第4話


 松原花音 2



       ※


 四月二十九日、金曜日。

「幽霊ですか、また難しいお話ですね」

 私鉄電車のボックス席。あまりクッション性は高くなく、背もたれがほぼ直角。そんな背もたれにぴったり沿うように姿勢正しい祖父は、進行方向を背にして腰かけている。『難しい話ですね』と言いながらも一切困った様子がない。顔には花音がいつも見ている穏やかな表情を浮かべている。

「『いるいない』『あるない』『存在するしない』というのは、それがどういうことなのかという定義によって異なりますから、はっきりと断言することはできませんね」

 祖父の名は松原まつばら孝太郎こうたろう。白と黒が半々の短髪の下、かけている丸い眼鏡の奥にやさしい眼差しを携えている。薄茶色のジャケット姿、痩せていて姿勢がいいので、すっと縦に長い棒のよう。歩くときも食事をするときも座るときもお喋りするときも、ゆったりとした動作で、慌てた様子なんて見たことがない。それは、自分の息子が意識不明で入院しようとも、その嫁が殺害されようとも。

 きっと年の功というのは、『取り乱す』といった情緒不安定さとは縁のない領域に達するものなのだろう。

 偉大である。

「花音は信じていないんですね?」

「そりゃそうよ。だってだって、見たことないんだもーん。そんなの信じられるはずないじゃーん。ほんとにいるなら、見せてほしいわー」

「それが花音の考え方なんですね。『見えるから信じる』『見えないから信じない』と。ですけど、じいちゃんの考え方だと、『見えないから信じられない』っていうのは、ちょっと違うと思いますね」

「どうしてぇ?」

「花音には見えないものも、世の中にはたくさん存在するからですよ」

 水筒のお茶を口に含む祖父。花音も促されたが首を横に振った。祖父は立ち上がって網棚に置かれているリュックと鞄の間に押し込んでいく。

 花音の隣、そこには花柄の黄色いワンピース姿のほのかがいる。今は学校の図書室で借りた本を読んでいた。家でもよく読んでいる。花音も誘われたが、読書はあまり得意でないし、字を読むのは学校の勉強だけで充分だった。どちらかというと、外を走り回っている方がいい。

 窓の外、さっきまで住宅が多く見えていたのに、いつの間には住宅と住宅の間が離れていて、田畑が眺められるようになっていた。愛名駅を出たときは背の高いビルばかりだったが、数十分でもう別世界。同じレールの上を走ってきただけなのに。

 と、車内にアナウンスが流れる。もうすぐ次の駅に着くのだろう。

 網棚に水筒をしまうために立ち上がっていた祖父はゆっくりと腰かけ、右手の人差し指を立てることで天井を示す。

「今の放送の人だって、見えませんね。でも、ちゃんと実在する人ですよ。たまに録音したものも流れますが、今のはマイクを通して喋ったものですね」

「そんなの運転席にいる人でしょ? 前か後ろかにいけば見えるよ」

「でも、今は見えませんよ。少なくとも目の届くところにいないですね」

 にっこり。

「でも、『見えないから信じられない』なんてことにはなりませんね。つまり、見えないものでもちゃんと存在します。世の中、そういったものはたくさんありますよ。どうですか?」

「うーん……おじいちゃんの言ってること、あたしの言ってる幽霊とはちょっと違うと思うんだけどぉ」

「はははっ、あんまり納得いってないみたいですね。うんうん。花音は、そうやってしっかり考えようとしますから、えらいです」

 祖父の視線は変わらずに温かなもの。困っている花音を支援するように、また口を開ける。それはいつだって。

「そうですね……花音は虹を知っていますね?」

「空のやつ? 雨上がりに出るやつでしょ。三年生のときに、遠足で見たよ。ああ、そうか、ホースで水撒きすると小さいのが見えるね。ホースのはあんまり感動しないけど」

「色は言えますか? 全部ですよ」

「うん。赤と黄色と、青と、緑と、紫と……あれ?」

 指折り数えたが、五色しかなかった。虹は七色のはずなのに。もう一回手を広げる。

「ちょっと待ってね。えーと、赤と黄色と、緑と青と……あれ、何色があったっけ?」

「外側から内側に向かって『赤、橙、黄、緑、青、藍、紫』の順番です。虹も普段は見えないですね。でも、ちゃんとあります」

「そりゃ、普段は見えないかもだけど、見えるときは見えるから、ちゃんとあるよ。それは信じられる。実際、見たことあるし」

「それはつまり、虹が信じられて、色の違いも信じられるわけですね。では、今度は色について考えていきましょうか」

「色って、赤とか青とか?」

「ちょっとだけ難しい話になるかもしれませんが……色というのは、波長の違いによって変わるものです。さっきの七色でいうと、赤色の波長が一番長くて、内側にいくほど波長が短くなっていきます。つまり、紫の波長が一番短いんですね」

「おじいちゃん、『波長』って?」

「波の長さです。海から波が押し寄せてくるとすると、最初の波と次の波の間隔、その長さを波長といいます。海の波と同じように、光は波で伝わりますから、光の波長によって色が変わるんですね。変化が分かりやすいのが、虹なんです」

「ふーん……」

「でもですね、赤が一番長いからといって、赤よりも長い波がないわけじゃないんですよ」

「んっ?」

「紫が一番短いからといって、紫よりも短い波がないわけじゃないんです」

「んんっ?」

 祖父の言うことが段々難しくなってきた。花音はこんがりそうになる頭を整理する。

 色は波長によって変わる。

 虹の七色でいえば、赤が一番長い。紫が一番短い。

 けれど、波長の一番長い赤より長い波がある?

 そして、波長の一番短い紫より短い波がある?

「えーとえーと、だからだから……一番の意味が違うってこと?」

「さすが花音ですね」

 祖父はにっこり。

「一番っていうのは、『赤から紫の間で一番』ということです。その中なら一番波長が長いのは赤、一番波長が短いのは紫なんです」

「それ以外にあるの?」

 虹を思い浮かべる。一番外側が赤色で、内側が紫色。虹の外側にも内側にも、それ以外の色はない。

 理解できないことを前に、段々眉間の皺が深くなってきた。

「……おじいちゃん、難しいよぉ」

「はははっ、もうちょっとだけ考えてみましょう。いいですか、花音もテレビやなんかで聞いたことがあると思いますが、領域でいうと『赤外線』『紫外線』というのがあります。虹でいえば、赤よりも外側にあるのは『赤外線』で、紫より内側にあるのが『紫外線』です。それは字のままですね」

「それなら聞いたことあるけど、それが虹の外側と内側ってことなんだ。でも……それってどういうこと?」

「虹の外側にも内側にも色は見えないですね? でも、そこに見えない領域が存在するということです。肉眼では見えませんけど、特別な装置を使えば見えるようになります。『見えないけど、存在する』ですね」

「うーん……」

「つまり、見えないからって信じられないってことはないんですよ。実際、『赤外線』と『紫外線』というものは存在しますから」

「でもでも、それは特別な装置があれば見えるんだよね。じゃあ、幽霊も特別な装置があると見えるのかな?」

「でしたら、心霊写真に写っているのが幽霊だとすれば、カメラで見えることになりますね」

 祖父は頬を緩める。

「少し角度を変えてみることにしましょう。そもそも、『見る』っていうのは、どういうことだと思いますか?」

 祖父は右手を顔の前に出す。

「今は『右手を見ている』ですね。でも、じいちゃんも花音も、実際にはこの右手を見ているわけじゃないんですよ」

「んんんんっ!?」

 祖父の言葉、花音にはますますついていけない。

 右手を見ているのに、右手を見ているわけではない!?

 まるで押し問答みたい。

「右手が右手じゃないってこと? 手じゃなくて皮膚とか、手の皺とか、そういったのを見てるってこと?」

「いいえ、右手は右手です。これですね。これは間違いなく右手です。でも、目に見えているのは右手じゃないんですよ」

「うーん……じゃあ、何を見てるの?」

「見ているものはですね、『光』なんです」

 祖父は開いた右手を反対の手で指差す。

「今こうして見ているものは、ここにある光を見ているんですよ。事実、真っ暗だったら右手なんて見えないですね? 暗いから、目のすぐ前に手をやったとしても、見えはしません」

「そうかなぁ? 夜でもぼんやりとなら見えるけど」

「それは窓から入る光があるからですよ。家だったら雨戸を閉めて本当に真っ暗にしたら、何も見えなくなります」

「ああ、そういえば、台風の日に雨戸閉めたら、暗かった気がする。『あれ、もう夜になっちゃった』って思ったから……」

「手を見ているつもりでいますが、実際には手でなくここにある光を見ているわけです。ここにある光が目に届くわけですね。では、なぜ手を見ている気になるかというと、光がとてつもなく速いからです。光は一瞬で物凄く遠くまでいってしまいますね。では、光がどれぐらい速いか知っていますか?」

「はいはーいぃ! それって光速のことでしょ? 知ってる知ってるぅ。前に漫画で読んだことあるよぉ。光は一秒間に地球を七周半できるぅ」

「はい、正解です。さすが花音ですね」

 祖父は嬉しそうに頬を緩めた。

「光は一秒間に約三十万キロメートル進むことができます。新幹線や飛行機なんか比べ物にならないぐらい速いですね。音速ですら一秒間に三百四十メートルですから。これは授業で習ったかもしれないですが、雷までの距離は、光ってから鳴るまでの時間差で分かるわけですね」

 祖父は右手と目の間に左手を広げる。

「今、右手から目まで、じいちゃんの手よりも広いからだいたい三十センチメートルぐらいです。では、ここから目まで、光は何秒で届くでしょうか?」

「計算すればいいんだよね」

 単位を揃えて計算すればいい。花音にもできる。

「うーんと、三十万キロは……三億メートル。三十センチは〇・三メートル」

 分母を三億、分子を〇・三にすると答えを得る。

「十億分の一秒ね」

「はい、正解です。僅かにですが、タイムラグがあるんですね」

「タイムラグって、ほんとはちょっと遅れてるってことだよね」

「はい。光が手から目まで届くのに十億分の一秒かかるということです。でも、そんな僅かな時間、人間じゃとても感知できません。ほんとに一瞬の一瞬の一瞬のことですから。十億分の一秒のタイムラグを感じることなく、人はこうして右手を見ていると思い込んでいるわけです」

 祖父は右手をパーからグーに、グーからパーに変える。

「もしですよ、光が物凄く遅かったとしたらどうなるでしょうか?」

「物凄くって?」

「そうですね……右手から目まで光が到達するまでに五秒かかったとします」

「五秒?」

「はい。すると、じいちゃんがパーからグーに変えてから五秒後に、目にはパーからグーに変わったように見えるはずです。手を動かした感覚から五秒後に映像が目に届くわけですね」

「うん」

 花音も自分の手をグーからパーに変えて……祖父が言っていること、ちゃんとイメージできている。自分の手を見るのでなく、テレビの画面で五秒前の映像を目にしているとすればいい。

「そんなだったら、まともに歩くこともできないね。五秒前の映像しか見れないんだから、危なくて交差点なんて渡れないよ。誰かにぶつかったり、車に轢かれちゃうから。そもそもそんな人が車を運転してたら、交通事故ばかりになっちゃう」

「そうですね、信号が変わったことすら分からないですからね。とすると、女性の人はお化粧なんてできなくなってしまうでしょうね」

「お化粧?」

「そうですよ。手元にあるコンパクトの鏡で自分を見ますよね。でも、実際は光を見ているわけですから、十秒前の自分を見ることになるんです」

「んっ……? どうして十秒なの? 鏡からなら五秒でしょ?」

「まず自分の姿を鏡に反射させないといけないからですよ」

「ああ、そっか」

 分かった。まず自分の姿が鏡に届くのに五秒、鏡から反射してきて目に届くのに五秒、合わせて十秒。

「あはははっ、お母さん大変だぁー。鏡に映った十秒前の自分を見ながらお化粧しなくちゃいけないんだから」

 妙におかしかった、母親の唇から大きく外れる口紅を想像して。まるでギャグ漫画みたい。

「お母さん、お出かけできなくなっちゃうなー」

「お母さんだけじゃなくて、花音も寝癖が直せなくなるんですよ。いつまで経っても学校にいけないですね」

「あー……」

 どうやら他人の不幸ばかりを笑っている場合でないらしい。とはいえ、これは架空の話だけど。

「こんなの『もしも』って話だから、大丈夫。うん、大丈夫」

「少し話が脱線しましたが、『見えるもの』ということはすべてそこから届く『光』を見ているわけです」

「知らなかった。みんな光を見てるんだー」

「ここがおもしろいところですが」

 祖父は右手の人差し指を立て、一拍空けた。これからとても重要なことを発表するみたいに。

「もし幽霊を見ることができるのだとすれば」

 祖父は目の横にある皺を深めていく。

「『幽霊は光』ということになりますね」

 にっこり笑顔。


 一定の間隔で揺れる車両。向き合ったボックス席で、花音の右隣にはほのかがいる。花音の正面には祖父がいる。そして、ほのかの正面かつ祖父の隣に、一人の男子児童が腰かけていた。

 黄金井紬。幽霊が見えるというほら吹き黄金井。

 こうして花音たちは休日に四人で電車に乗っている。目的地は、太平洋沿いの美河郡にあるほのかの家。

 あの夜の公園で約束した。みんなの都合のいい日、美河郡にあるほのかの家にいくことを。花音とほのかと黄金井と。

 目的は、幽霊に会うため。それが母親を亡くしたほのかの願い。もう一度、母親に会うために。幽霊であろうとも。

 幽霊に会う。幽霊を見る。なんとも馬鹿馬鹿しい話に思えるが……しかし、祖父の話からすれば、それは『光を見る』ということになる。『幽霊は光』なのだから。

 だとすると、ほのかにとって、それが『希望の光』になることを願うばかりであった。


       ※


 午後二時。

 太陽はとても高い場所にある。ゴールデンウイーク初日の午後は、真夏を思わせるほど強烈な日差しが降り注いでいた。アスファルトの道を歩いていると、次から次に汗が出てくる。帽子を被ってこなかったことをちょっと後悔、これほどとは思わなかった。クリーム塗っていないから、日焼けしてしまうかもしれない。すぐ皮が剥けるから、できるだけ日差しを避けるように隅を歩くも、せいぜい二階建ての住宅ぐらいで影があまりないから心許ない。できることなら、家を出る前の自分に帽子とクリームのことを教えてあげたかった。

 こういうの『後悔先に立たず』というのだろう。

 暑い。

「あー、久し振りだなー。美河にきたの……二年生の頃だったかな? 夏休みでスイカ割りやったよね、ほっちゃん家で」

 右肩から鞄を斜めにかけ、潮風を背に歩いていく。緩やかな坂を、その先にあるほのかの家を目指して。


 花音たちが乗った電車は、定刻通り午前十一時五分に美河東駅に到着した。テレビでよく耳にするように、日本の鉄道は大変優秀である。花音は日本以外の電車に乗ったことはないが。

 改札を通り、まず四人で近くのオレンジ商店街にいき、食堂に入った。花音が頼んだとんかつ定食は、油っぽさがなく衣がさくさくっしていておいしく、ほのかのと一切れ交換したメンチカツは、とてもジューシーで甲乙つけがたい。

 昼食を済まし、駅近くにある美河総合病院に向かった。この辺りで一番大きな建物で、五階建て。白い外観は巨大な豆腐のよう。休日だから正面玄関から入ることができず、裏側に回って人気のないロビーに靴音が響くこと、なんとなく悪いことをしているような錯覚を得るから不思議である。奥に広いエレベーターに乗り込み、病室のある最上階を目指していく。

 502号室。

 ベッドに横たわる叔父は、何も語ることなく静かに目を閉じていた。眠りはとても深く、すでに一月から四か月も目覚めていない。

 真っ白なシーツ、パイプの柵があるベッド。囲むようにして置かれている医療器具からは、いくつものチューブが布団の下で叔父につながっている。一定の間隔で波打つ画面の波形が、まだ叔父が生きていることを語っていたが、目を閉じている叔父からは生気を感じられなかった。

 口に鉄色の管が突っ込まれており、呼吸を補助している。もし外れてしまえば、呼吸できずに死んでしまうだろう。つまり今の叔父は、自ら息をすることができていない状態にあった。『生きているというより、機器によって生かされている』というのが正しいかもしれない。少なくとも、周囲の機器に不備が起きると取り返しのつかないことになるので、冗談でも病室ではしゃぐといった幼稚なことはできない。ベッド脇に立ち、直立不動のまま。移動するときは、慎重に足を運ばなければ。

 502号室は個室で、トイレにはシャワーが完備されていた。冷蔵庫もテレビもあるが、使われていない。使うべき人間がずっと眠っているから。

 部屋は南側で、窓には白いカーテンがかけられている。コードを踏まないように大きく足を上げて近づいてみると、四角い枠から広大な太平洋を眺めることができた。

 眩しい。

 空のように真っ青な海の遠くには船が見え、そちらから次から次に押し寄せてくる白い波は、まるで何重にもなるベールのよう。日差しに照らされて緑がかった水面は輝いており、眺めている分には真夏のそれ。見ているだけで泳ぎたくなってしまう。まだまだ水温は低いだろうから、実際にやりはしないが。

 海岸線は僅かに歪曲していて、近くには数隻の船が停泊していた。きっと漁や釣り船なのだろうが、小さく見えるので遊園地にあるボートみたい。

 さらに視線を下げると、さきほど下車した駅から線路が東西に伸びている。一台の軽トラックが開いている踏切に入っていき、反対側からは二人の子供が歩いてきた。

 花音の生活範囲に海も踏切もなく、ここが知らない町であることが実感する。でも、こうして『普段ではない場所』に『普段暮らしている人』がたくさんいることを思うと、ちょっと不思議な気分。それは小学六年生である花音の世界がとても狭いから得るものかもしれなかった。

 振り返って室内に視線を戻す。愛名市から一緒にやって来た祖父は看護師と話すために出ていて、ガラス張りの向こう側に姿があった。自分の息子が意識不明の状態となり、辛く悲しい気持ちは一入だろう。普段家にいるときはやさしい祖父であるが、今は眼差しに儚さが溢れている。祖母が亡くなる前も、似た目をしていた。

 目覚めることのない叔父と初対面である黄金井は、病院もベッドに眠る叔父も興味なさそうに、隅に置いたパイプ椅子にじっと腰かけている。誰に迷惑をかけることなく、どこかに興味を持つわけでもなく、ただ静かに、おとなしく。それは教室にいるときと同じで、花音には見慣れた姿。まるで誰にも触れられたくないみたいに。『そんなんじゃ友達できないから、気をつけた方がいいよ』といらないお節介を焼きたくなる。けど、『ほら吹き黄金井』である以上、どんなに頑張っても友達なんてできないかもしれない。せめてそこだけでも改善すべきなのに。

 ただ今回は、そんなほら吹き頼みで美河郡までやって来た。複雑である。

 ほのかはピンクのリュックを背負ったまま、自分の肩ぐらいまであるベッドを覗き込み、叔父の顔をじーっと見つめていた。言葉なく、表情なく、一切視線を逸らすことなく、ずっと……きっと、いつも病室にくると、同じことをしていたのだろう。家からいなくなった自分の父親のことを、少しでも求めるようにして。

(…………)

 花音がほのかの姿を見つめることしかできないのは、かけてあげられる言葉が見つからないから。

 こんな時、気の利いた一言でも言えるようになればいいのに。

(…………)

 ほのかの横に立ち、改めて叔父の顔を目にする。暮らしている場所のせいか、以前は年中日焼けしていて、とても力強い感じがあったのに……今は顔色が白く、瞼を下ろした表情からは生きている温もりが感じられない。頬がこけているし、四角い眼鏡も外しているし……変わっていないのは右目の下にあるほくろぐらい。それは亡くなった叔母と同じ場所にあった。

 病院という場所と、寂しそうな祖父の姿が近くにあるせいか、なんとなく、亡くなった祖母のことを思い出す。入院していたのは花音が幼稚園に通っている頃で、人の死なんて縁がなかったのに、それでも祖母が日に日に痩せこけていく姿に、思うものがあった。『ああ、もう駄目なんだ……』と。誰かに教えてもらったものでなく、花音の内側に灯る命が察した気がする。理解の及ばない不鮮明な感覚だった。事実、祖母は半年後に亡くなることとなる。

 ほのかにも祖父にも申し訳ないが、あの頃と同じものを叔父にも感じた。そんなこと、誰も願っていないのに。

(…………)

 ふと思う。現状において、叔父の気持ちになると、複雑な思いに駆られていく。一月からずっと眠りつづけている叔父はまだ知らない、自分の奥さんが殺されたという事実を。叔父が目覚めてその事実を知ったとき、いったいどれだけ強く心を痛めるのだろう? 娘の花音ですら長い間無気力になり、生活に支障をきたしていた。なら、叔父だって同様の思いに駆られることは必至である。そう考えると、もしかしたらこのまま眠っている方が幸せなのかもしれない。なぜなら、押し寄せる自責の念に自身の命を投げ出すかもしれないから。

『自分が入院したせいで、大切な人が殺された』

 苦しむ叔父の姿、見たくなかった。

 けれど……けれど、どれだけ目を逸らしたくても、現状がこれである。叔母は殺され、犯人は捕まっていない。病に倒れる叔父は目覚めることなく、しかし、ほのかのためを思うなら、一刻も早く目覚めてほしい。また元気になってもらいたい。けれど、そうなると辛い現実が待っている。

 歯痒い。

(せめて)

 この瞬間、花音に『せめて』という思いが生まれた。それがあれば、目覚めた叔父に少しぐらいの救いを与えてあげられるかもしれないから。

(せめて……)


 結局、病院には一時間もいなかった。花音たちは病院を後にし、本日の目的地であるほのかの家を目指して緩やかな坂道を歩いている。祖父は一緒でない。何か手続きがあるのか、はたまた誰もいない家にいくことを気遣ったのか、病院に残るという。

 考えてみると、花音にとっては叔父の家でも、祖父からすれば自分の次男の妻の実家ということになる。そんな家にいくのはちょっと気後れするのかもしれない。家に誰もいないとしても。誰もいないからこそ、かもしれないが。

「こうしてみると、前の山がさ、こう、迫ってくるみたいね」

 駅からつづく緩やかな上り坂。見渡してみると、連なる山々に囲まれている。前方の青い空には山の峰と隆線がくっきりと浮き上がっていて、緑いっぱいだった。中腹にはホテルや保養所のような建物がちらほら見える。山道を走っていく乗用車がミニカーよりも小さく見えた。

 後ろを振り返ってみると、木造の駅越しに病院で見た広大な太平洋を眺められる。そこから吹いてくる潮風が背中を押してくれた。鼻をくすぐるような懐かしい匂い。気持ちがいい。

 日差しを避けるために、なるべく建物の影に入りながら瓦屋根の建物に沿って歩いていくと、左手に緑色のネットが見えた。去年までほのかが通っていた美河東小学校。手前には田んぼがあって少し離れているものの、グラウンドに青いユニホーム姿の児童が見えた。今日は休日であるが、ああしてグラウンドで部活動をしているのだろう。男子の声が風に乗ってくるが、もしソフトボールもやっていたら見学してみたいところ。おもしろい練習方法を見つけられるかもしれないから……けれど、そんな時間はないので、後ろ髪を引かれつつ、上り坂に歩を進めていく。

 前方に橋が見えた。焦げ茶色の木製で、手前からだと橋の向こう側が見えないほど見事なアーチ状になっている。まるで漫画に出てきそうな橋。橋が架かっているのは川幅が十メートルほどの用水路。両側には雑踏が多く茂っていて、緑色に挟まれるようにきらきらっと光を反射させながら水が流れていく。身を乗り出すと、さっと魚が岩陰に隠れるのが見えた。魚やザリガニを捕まえるといった水遊びができそうだが、水に入るには冷たそう。ほのかは遊んだことないらしいが、男子が遊んでいるのをたまに見かけたという。こういう場所は愛名市にあまりないので、羨ましくある。とはいえ、六年生にもなって魚を捕まえるのも考えものであるが。それも女子がなんて。

 川を越えてさらに歩いていくと、赤信号に足止めされた。片側一車線の県道で、考えてみれば、駅からずっと歩いてきて初めてぶつかった信号機。

 前方を見ると、道は前方の山に伸びていて、一切信号機が見当たらなかった。乗用車とも擦れ違うことがほとんどないし、これが田舎ということなのかもしれない。花音は登校するのに信号を三つも越えないといけないから、集団登校だとみんながちゃんと渡れるように青信号を一度やり過ごさなければならないケースが多々あり、いらいらする。そういう意味では、人通りが少ないのは便利だと思った。でも、これが毎日だったら……もしかしたら寂しい気分になるかもしれない。

 交差点の向こう側に交番がある。花音にとって白い正方形の建物はあまりみたことがなく、金色バッチがある紺色の制服を着たお巡りさんが外に出て立っていた。遠目でも随分大きな人だと分かる。前の道のスピード違反でも取り締まっているのか、首を左右に動かして、通り過ぎていく乗用車やトラックをチェックしている様子。

 きっと、ああしてお巡りさんが外に立っているだけでスピード違反の抑止力になっているのだろう。学校の自習でも、先生がいるのといないのとで、教室の様子が大違いなように。いないと、うるさくて隣のクラスから苦情がくるから、学級委員としては大変である。思い出したら、杉杉コンビの顔が思い浮かび……眉間に皺ができてしまった。首を大きく振って頭から振り払う。その様子に、隣を歩くほのかに首を傾げられたので、満面の笑みを返しておいた。

 信号機が青に変わる。大量の土砂を積んだ大型トラックが停止線をちょっとオーバーしたところでちゃんと停止したことを確認。交番が目に入ったのかもしれない。

 花音とほのか、その後ろから黄金井の順で渡っていくと……なんと、向こう側にいたお巡りさんがこちらを見つめてくる。いや、そればかりか、驚いたみたいに目を大きくさせたではないか!?

「やあ! ほのかちゃん、久し振りだねぇ」

 大きく手を上げたお巡りさんは、丸顔に大きな笑みを浮かべて、どっしどっしと巨体を揺らして近づいてくる。そして花音の右隣に隠れるようにしているほのかに声をかける。

「確か親戚の家に引っ越したって話だったけど、今日はどうしたの? それとも、お父さんのお見舞いで戻ってきたのかなぁ」

「…………」

「おうちにいくんだよね? 今から」

「……うん」

 ほのかの返事はとても小さなもの。人当りのよさそうな人だが、ほのかは苦手なのかもしれない。ただ、元来の人見知りの性格なので、詳細は定かでないが。

 花音は、ほのかの前に立つ。まるで壁のように立ち塞がり、お巡りさんと対峙した。

 大きく咳払い。ごほんっ! 相手はお巡りさんであるが、こうして理不尽な現状がある以上、それを突きつけるように、

「今からね、叔母さんを殺した犯人を見つけにいくのよ」

 言い放った。

 花音の決意である。病院で叔父の顔を見たとき、胸に抱いた『せめて』の思いがそれだった。

『せめて犯人が逮捕されればいいのに』

 まだ事件が解決していないのならば、花音が解決しようと思った。というのも、今回の目的は、ほら吹き黄金井を介することで、叔母の幽霊と会うこと。本当にそんなことができるとは思っていないが、いかんせん、ほのかは下駄箱の件も含めて、すっかり信じきっている。

 少しでもほのかの心が救われるならと、今回は祖父に頼んで連れてきてもらった。両親は仕事だったし、それに両親だと同行する黄金井のことを説明しないといけなくて、うまく説得できる自信がない。両親ならきっと許可が出ないだろうから、祖父に頼むことにした。祖父はいつも快く受け入れてくれるから。やさしいから。

 とはいえ、おかしなことを言い出したと思われるのはいやだから、黄金井の幽霊に関することは伏せている。『友達が美河に遊びにいきたいって』という理由だったが……とても楽しそうでない黄金井のことを見て、祖父はどう思っただろうか? 謎である。年の功で、その辺はなんとなく察してくれたのかもしれない。感謝。

 ともあれ、実現するかどうかはともかく、名目は幽霊の叔母に会いにいくのであり、叔母の幽霊に会いにいくのなら、そのまま犯人を教えてもらえばいいだけのこと。それに気がついた。なんせ殺された人に犯人を訊くのだから、これで事件は解決である。警察が解決できない難事件だろうと、花音たちで犯人を捕まえることができるのだ。ナイスアイデアである。

「あたしが、なんとしても叔母さんの無念を晴らしてみせるわ」

「おやおや、これは頼もしい発言だね。でも、どうやって?」

「それは……家にいってから考えるわよ。きっとね、ヒントがあると思うのよね」

 ほんとはヒントでなく、直接答えを教えてもらうのだが。

「あたしたちならできるわ。シャーロック・ホームズみたいに『名探偵』って呼ばれちゃうかも。困っちゃうな、取材とかきたら」

「なるほど、事件現場にまだヒントが残ってるかもしれないってことか。でも、警察が徹底的に調べたんだけどな……」

 眉を寄せるお巡りさん。

「本官がこんなこと言っちゃいけないけど、警察だって人間だからね、もしかしたら見逃した、なんてことがあるかもしれないね。なるほど、そしたらお手柄だ」

「金一封もらえるかな?」

「わはははっ。これはまた現金な子だね。張り切るのはいいけど、少しはほのかちゃんの気持ちも考えないといけないよ。とはいえ……」

 お巡りさんは視線を斜め上に向け、なにやら考え込むような仕草……五秒後には勢いよく立ち上がり、口にする。

「だったら、本官も付き添うことにするよ」

 お巡りさんは右手を握り、拳を力強く見せている。

「事件については警察に任せてほしいっていうのが本音だけど、でも、解決できていない状況が状況だからね。だから、君たちも納得いっていないんだよね。うん、それは本官も同じだ。ただ、解決していないってことか、まだ犯人が捕まっていないってことで、もしかしたらこの辺に犯人が潜んでて、みんなのことを見張ってるかもしれない。危険だから、本官も一緒についていくよ」

「とかいって、ほんとは手柄を横取りしたいんじゃないのぉ?」

「わはははっ、それもいいね。難事件だからね、そうしてくれると本官の出世が一気に……いやいや、そんなのは二の次だから」

「まあ、頼りにしたいところだけど……」

 花音は首を捻る。

 確かに事件は未解決なので、犯人がうろうろしているかもしれない。なんせ人殺しの犯人なのだ、狂暴で残忍で鬼や般若みたいな顔をしているだろうから、物凄く危険である。事件を探ろうとしているのであれば、目をつけられる危険性はあるだろう。

 けれど、やることといえばほのかの家にいくだけ。さすがに家の中までは見張られないだろうから、危険はないと思うが……まあ、お巡りさんがいればいたで頼もしいし、もしかしたら花音たちでは分からないが分かることだってあるはず。公開されていない事件の詳細を聞くことができるかもしれないし。

 一瞬の逡巡後、花音は頷いていた。

「よろしくね。あたしは花音、ほっちゃんは知ってるよね? で、こっちが黄金井。じゃあ、一緒にいこう。ばっちり犯人捕まえようね」

 花音が拳を上げると、お巡りさんは『出発ぅ!』と大きく拳を振り上げた。子供っぽい大人である。大きな巨体は熊みたいなのに、顔を大きく崩して笑って。

(時間いいのかなぁ?)

 こんなことに付き添ってくれるなんて、田舎の警察はよっぽど暇なのだろうか? 今だって突っ立って通り過ぎる車を見ていただけだし。

(まあ、いいや)

 お巡りさんという新たな仲間を加えて、花音は止めていた足を動かしていく。目的地はもう目と鼻の先。


 交番から五分もしない場所にほのかの家があるが、その前に寄り道。家の北部に丘があり、多くの木々が枝葉を広げている。そこは小さな墓場であった。

 ほのかの先祖が眠っている墓は、『墓石』のイメージからかけ離れた小さくみすぼらしいもの。河原に転がっているちょっと大きな岩みたい。周囲には立派な墓石がたくさん並んでいるのに、丸まった角なんて苔が生えている。添える花もなく、置かれていた桶の水を勺で掬ってかけた。石が黒く変色するのを目に、花音は静かに手を合わせる。

(待っててね、叔母さん。今から叔母さんを殺した犯人を捕まえてあげるから)

 祈ったものの、その手段は叔母の幽霊に犯人を尋ねるというもの。なんだか決意と行動が矛盾している気がして、不謹慎にも小さく笑ってしまった。

 花音の横では、ほのかもお巡りさんもしゃがみ込んで手を合わせている。しかし、黄金井だけはきょろきょろと視線を巡らせ、どこか忙しなくしていた。手を合わせることなく、墓に見向きもしない。

「どうしたの、あんたも手を合わせなさいよ」

「……おれは、いい……ここは、いや、だ……向こうで、待ってる」

 言い終わるが早いか、黄金井は路地に抜ける小道を下っていってしまった。その顔は、焦っているようでもあり、怯えているようでもある。『墓場が怖いなんて、ほら吹き黄金井もまだまだ子供なんだな』と、少しだけ微笑ましかった。あの分だと、学校で肝試しなんてイベントがあれば、黄金井はずる休みするかもしれないし、遊園地だと絶対お化け屋敷なんていかないだろう。現状、学校で肝試しなんてしないし、一緒に遊園地にいくこともないが。


 寄り道の墓参りを済ませ、いよいよ目的地であるほのかの家に到着。

 以前きたときの花音の記憶通り、路地から敷地に入るには、巨大な溝を越えなければならない。子供の身長よりも遥かに深いもので、落ちたら無事ではいられないだろう。近くには外灯も設置されているものの、夜は要注意である。水は溜まっておらず、石壁が白く渇いていた。

 その溝にかけられたコンクリートの橋を渡り、枝が大きく路地まではみ出している木を目にしていると、ほのかに『それは柿の木だよ』と教えてもらった。秋になったら実がたくさん生るという。ちゃんと食べられるそうなので、『今後は秋にくるのもいいな』なんて思いながら、塀と小屋の間を抜けて奥へ。

 道路から三十メートルほど進むと開けた場所に出た。手前には何も干されていない洗濯竿があり、奥には竹林が見える。風によって葉がさらさらっと揺れていた。玄関横には石で囲んだ花壇があるが、雑草が多く生えている。ほのかの話だと、毎年チューリップの球根を埋めるらしいが、今年は咲いたかどうか分からない。その時期、ほのかはこの家にいなかったから。

 住居は木造二階建て。中央の玄関は擦りガラスに格子のある引き戸で、鍵を持ってきたほのかが開錠する。

「……おい」

 と、ここまでおとなしくしていた黄金井が耳元で囁いた。見てみると、あろうことか花音の青シャツを引っ張っているではないか!?

「ここ、まずい。入らない方が、いい」

「ちょ……ちょっと、あんたね、それ、さっきも似たようなこと聞いたような気がするけど」

 墓場の台詞と同じであった。さっき同様に、今にも逃げ出そうとする黄金井。けれど、そんなこと断じて許さない。今日の目的は、叔父のお見舞いと叔母の墓参りも然ることながら、メインはここに黄金井を連れてくること。幽霊が見えるというほら吹き黄金井の力を存分に発揮してもらうために。

 花音は黄金井の肩をぐっと掴んだ。

「逃げちゃ駄目よ。ほのかの気持ちを考えなさい。嘘でもいいから、ほのかを安心させてあげて」

「ほんとに、ここ、まずい……」

「まずくない」

「まずいんだって」

「あのね、世の中にまずいものは椎茸だけで充分よ」

 きっぱり。

「信じられるぅ!? あれ、木に寄生してんのよぉ!? 木にってんじゃなくて、えてるのぉ!? 木から養分吸ってるんだから。そんなの食べたら、あたしの体が寄生されちゃうじゃないのぉ!?」

 よぼよぼになっていく自身の姿を想像しては、頭を抱える。

「ああああ、冗談じゃないわぁ!」

「おれ、今、好き嫌いの話、してるわけじゃない。ここ、ほんとに、まずい」

「まずくない!」

 先に入っていった二人を気にしてこれまで小声で喋っていたが、感情の苛立ちについ声が大きくなる。

「あんたね、わがままいってんじゃないわよぉ! ここまできて、引き返すわけにいかないでしょ!?」

「……本当に、まずい」

「あー、はいはい。よし、あとでアイス食べさせてあげるから、今は我慢しましょうね。はいはい、お利口お利口―……ああ、ううん。ごめんごめん。あのね、黄金井がわけの分からないホームシックになっちゃって、『早く帰りたいよー』なんてわけの分からないこと言うもんだから。はははっ。おかしいよね、ほんとに」

 二人のやり取りに、不思議そうにしていたほのかとお巡りさんに手を振りながら笑顔を返しておいた。

 すでに玄関は開いている。なら、引き返す馬鹿なんていない。花音は黄金井の後ろに素早く回り、逃げられないように通せん坊。

「はい、入った入った。ほら、早くする」

「…………」

 花音に睨まれ、黄金井は渋々ならも覚悟を決めた様子。盛大ないやいや加減を丸めた背中で示して玄関に入っていく。

 と、次の瞬間、黄金井の体に異変が!?

(……へっ?)

 目にした光景に、花音の目がまん丸に。

 最初は戻ってきたのかと思った。後ろにいる花音に黄金井の背中が迫ってきて、『おいおい、往生際が悪いな。いい加減にしなよ』と思った……しかししかし、角度がおかしい。歩を戻して後退したわけでなく、後ろに倒れてきたのである。

 すぐ黄金井の後頭部が見えてきて、鼻が見えて、顔が見えた。そう思ったら、黄金井は両腕を回してバランスを保とうとして、けれど、どうすることもできずに石が埋め込まれたコンクリートの地面に尻餅をついた。字にしたら『どたーんっ!』といった感じに。

「ちょ、ちょっと、大丈夫ぅ?」

 あの不自然な倒れ方、転んだというより、前から押し倒されたような……先に入ったほのかもお巡りさんも離れたところでこちらを不思議そうに見ているので、あの二人が押したわけではない。そもそもあの二人が黄金井を押し倒す意味がないし。

 あれほど入るのをいやがってたから、腰が引けていて、それでバランスを崩したのだろうか?

「何やってるの、まったく。馬鹿なんだからぁ」

「…………」

 尻餅をついたまま、黄金井は暫く呆然とするように動くことがない。『痛い!』とも『うわー、転んじゃったよぉ!?』とも口にすることなく、すっと立ち上がった。肩で大きく息をして……そうして慎重な足運びで玄関に入っていく。

(地面が滑るの……? じゃないな。濡れてるわけじゃないし……)

 小石が埋め込まれたコンクリートの地面を足で摩ってみるが……滑るようなことはなかった。そもそも埋め込まれた石が滑り止めの役割を果たしているぐらい。前をいく二人も平気だったし。

(あいつ、鈍くはないんだけど……?)

 ほら吹き黄金井はほら吹き黄金井だが、決して運動神経が悪いわけではない。いや、悪いどころかかなりいい方である。部活に入っていないものの、去年の運動会では、野球部の杉杉コンビとともにリレーの選手に選ばれたぐらいに。

(まあ、黄金井のことなんてどうでもいいや。誰だって転んじゃうことぐらいあるだろうし。うん、随分と及び腰だったしね)

 腑に落ちないことに小さく首を傾げつつも……小刻みに首を振る。病院に祖父を残しているので、あまり時間があるわけでない。今日は日帰りであり、もうすぐ三時だから、一時間いられればいい方だろう。さっさとやるべきことをやらなければ。今日中に帰らないと、明日の部活に出られなくなってしまう。明後日が試合なので、練習は絶対に休めないのだ。

 土間で靴を脱ごうとするが、田舎の家の特徴なのか、床がかなり高い。ジーンズを穿いた脚を大きく上げてもいいが、花音はもう小学六年生、ちょっとぐらいおしとやかな面も必要。

 借りてきた猫を被るかのごとく、澄ました感じで顔を上げ、高い床に腰かけてから靴を脱ぐ。すでに革靴とスニーカー二足があり、それぞればらばら。自分の分も含めて揃えておく。それだけのことで、ちょっとお姉さんになれた気分。そんな気がすることが、まだまだ子供であることを物語っていると悟りつつも。

(んっ……? ちょっと、むずむずするぞ?)

 漂う空気に、鼻が気になった。ひくひくっと動いてしまう。普段使われていない体育倉庫に入ったみたいに、とても埃っぽい……と思ったところで、ほのかが二月に愛名市の家にきて以来、ここに誰も足を踏み入れていないことを思い出す。意識して床に触れた手を見てみると、白っぽくなった。たった二か月間とはいえ、誰もいなくなるとこんな風になること、不思議な気持ち。

(誰もいなくなったら、あたしんもこんな風になっちゃうのかな?)

 頭には、休みの日に母親が掃除機をかけている姿が蘇り、ただただ感謝であった。ソフトボールばかりでなくて、たまにはお手伝いもしないと。そう思うも、いつもすぐ忘れてしまう。

 そんなもんである。

「……そっか、ここなんだね」

 玄関に上がって、すぐ左の部屋が居間。十畳ほどの広さで、もう明後日からは五月だというのに、布団をかけた炬燵が置かれていた。床には爪切りや綿棒といった小物が散乱していて、顔を外に向けると、大きな窓ガラスに段ボールが貼られている。お巡りさんの話だと、犯人があそこの窓を割って家に侵入したという。修理されることなく、残されていた。

(ここで、ほんとに、あったことなんだ……)

 情報としては知っていたが、殺人事件なんて花音の生活からはかけ離れた話で現実味がなく、テレビや小説にしか出てこないものだと思っていた。実際、祖母の葬式に参列しても、ひどく落ち込むほのかを見ても、あまり実感は湧かなかったし。しかし、ああして割られている窓ガラスを見ただけで、俄然現実味を帯びてくる。

 意識すると、ちょっとだけ鼓動が強くなった。

 どきどき。

(…………)

 思わず立ち尽くす。非日常な世界に、圧倒されて。

 奥の部屋につながる扉も開いていて、仏壇が見えた。以前きたとき、線香の匂いがしていたことが、ふと鼻孔に蘇る。花音の家には仏壇がないので、奇妙な感じがしたこと、昨日のことのように思い出された。

 この家で、殺人事件が起きたこと……叔母が殺されたこと、沈痛の思い。

「…………」

「……あの、ちょ、ちょっと待ってて。お茶、淹れるから」

 普段はそんなことしないのに、花音とほのかと黄金井とお巡りさんというメンバーでは自分が動かないといけないと思ったらしく、ほのかは北側の廊下から台所に向かった。一人で大丈夫か心配だが……ここはほのかの家である。任せた方がいいだろう。ただ、準備に時間がかかるようなら、手伝いにいこうと思った。

 二月から誰も暮らしていなかったとはいえ、部屋の照明は点いているので、きっと電気も水道もガスも生きているに違いない。


「警察だって懸命に捜査したんだよ。その結果、ある一人の容疑者に辿り着いたんだ。すぐ前にあるアパートの滝川陽平という無職の人間。警察署で事情聴取したんだけど……状況からすると限りなく黒に近かった。近かったんだけど、その……鉄壁のアリバイがあるみたいで、逮捕までには踏み切れなかったんだよ」

 四人は居間のこたつを囲み、お巡りさんが事件の概要を説明しているところ。警察がそんな情報を漏洩していいのか疑問だが、きっと新聞に発表されている内容で、本当に言ってはいけないことは口にしていないのだろう。

 お巡りさんは緑茶の入った湯飲みを白い手袋をした大きな両手で覆ったまま、言葉をつなげる。

「犯人はそこの窓ガラスを割って侵入。家に戻ってきた後藤さんを殺害し、逃走。駅前のATMでこの家から盗み出した後藤さんの通帳から預金を下ろす。そこまでは分かってるんだけど、その後の足取りがさっぱりなんだ。世界的に優秀な日本の警察の捜査も虚しくね」

「捕まってないんだから、優秀なんじゃないんじゃないの?」

「ははっ、これは、松原さんは手厳しいね。でも、その通りだね。殺人事件だから、県警は全力を注いでいるんだけど……ああ、そうそう、今回はこうして悲しい事件になったけど、でも、犯人に殺意はなかったと思うんだ」

 この部屋で起きたことは叔母を殺害した殺人事件であるが、犯人が侵入した目的は別にあるという。

「盗みを目的に留守の家に忍び込んだら、そこに後藤さんが戻ってきて、咄嗟的に襲いかかった。犯人にとっては騒がれないようにしようとした結果、運悪く殺人になったみたいなんだよ。だから、最初から計画的に殺人を起こしたわけじゃないんだ。きっと急なことにパニックでもなっちゃったのかな?」

「お巡りさん、犯人の肩持つ気? そんなの何の言い訳にならないよ。自首しないで、逃げてるんだし」

「うん、そうだね」

 渋い顔。

「でもね、言いたいことは、『犯人は後藤さんに恨みがあったわけじゃない』ってこと。だって、後藤さんが誰かに恨みを買われるような人だなんて、とても思えないもん。松原さんから見てもそうだったでしょ?」

「そりゃ、叔母さんはやさしい人だったからね、誰かに恨まれて殺されるような人じゃないよ。やさしいし、美人だし。うん、絶対にそう。間違いないわ」

 うんうん、と首肯する花音。刹那、小首を傾げる。

「でもさ、お巡りさん、殺意ってのは犯人が持ってるかどうかであって、どうして犯人でもないのにそんなことが分かるの?」

「へっ……?」

「犯人の気持ちは、犯人しか分からないと思うけど」

「えーと、それはね……」

 お巡りさんは、意外なことを問われたみたいに、表情を硬直させる。考え込むように視線をどこでもない虚空に固定させてから……十秒後、視線が花音に戻ってきた。

「凶器、だよ」

 お巡りさんに明快な回答が出たのだろう、頬が緩む。

「凶器が現地調達だったんだ」

 凶器は、今囲んでいる炬燵の電源コード。こうして炬燵布団が出たままだが、コードはないのでスイッチは入れられない。暖かくなってきたからいいが、次の冬は役に立ちそうになかった。

「物騒な話だから、詳しくは……だけど。もし最初から後藤さんに恨みがある人間が犯人なら、包丁ぐらい用意するでしょ? でも、ここの炬燵コードを使ったってことは、突発的に行ったって証拠なんだ」

「ふーん……」

「ちなみに、今松原さんが座っているところに、後藤さんは倒れていたんだよ」

「ぐえぇ!?」

 喉が捩じれるような奇声が出てしまった。東西南北でいうと、花音は南側に腰かけている。ここに首を絞められた叔母が殺されていたなんて……想像すると、体中の鳥肌が立ってしまった。

 変な汗が。

「じゃ、じゃあ、早く証拠探そうか。うんうん、それがいいそれがいい。ほら、早く早く。もう時間がないよ」

 気持ち悪いというのは申し訳ないが……聞いた以上、じっとしていられない。

 花音は浮いた腰でさっと立ち上がり、行動を起こそうとして……瞬間! 家中に異音が響くこととなる。『かしゃんっ!』とガラスが割れるような音が響いた。

「なにぃ!?」

 立ち上がる途中の中腰、という半端な体勢のまま全身硬直する花音。背筋に寒気が走っていく。

「ど、ど、どうしたのかな!?」

「あっちだね。本官が見てくるよ」

 逸早く動いたのはお巡りさん。巨体で部屋を出て、さっきほのかがお茶を用意した台所に向かう。

 つづいて、花音たち三人も居間を後にした。廊下は木目の壁で、左手に洗面所、右手に階段を通り抜け、正面の台所へ。

「どうだった、お巡りさん?」

 冷蔵庫の稼働音が響いている空間には、四人がけの木製テーブルが中央にある。流し台にやかんが置かれたコンロ、頭上の換気扇は止まっていた。

 巨体は、流し台横にある食器乾燥機の前に座り込んでいる。大きいから、テーブル越しでも背中が隠れることはない。

「ほのかちゃん、ここ、皿が割れてる」

 お巡りさんの前、底の浅い皿が大きく三つに割れていた。細かい破片があるだろうから、近づくのは危険である。

「きっと落ちたんだろうけど、ここ、触った?」

「ううん。湯飲みは向こうに置いてあるから」

 テーブルの反対側に、湯飲みや丼がしまわれた食器棚がある。ちょっと高い場所にあるが、届かない高さではない。湯飲みが置かれている場所に空間ができているので、居間の四つはそこから取り出したのだろう。

「わたし、湯飲み出して、ポットは電源入ってなかったから、やかんでお湯を沸かして、お茶っ葉はコンロ下の引出しからで……近くにはいたけど、やっぱり乾燥機には触ってない」

「でも、落ちちゃってるから、変な風に置いてあったのが落ちちゃったのかもしれないね。ほのかちゃんが歩いた振動で落ちそうになって、時間が経って落ちちゃったとか。ほのかちゃん、掃除機ある? このままだと危ないから掃除しよう。みんな、それ以上は近づかないでね」

 白い手袋をした手を伸ばし、大きな破片を拾うお巡りさん。

 に対して、これまでずっと黙り込んでいた黄金井が口を開ける。こんなタイミングで、実に突拍子のない質問を。

「どうして、手袋、してる、の?」

「へっ……?」

 振り返ったお巡りさんは、目を丸くしていた。思いもしなかったことを訊かれたみたいに、割れた皿に手を伸ばしたまま、きょとんとしている。

「……ああ、そうだね、手袋してるね。これは……そうだよ、ほのかちゃんたちが証拠探すってことだったから、素手で触って証拠が証拠でなくなったら困るでしょ。でも、皿拾うのに、ちょうどよかったよ。わはははっ」

 お巡りさんは笑みを浮かべた。

(そういえば……)

 交番で会ったときは手袋をしていなかった。お墓で手を合わせていたときもしていなかったと思う。けど、さっき炬燵を囲んで話しているときは、すでに手袋をしていた。湯飲みは手袋で持って飲んでいたから印象に残っている。推測するに、家に入る前につけたのだろう。警察官だから、その辺は徹底しているのかもしれない。

 とすると、『花音たちは素手でいいのだろうか?』と疑問に思うが、用意していないから仕方ない。季節が冬だったらなんとかなったかもしれないのに。

(にしても、妙なことに気づくのね)

 見てみると、黄金井は眉を寄せた難しい顔で、皿を拾っているお巡りさんを見つめている。いったい何を考えているのか、さっぱり分からない。

 声をかけようとするも……掃除機を持ってきたほのかが前を通ったので、なんとなくその機会を失った。


       ※


 午後四時。

 四人で家を出て、前の路地を歩いていく。

 広い空はまだまだ青色を有している。暖かな気温に、吹いてくる風が心地よく感じられた。包む空気からすっかり冬の厳しさはなくなっている。

「……駄目だったねー」

 叔父の病室で犯人逮捕を熱く誓い、事件解決の糸口を見つけるとあんなに張り切っていたのに……証拠らしい証拠どころか、事件を紐解くヒントすら見つけることができなかった。

 考えてみれば当たり前の話である、そんなものがあれば警察がとっくに見つけている。なぜ自分ができると思ったのか、今にして思うと甚だ疑問でしかない。

 こうして花音たちは、陰鬱な気分で帰路につくこととなるが……しかし、気分が晴れないのは、証拠が見つからなかった以外の要素も含まれていた。

 あの家で直面した、不可解さ。

(…………)

 ほのかの家で何か証拠になりそうなものを捜索しているとき、いくつか奇妙なことが起きた。

 壁にかけられた時計の針が、突如として不規則な動きとなる。秒針の音が消えて停止したと思ったら、次の瞬間には一気に五秒間隔で進んでいき、長針までもがぐるぐるっ回る異様な動きをしたのだ。高い場所にあり、お巡りさんが手に取ってみると、異常は解消された。お巡りさんは、電池が消耗しておかしな動きになったのではないかと結論づけたが、電池が消耗することで時計がそんな風になるなんて、理屈として正しいとは思えない。まあ、そんなに詳しいわけでないが。

 また、不意に壁が不自然に軋む。ぎぃぎぃぎぃぎぃ! と錆びた扉が開閉するような異音で、地震が起きて柱と壁が擦れているみたい。けれど、立っている床は揺れることもなく、ただ空間に気味の悪い異音が響くこととなる。呆然と立ち尽くしていると、三十秒ぐらいに鳴り止んだ。推測すらできない原因不明である。もしかしたら前の道路を大きなダンプカーが通って、振動で音がしたのかもしれないが……ちょっと無理があるような気がする。

 さらにさらに、居間の照明が激しく点滅しはじめた。ちかちかちかちかっ小刻みに光ったかと思うと、暗転するように暗くなる。それが十秒も経たずにまた点灯した。見上げた蛍光灯の隅が黒ずんでいるので切れかかっているのかもしれないが……なんだか不気味な感じ。

 といった不可思議な現象が起きたことで、捜索は一時間もなく終了した。誰も声に出さなかったものの、一刻も早く家から外に出ることを願ったに違いない。これ以上、この場にいたくなくて。

(そういえば……)

 気になることがあるとすれば、一緒にいた黄金井について。

 蛍光灯が点滅した際、花音たちは蛍光灯を見上げていたが……目の端にいた黄金井は、視線を下げて炬燵を見つめていた。じーっと、そこに何かを見ているみたいに。けど、本人に問いただしても『いや、別に……』と、いつものように素っ気ない返答。愛想がないのもぶっきらぼうなのも、全部普段通り。

「じゃあね、みんな。寄り道せずに帰るんだよ。本官は仕事に戻らないと」

 青い空と青い海を正面に、緩やかな坂を下っていくと、信号機がある県道に到着。角に交番があり、お巡りさんが大きな体を揺らしながら入っていった。一時間ちょっと一緒にいたが、仕事の最中にこんなことしていて平気なのだろうか? 他人の家に上がり込んでお茶まで飲んで。心配したところでどうにもなるわけでないが。

 花音はお巡りさんに手を振り、青信号を渡っていく。

 眼前には、巨大な太平洋と巨大な大空が広がっていた。とてつもなく青い。前にある青信号も入れてトリプルブルー。意味はないが。

「で?」

 今まで訊けなかったことがある。そんなことしたら変な子だと思われるから、口に出そうとして、けど懸命に堪えていた。けれど、お巡りさんがいなくなった今なら、もう遠慮はいらない。

「どうだったの?」

 黄金井に対する問いかけ。

「ほっちゃんのお母さん、いた?」

「……どう、だろう」

「ええーい、煮え切らないぃ!」

 思わず頭をはたきたくなったが、そんなことでいじけられてはおもしろくない。握った拳をそのままに、ぐっと我慢である。

「犯人のこと、ちゃんと訊いたの?」

「…………」

「ほらほら、教えなさいよ」

「…………」

「誰なの誰なの、犯人は?」

「…………」

「黄金井ぃ!」

 頭を叩いた。早くも我慢の限界に達する。視界では耳を覆う髪が前に流れたが、それが戻ってくる前に突きつける。

「今日はそのためにきたんでしょうが! もったいぶってないで、さっさと教えなさいよ! ほら、ほっちゃんだって知りたいよね?」

 水を向けられて、うんうんうんうんっと小刻みに頷くほのか。本人の気持ちもあるし、花音の勢いにも押された感もある。

 に対して、黄金井の視線が上がらない。いつものように元気なく俯いたまま、しかし、口はゆっくりと動いていった。

「……いやな、空気、した。幽霊が、いる、んだろうけど……」

「うわっ。またそうやって不気味なこといって、ほっちゃんのこと怖がらせるのやめてくれる!」

 言いつつ、花音の心がきゅっと縮こまる。信じていないものの、本当にそんなことがあれば怖い。テレビで心霊特集がやっているときも、一人でトイレにいきにくくなってしまうから。そこは断じて『いきにくく』であって『いけない』ではない。ここは譲れないところである。

「で、ほっちゃんのお母さんはぁ!?」

「……あのさ、鍵、ある?」

 荒れ狂うような花音を無視して、黄金井は所在なさそう縮こまっていたほのかに手を差し出す。

「家に、ちょっと、忘れ物、した。頼む、貸して、くれ……」

「あ、うん……」

 ほのかは背中のリュックを一度下ろし、サイドポケットから自分の家の鍵を取り出す。小さな鈴が鳴った。それをそのままほら吹き黄金井に渡す。

(あらあら、随分あっさりと……)

 花音には到底信じられない光景である。家の鍵を渡すなど、よほど信用に値する相手でないとできるものでない。

 鍵を受け取った黄金井は、小さく『ありがとう』と残し、坂道を逆戻り。『ああ、黄金井のやつ、そんなお礼はちゃんと言えるんだ』なんて花音が変な感想を抱いている間に、黄金井は耳を覆う髪を揺らしながら県道にある信号を越え、暫くいくと左に曲がって溝を渡っていき……姿が見えなくなった。

(……どうなってるのよ、もう!?)

 今から帰るところだったのに、また引き返すなんて……こうして帰り道で立ち尽くしていること、憤慨でしかない。さっきした質問にも答えてもらってないし。なんだか黄金井に振り回されているようで、気分よくなかった。

 花音の鼻から勢いよく息が吐き出される。

「わざわざあんな馬鹿、待ってることないよ。いこ、ほっちゃん。あんまり遅いとおじいちゃんが心配しちゃう」

「…………」

「黄金井がいないから、おじいちゃんにアイス食べさせてもらおうよ。確か商店街に喫茶店あったよね? あたし、パフェにしようかな? ほっちゃんもそうしなよ。チョコとフルーツで、半分こしよ」

「…………」

「あー、なんか清々したわ。今日一日ほら吹き黄金井と一緒にいて、ずっと息が詰まりそうだった。だってさ、あいつってば、全然喋らないし、愛想ないし、墓参りもしないし、影薄いし、急に変なこと言い出すし、何考えるかさっぱり分からないし……ほんと、あいつ何なのよ?」

「……あのね、花音ちゃん」

 下り坂を駅に向かって歩き出した花音に対して、ほのかは小走りで追い抜き、正面に回る。と思えば、珍しく真っ直ぐな視線を向けてきた。そこにある思いに強い気持ちを持っているみたいに。

 ほのかは口を動かす。

「わたし、信じてる」

「んっ……? 信じてる?」

「うん」

 笑み。ほのかは楽しそうに次の言葉を言い放つ。

「黄金井くんを」

 とてもとても澄んだ瞳。

「それじゃ、駄目?」

「『黄金井くんを信じてる』ねー。そういえば、前にも言ってたね、そんなこと。ふーん、そうなんだー……」

 花音の頭がちょっと痛くなってきた。あの夜の青願公園で、二対一の理不尽な孤独を得たときにとてもよく似ている。

 なんか、花音の方が空気を読めていないような立場になって。

 理不尽な。

「信じるか。信じるねー……いい言葉だね、それは」

 ほのかの肩越しから吹いてくる潮風は、絶対そんなはずないのに、なんとも苦々しい味がした。

 花音は眉を寄せた難しい顔をしつつ、がっちりと腕組みをして、ゆっくりと後ろを振り返る。

 上り坂は、多くの緑で溢れる奥の山まで伸びていた。


 この時の花音はまだ知らない。足を踏み出す先に、とてつもない恐怖体験が待ち受けていることを。

 その命すら脅かす壮絶な……。

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