左右に揺れ、そのまま空間に霧散していった。

 視界では、ただ白い霧が消えただけ……しかし、紬が正解に辿り着いたことを喜んでくれたように見えた。

(やった……)

 見つけた。

 ついに見つけた。

(やったぁ! やったやったやったやったぁ! これで事件解決だぁ!)

 これでようやく後藤のためになることができる。

 感謝の気持ちを、こうして形で返すことができる。

 これで!

(やったぁ!)

 歓喜は、紬の存在を激しく揺さぶるようだった。

(っ!?)

 直後! 歓喜に満ちた紬の全身に、絶頂の恐怖が訪れる。

 それは、予期せず背後の扉が『ばたんっ!』と勢いよく開いたから。

「がばあああああああぁ!」

 爆発せんばかりの奇声は、紬の胸を突き破り、肝を凍らせていく。

 証拠を見つけて気を抜いていたばかりに、襲われた極限までの衝撃は、魂を鷲掴みにされたかと思うほど激しいものであった。


 事件を解決する鍵は手に入れた。しかし、紬がその鍵を見つけてしまったばかりに、さらなる恐怖に陥ることとなる。

 家全体が再び闇色に覆われ、命が刈り取られる危険に直面して。

 絶頂の痛みは、紬の体を不能と化して。

 超絶な恐怖は、紬の心を麻痺させる。

 死は大きく口を開けていた。

 すぐ目の前に……。

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