第3話
美河郡強盗殺人事件 1
※
四月二十九日、金曜日。
「…………」
午後八時。ガラス張りの喫煙室は、近年の禁煙運動が過熱された結果、三分の一に縮小されている。十人入ればそれでいっぱい。今は照明が消されており、なんとも寂しい空間と化していた。縮小された際、ごく当たり前のように煙草の自動販売機は撤去されたこと、喫煙者をこの建物から追い出そうとする巨大な意思が感じられる。
縮小した喫煙室分、隣接する休憩室は大きくなった。黒革ソファーに腰かけて、ガラステーブルを見つめる
「…………」
今川は口元に手を当て、規則的な呼吸を繰り返す。決して表情は冴えることなく、苦難を前に身動きが取れないかのごとく。
見つめているテーブルの上には、紙コップが置かれていた。砂糖もミルクも入った茶色のコーヒー。すぐ横の自動販売機で三十分前に購入したもので、座ったタイミングで一口含んだのみ。もう湯気は出ていない。
三年前の喫煙室が縮小したタイミングで煙草は止めている。最初はいらいらしたものだが、今ではどうということはなくなった。禁煙の影響で、やけにご飯がおいしく食べられるようになったことを実感し、ちょっと体重は増えたが、健康を考えるならば禁煙するきっかけをくれた喫煙室縮小に感謝である。
机上のコーヒー横には、ダブルクリップでとめられた紙の束が置かれていた。今川はそれを目にしているようで、しかし、記載されている字や写真でなく、向こう側にあるぼやけた輪郭を見つめている。
そこに、これまでにない何かを見出したくて。
「…………」
美河郡強盗殺人事件。
紙の束は、二月に発生した殺人事件の資料。警部である今川が担当したもので、まだ担当している事件であった。
つまりは、未解決事件。
被害者やその家族のことを考えると、胃が捩じれる思い。
苦渋だった。
事件が起きたのは今年の二月六日。美河総合病院に勤める看護師、
事件前後の状況は、まず被害者の後藤かおりと娘の二人で入院している父親の見舞いのために病院を訪れる。その際、後藤かおりだけが忘れ物を取りに家に戻った。それは後藤かおりが確認された最後の姿である。家の周りはあまり人通りはなく、通り道にあった交番勤務の巡査もその姿を見ていないという。
娘である後藤ほのかは病院で待つように言いつけられ、ずっと病室で母親の後藤かおりを待っていた。しかし、一時間経っても二時間経っても、外が暗くなっても後藤かおりは現れることはない。不審に思った看護師の新垣沙耶が何度か家に電話したが、連絡が取れなかった。病院としては遅くまで子供を預かることができず、やむを得ず新垣沙耶が後藤ほのかを家に送ったところ、後藤かおりが殺されていたのを発見した。つまり、第一発見者は看護師である新垣沙耶と、被害者の娘である後藤ほのかの二人。通報は新垣沙耶からのもので、午後八時六分が記録されていた。
二人が家を訪れた際、家に明かりはなく、玄関の扉は開錠されていた。鍵は被害者が肩からかけていたバッグから発見される。居間の窓ガラスは割られていて、クレセント錠が開錠されていた。そのことから、まず犯人がガラスを割って忍び込み、忘れ物を取りに帰った後藤かおりと鉢合わせ、殺害されたものと推定される。
死因は絞殺。首筋に紐のようなもので絞められた索状跡があり、鑑識の結果、死後五時間前後とされた。このことから、後藤かおりが忘れ物を取りに家に戻った直後に殺されたことになる。
現場の状況は、遺体近くの炬燵から小物入れが落ちており、敷かれた絨毯が大きくずれていることから争った痕跡が認められた。
また、遺体には不自然な点として、なぜか右手の爪が切られていたのである。深爪するみたいに奥まで切られており、ごみ箱にも部屋にもどこにも切られた爪は残されていなかった。皮膚の一部切れており、傷口と血の状態から、自分で切ったのでなく、犯人が殺した後に爪を切ったものとされる。そして、切った爪が見当たらないことから、犯人が意図して爪を持ち去ったものと推測された。
通常なら殺害後は一刻も早く現場から立ち去りたくなるものだが、犯人は悠長にも被害者の右手の爪を切って持ち去ったことになる。このことから、犯人には爪に対してなんらかの執着がある異常者である説が浮上した。
凶器は炬燵のコード。部屋から持ち出されており、二日後に隣接する山林から発見される。そうして凶器を現地で調達したことからも、計画的な殺人でなく、突発的なものであることが窺えた。強盗に入った直後に被害者と鉢合わせ、イレギュラーとして殺した説が、より強固なものとなる。
遺体のあった居間と他の部屋、台所と寝室が荒らされていた。調査の結果、後藤かおりの財布と二冊の通帳が紛失していることが判明する。同日の午後四時三十分頃、美河東駅前のATMで、それぞれの通帳から限度額である九十九万円が下ろされた。監視カメラが設置されており、フードを頭に被って全身をコートで包み、目にはサングラス、口にはマスクした男性が記録されている。しかし、画像の荒さが災いし、犯人像として身長百八十センチ前後、体型はやや大型ということぐらいしか判明しなかった。けれど、犯人が二冊の通帳ともに暗証番号を知っていたことから、内情に詳しい身内の犯行が考えられる。
結果こそ殺人だが、被害者の後藤かおりが留守のときを狙った強盗目的の侵入と推測されることから、被害者が毎日病院に通っている事情に詳しい人間の犯行であることが濃厚だった。捜査は身内、及び、近隣の住民に向けられる。
聞き込みの結果、後藤かおりの人柄はよく、誰も悪くいう人間はいないとのこと。改めて怨恨の線がないことが強くなった。
捜査線上で、一人の容疑者が浮上する。
事件翌日の夜、駅前の居酒屋『ハッケヨイ』で、仲間を集めて豪遊した証言が得られた。仲間の話だと、普段は飯を奢るような人間でないのに、その日は景気よく三人分のお代を支払ったという。『思わぬ臨時収入があったからな。何があったかは秘密だけど』そう含み笑いを浮かべて。
また、山林から発見された凶器、炬燵コードのスイッチ部分から、滝川陽平の指紋が検出された。
これらを得て、滝川陽平に任意で取り調べを行うこととなるが……滝川陽平は頑として犯行を否認した。どんな追及にも首を縦に振ることはなかったのである。
・仲間からの証言にある『臨時収入』は、後藤宅に強盗に押し入って得たものではないのか?
『違う違う。事件のあった翌朝、家に前に落ちていた財布を拾ったんだ。だいたい十万入っていたので失敬した。そりゃ、ねこばばは悪いことだとは思うけど、そんなのみんなやってることだろ?』
・ATMの暗証番号は、どうやって入手したんだ? 後藤かおりを殺害する前に白状させたのではないか?
『ATMなんていってない。さっき財布を拾ったって言っただろうが。俺は預金なんてないしさ』
・拾った財布はどうした?
『それは……駅前のコンビニに捨てた。長財布で、ピンクだったから女性のものだったと思うけど。中には現金ぐらいしかなくて、カード類はなかったから持ち主が分からなかったし……』
・凶器の炬燵コードに指紋がついていたのは、お前が絞殺したのは犯人だからだろう?
『だから、殺しなんてやってないよ。確かに見覚えはあるし、触りもした。財布を拾った日、炬燵のコートが郵便受けに入っていたからな。そんな変なもんが入っていたらそのままにできないだろ? だから、その辺に捨てた。炬燵のコードってことは、スイッチがあったから分かったんだ。そこを触ったからな、指紋があって当然だと思うけど』
・凶器は近くの山林で見つかったんだ。お前が隠したんだろ?
『違うってば。俺はすぐ捨てたんだ、その、郵便受けの下に。そんなの持ち運ぶのはおかしいし、俺のじゃないからどうでもいいし。もしかしたら誰かが部屋番を間違って入れたかもしれないし』
・被害者の死亡後に爪を切ったのはどうしてだ?
『爪ぇ? 知らないよ。なんで俺が他人の爪なんて切らなきゃなんねーんだよ。だいたい、死んだ人間の爪なんて、怖くて切れねーだろうが。あんた切れるのかよ? 意味が分かんねーな、そんなの』
・旦那さんが入院しているのを知って、強盗に入ったんだろう?
『すぐ前の家だし、旦那が入院していたのは知っていた。重傷ってこともそうだし、小さい子もいるから、お気の毒だとも思った。顔を合わせたら挨拶ぐらいはするから。けど、強盗なんてやってない。そもそも、家に入ったことがない。付き合いっていえば、せいぜい回覧板を玄関に届けるぐらいだ』
・随分焦っただろう、家を漁ってるときに被害者がいきなり帰ってきて? 見られたから咄嗟に殺したのか?
『だから、違うってば。何度も同じこと言わせんじゃねーよ。俺じゃないよ。なんだったら、家に入ったこともない。玄関以外だけど。ほんとにさ、そうやって犯人扱いするのやめてくれる? こんなの、冤罪もいいとこだ。何回も何回も同じこと訊きやがって。こんなことしてるぐらいなら、さっさと犯人捕まえてこいよ。あー、馬鹿らしー』
滝川陽平の供述には一貫性があり、取調べに対して一度として首を縦に振ることはなかった。容疑者として連行したのに、時間が経てば経つほど、取調べしている側が首を捻りたくなるぐらい。
加えて、犯行のあったとされるのは二月六日の午後二時から八時まで、隣駅前の工事現場で日雇いの仕事をしていたことが派遣会社の記録で判明した。途中休憩時間が一時間あり、車を使えば物理的には犯行が可能であるものの、それはあまりに非現実的。というのも、殺人のアリバイに勤務時間を利用するならともかく、今回は突発的な殺人であり、当初犯人は金目当てで強盗に入ったに過ぎない。強盗するのに、わざわざ仕事を抜け出して隣駅まで戻るなど……やはり考えられない。だいたい、後藤かおりがいつ留守にするかなんて、近くで見張っていないと分からないだろうし。
ただし、不可解な点もある。財布を家の前で拾ったということだが、滝川陽平の家は二階建ての203号室。外づけの階段から一番奥であり、財布を落とすには部屋を訪れる人間以外に考えられない。前日の帰宅時は落ちておらず、なのに拾ったとする翌朝までに訪問者はいないと証言している。矛盾。
また、郵便受けに入っていた凶器をすぐ下に捨てたとあるが、発見されたのは隣接する山林。炬燵コードが独りでに歩くわけなく、誰かが拾ってごみ箱に入れるならともかく、わざわざそんな場所に捨てにいくとも考えにくい。ここでも矛盾が生じている。
そして一番引っかかるのは、殺人現場である後藤宅に指紋は残っていなかったのに、重要な凶器に指紋を残しているところ。解せないところである。
状況としては、凶器の指紋から滝川陽平が限りなく黒に近いが、けれど、隣駅で仕事をしていたという鉄壁のアリバイにより、逮捕には至っていなかった。
といったように、事件はまだ解決できていない。日が経つにつれて、解決が困難になっていくのに。
「…………」
掴むことのできない犯行の手がかりに、世界から少しずつ光が失われていき、すぐにでも真っ暗な闇が待っているような気持ちとなる。
「……はあぁー」
漏れる息。出したくもなかったもの。
脳裏には、ショックに表情を強張らした後藤かおりの娘、後藤ほのかの顔が浮かんだ。母親を殺され、あろうことかその第一発見者となり、部屋の隅で腰を落として暫く放心状態にあった。焦点は合わず、呆然と何もない虚空を見つめて……せめて泣きじゃくることができれば、突きつけられた悲しみも少しは薄れただろうに……。
やる瀬ない。
「…………」
なんとしても犯人を捕まえなければならない。それは悲惨な事件が起きる度に考えているが、強い熱意だけでは解決できないことがある。今回だって毎日足を使って懸命に捜査したのに、逮捕するどころか犯人の尻尾も掴まえられなかった。美河警察署に設置された捜査本部はとっくに解散されており、捜査は小規模なものに変わっている。今では新たな事件に人員が裂かれ、このままでは迷宮入りすることは必至。
犯人を捕まえるべき警察がこんな状態では、あの女の子に向ける顔がない。
申し訳ない。
「…………」
悔やまれる。自分の無能さを。
このままでは、事件を解決してあげられない。
犯人を逮捕できない。
娘を残した後藤かおりの無念を晴らしてあげることができない。
母親を殺された後藤ほのかの切情を消してあげることもできない。
すべては、今川の力が足りないばかりに。
今はただ、自責の念に押し潰されるばかり。
「……はあぁー」
天井には照明横に茶色い染みができている。そう分かったのは、ずっと下げていた視線を上げたから。
「向いてないのかなぁ……」
捜査をうまく進められないときにいつも口にする台詞が、それ。
ゆっくりと瞼を下ろしていく。八方塞がりの状況に、血が滲むぐらい唇を噛みしめながらも、白旗を上げるかのごとく。
世界が閉じられていった。
「…………」
もう。
「…………」
どうしようもない。
「…………」
このままじゃ……。
「…………」
今川では……。
世の中には解決されることなく、犯人が逮捕されることなく、未解決のまま迷宮入りする事件は、ある。認めたくないが、それが現実。
できることなら、今川が担当する事件では起きてほしくない。解決することが自分の仕事であるし、残された身内の悲しみや憤りを成就させてあげたい。けれど、どれだけ真摯に取り組んだところで、自分なりにどれだけ努力を重ねたとしても、汗を流して懸命に走り回ったところで、どうにもならないことはある。今回の事件がまさにそう。懸命に目撃者を探しても、靴を擦り減らして足を棒にしてまで捜査し、寝る時間を惜しんで身を粉にして動き回ろうとも、犯人の逮捕に至らなかった。
こうしている今も、犯人はのうのうと生きているのに。
被害者の遺族は悲しみに暮れているのに。
情けない。
あまりにも、情けない。
「……はあぁー」
またもや漏れた息。気分を変えるように、冷めたコーヒーを口にして、喉を鳴らして飲み干す。口に広がる甘い味が、なんとも苦々しい。無理矢理にでも飲み干すことで、発散することのできない感情をひっそりと押し隠すみたいに。
茶色い紙コップをゆっくりと握り潰す。
「…………」
省エネルギーのため、休憩時間以外は半分消されている照明。当然設置されているテレビは消されていて、置かれている冷蔵庫が『うー』と小さく音を立てる。
覆われる静けさに、じわじわと断罪されていくよう……。
幸運は、計画的に得られるときと、予期せぬタイミングで得られることがある。今回はまさに後者であった。
世界は、ここにいる今川を無視して豹変していく。それはいいことも悪いことも。今日訪れたのは、今川にとってプラスに働くもの。
そんな幸運は、思いもしなかった方角から届けられた。
「ああ、いたいた! 今川さん、大変っす!」
派手は靴音を静かだった通路に響かせて、茶髪の後輩刑事、二十五歳の
それこそが、凍りつくような静寂を打ち破り、停止していた今川を激動に導いていく。
「美河の件で、急展開っす!」
「美河ぁ!?」
今川の声が裏返る。今の今まで自身を悩ましていた事件だけに、まだ内容も知らないのに、心臓が激しく脈打ちはじめた。
「み、美河の事件が、どうしたっていうんだぁ!?」
「犯人が捕まったらしいっす!」
「なにぃ!?」
裏返る声が一気に飛翔した。突きつけられた驚愕に目を剥きつつ、派手に唾を飛ばして声を荒げる。
「ど、ど、ど、どういうことだ!? おい! おい!」
冷えていた全身が一瞬にして熱を持った。
深く沈み込んでいたソファーから素早く立ち上がると同時に稲川に詰め寄り、今は顔を紅潮させて目の前の胸倉に掴みかからん勢いである。
「犯人がどうしたって!? ああぁ!? どういうことだよ!」
「ちょ、ちょっと、今川さん、落ち着いてくださいよ」
「いいから! どういうことだ! 早く言え!」
興奮は絶頂を迎えていた。
「早くぅ!」
この日、事件は新展開を迎えた。
停滞していた難事件は、天地が引っ繰り返ったみたいに急転する。その契機は、あろうことか容疑者とされた滝川陽平からの通報によって。
明らかになった事件の真相とは……。
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