第2話


 松原まつばら花音かのん 1



       ※


 四月十二日、火曜日。

 愛名あいな西にし小学校は新年度を迎え、始業式からすでに一週間が経過していた。

 松原花音にとって、小学生最後の一年のはじまり。つい最近ぴかぴかのランドセルを背負って胸を高鳴らせながら近所のみんなと登校したと思ったのに、あっという間に六年生。いつの間にか一年生に見上げられる立場となっていた。あの頃は、六年生になるなんて遥か遠い未来のことだと思っていたのに、気がつけばその未来に立っている。不思議。けれど、自分が見上げていた六年生はあんなに大きかったのに、今の自分があの頃の六年生と同じになれた実感はまるでなかった。『こんなんでいいのかなぁ?』と首を傾げることに。

 ともあれ、小学生として最後の一年は幕を開けた。そう思うと、今年一年はより積極的に活動していこうと思う。勉強も部活も委員会も遊びも。なんたって、六年生だから。来年はもう、ここにはいないのだ。


「ほっちゃん、いくよー」

 放課後。花音は左だけ青ピンで留めたショートカットを揺らして、机上の赤いランドセルを背負う。そのまま北校舎四階にある教室を後にした。青シャツの袖から出た手はトートバッグを持っており、グローブと着替えが入っている。放課後は部活があり、席の近いクラスメート女子とともに階段を下っていく。

(えーと……)

 そんな花音は、現在自分ではどうにもできない懸案事項を抱えていた。できることならいい方向に進んでほしいと思うも、事情が事情なだけに、うまく進展させられない。解決できないままにただ時間が過ぎていくこと、焦れったい思いに駆られてしまう。

「もしよかったらさ、ほっちゃん、一緒にソフトやらない? 体動かすのは健康にいいし、ソフトおもしろいから。みんないい子ばっかだし」

 にっこりと微笑みかける。

 六時間目の授業はホームルームだった。六年一組の児童全員が必ずどれかの委員会に入らなければならず、それを決めるもの。各委員会には定員があり、必ずしも希望が叶うとは限らないため、クラス中が目を血走らせながら刻々と決まる状況に一喜一憂していた。花音は新年度早々に学級委員に選ばれたため、教室の前に出てタクトを揮うことに。ただ、六年生は担任もクラスメートも去年と同じため、その点はやりやすかったが……残念ながら、うまくいかなかった。

 無念。

 花音としては、全員分を決めたかったし、順調にいけば難なく決められるはずだった。事実、去年はできたことだし。だというのに、今年は駄目だった。それはある一人の男子のせいで。

 昨年同様、黒板に書いた全委員会を右から順番に決めていく方法だったが……半分が経過したとき、あろうことか、じゃんけんに負けて希望の委員会に入れなかった谷原口たにはらぐちが、声を上げて泣き出したのである。

 トラブルメーカー谷原口が泣きながら、『委員会の決め方が悪い!』と駄々を捏ねては机に突っ伏したものだから、さあ大変。クラス中は凍りつき、ホームルームがつづけられなくなった。

 谷原口の主張は、『黒板右側から順番に決めていくやり方だと、第一希望が第二希望の左側にあった場合、落選した時点ですでに第二希望が決まっているので、不公平だ。まず第一希望を全員で言い合ってから、第二希望を選んでいく方がいいに決まってる!』というもの。そして、泣く。声をしゃくり上げながら、泣く。米のように細長い坊主頭が、蛸のように顔を真っ赤にさせて。

 そんな野球部補欠の『谷原口の乱』により、ホームルームは一時中断となり、委員会決めは明日の一時間目まで延期となった。担任の大野おおの先生が『この件に関して各自どうすべきか考えてくること』なんて言うものだから、全員で向き合わなくてはならなくなる。好きな委員会に入れなかったわがままなのだから、突っ撥ねるなり無視すればいいものの。去年も同じやり方だったのに。

 憂鬱。

 といったように、六時間目は非常に厄介なことがあった。あったが、今の花音にとってクラスメート男子のわがままなんて些細なことに過ぎない。そんなこと、明日になれば解決する話。

 解決しない話……重要なのは、隣にいる女の子について。その存在をどうにかしてあげたい。そう切に願う。

「やらない、ソフト? 楽しいよ。まず家の前でキャッチボールやるのもいいかも。どうかな?」

 隣を歩いているのは後藤ほのか。花音と同じ赤いランドセルを背負い、着ているワンピースを揺らして階段を下っていく。髪は背中までのストレートなもので、肌は透き通るように白く、目は半分閉じているみたいで、常に俯きがち。身長はクラスの平均より低く百四十センチメートルで、圧倒的に痩せていた。強い風が吹いたら飛んでいってしまいそう。

 ほのかとは、花音の父親の弟の娘という間柄、つまりは従姉妹である。誕生日は花音の方が早いので、五か月分お姉さん。

「やらない? やろうよ? おもしろいよ。練習してもいいし、まず見学からでもどうかなぁ?」

「ううん……」

「そう……」

 誘っているのだから、いい印象を持ってもらうために笑顔を作って声を跳ね上げた花音だったが、ほのかからの反応は実に希薄なもの。春の日、そよそよと微風に揺れる猫じゃらしのように小さく首を横に振られた。

 花音の提案は、受け入れてもらえない。本心としてそんなことしたくないが、口から出したくもない息が漏れてしまう。

「……残念」

 呟く声は、とてもがっかり。ほのかに気を遣って声をかけただけに、こんな残念な気持ちになるなんて納得いかないというか、なんだか理不尽な思いがした。不条理といってもいい。『理不尽』と『不条理』の違い、花音には分からないが。

 けど、沈んでいても仕方ない。ぱっと顔を上げる。元気に。

「しょうがないよね、無理強いはしないからさ。まあ、やりたくないのやっても、おもしろくないもんね。あははは……」

 階段を下りつつのぼやきは、きっと隣人にも届いたことだろう。けれど、そう口にすることによって、やり場のない感情を少しは発散することができた。そんなことで感情を制御していること、いい気分がするものでないが。

(おかしい、おかしいな。なんでこんなに凹むんだろう? ほっちゃんが部活に入ろうがどうしようが、あたしに直接関係ないことなのに。断られたことがいやなのかなぁ。うーん……)

 立てた説を思案するように視線を上げて……階段上の方からは、『帰ったらすぐオレんこいよ。ダッシュだぞ、ダッシュ!』と男子が喚いては品のない笑い声を上げていた。なんだかちょっと張っていた肩が落ちていく。

(男子はほんとに、呑気だねー……)

 放課後ということで、学校全体がどこか浮き足立った空気に満ちていた。うきうきする気持ち、決して悪いものではない。帰りのホームルームが終わった直後の開放感はいつも気持ちいいから。まあ、今日は六時間目があれだったから、後味の悪い、実に苦々しいものも含まれていたが。だからといって、そんなの引きずったっておもしろくないし、そもそも自分に非がある話でもない。ならば、さっさと忘れるに限る。また明日それと向き合わないといけないけど、それはまた明日の話。

「ほっちゃん、一人で平気だよね?」

 下駄箱で上履きからスニーカーに履き替え、外に出た。

 校舎は『L』の字に建てられていて、内側にグラウンドがある。下駄箱を出て二つの校舎の中間地点から見ると、桜並木やジャングルジムや鉄棒といった遊具が並んでいるのを一望できた。これからグラウンドを横切ってコンクリート製の部室棟に向かう。南方プール横に後輩の姿が見えたので、職員室に寄って鍵を持ってくる必要はないだろう。よしよし。

「ばいばい。またあとでね」

 手を振ると、ほのかは『うん……』と小さく頷き、東門に歩を進めていく。その背中、とても小さく、ちゃんとそこにいるというのに、ふとしたことで消え去りそうなほど儚く見えた。

 立ち止まる。見つめる視線がほのかから外せない。門から出ていくのを見守るつもりないのに、気になるのか落ち着かないのか、なかなか視線が外せない。慣れていないとはいえ、同じ六年生だから、家にちゃんと帰れるだろうけど……やはり心配。

「…………」

「あっ、花音だー。花音がこんなとこに落ちてるー。どうしよう? 拾っておうちにお持ち帰りしちゃおうかなー」

「……落ちてないから」

「ほらほらー、早く部活いこ部活いこー。んっ? どうしたの……? もしかしてもしかすると、あれが噂の?」

 下駄箱から賑やかな声がしたと思えば、花音の肩に飛びついてくる女子。派手な赤いパーカーシャツに短パン姿の井川いがわまみ。六年二組。色黒の肌、ぱっちりとした大きな瞳がとても特徴的。ポニーテールにした髪は肩まで届いていた。花音と同じソフトボール部で、ポジションはショートストップ。もちろんレギュラーである。足も速いし、運動神経は抜群なのだ。

「にしても、花音も大変ね、いろいろと」

「うん、まあ……」

「勘繰るわけじゃないけどさ、でも、あの子と一緒に暮らしてるんでしょ? ずっとあんな暗い子といて、気分めげちゃわない? って、本人いないのに悪口言っちゃいけないかもだけど」

「まったくその通りだから、悪口のことはちゃんと反省してね」

 咳払い。こほんっ。

「あと、お願いだから、ほっちゃんのこと、そんな風に言わないであげて。ほっちゃんはほっちゃんで、物凄く大変なんだから。今も、ずっと……あんまり、その、詳しいことは言えないけど……ごめんね」

 口籠もることしか、今はこの会話を切る術が思いつかなかった。

「にしても、いつも元気だよね」

「それが取り柄だし、それしか取り柄がないから。えっへん。じゃあ、部活いこ部活いこ。こんな日は、かっきーんとホームランでストレス解消だー」

「うん……って、別にほっちゃんがストレスってわけじゃないからね」

「ホームラン、男のロマンだわー」

「いや、あんた女だから。性別間違えてるよー」

 元気にグラウンドを駆けていくまみの背中に頬を緩ませて……もう一度門の方に顔を向けてみる。たくさんランドセルが見えるなか、ほのかが東門を出て左に曲がったところだった。

 見えなくなったこと、ほっと胸を撫で下ろすようでもあり、心の底から不安が募るようでもある。

(……大変なんだから、ほんと)

 抱えている懸案事項は、簡単に消えてくれることはない。


 松原花音は今、従姉妹の後藤ほのかと一緒に暮らしている。

 ほのかは今年の二月まで、愛名あいな市から私鉄で二時間の美河みかわ郡で暮らしていた。両親と三人暮らしだったが……わけあって、今は愛名市の花音の家にいる。

 だから、ほのかは両親と一緒に暮らしていない。

 理由は、ほのかに人生最大の不幸が訪れたから。

 不幸のはじまりは、新年のおめでたモードが世間に漂っていた一月三日……年末から調子を崩していたほのかの父親が突然倒れ、救急車で病院に搬送された。意識はなく、医師より『翌朝まで持たないかもしれない』と言い渡された。けれど、どうにか一命は取り留めることができたのだが……その後のことを考えると、一命を取り留めることが、家族のためであったかどうかは定かでない。

 病院に運ばれてから三か月経った今でも意識不明は継続している。自力では呼吸することができず、医療機器によって生かされている状態。病名は重度の脳梗塞で、前から頭痛を訴えていたという。けれど、会社の健康診断は良好で、病院で精密検査をすることなく……今に至っていた。

 そしてそして、ほのかの悲劇はそれだけで終わらない。父親が意識不明であること以外に、心を打ち壊すような事件が起きたのだ。


 母親が、殺害された。


 二月六日の日曜日、母子で病院に見舞いにいき、忘れ物をした母親が家に戻る。ほのかは意識のない父親が眠る病室で母親が戻ってくるのを待つも、いつまで経っても戻ってこない。静かな病室の隅で膝を抱え、ただただ医療器具の音だけを耳に待ちつづけるが……空が茜色に染まろうとも、夜空に星々が輝き出そうとも、二度と母親の笑顔を見ることができなかった。

 結局、午後八時になっても母親は病院に戻らず、病院の看護師にお願いして家に連絡したが応答はない。病院側の配慮により、看護師の人に家まで送ってもらったところ……自宅の居間で母親が殺されているのを発見したのである。

 母親の死がショックだったのだろう、それ以来、ほのかの瞳から光が消えた。常に視線は下がり、生きる覇気が失われている。元々おとなしい性格だったが、感情が凍りついたように笑みをなくしていた。葬式の日、呆然と虚空に視線を漂わせている姿がとても儚く、紅茶に溶ける砂糖のように空間に溶けていく危うさを有している。

 そこに、一粒の涙なく。泣くことすら、失われたみたいに。

 母親を殺害した犯人は捕まっておらず、ほのかはやり場のない孤独を得る。親戚が集まって相談した結果、父親の実家である花音の家で引き取ることとなった。まだ美河郡の病院に父親が残っているものの、意識のない状態ではこれしか手がなく、加えて、意識不明の父親も最悪の事態を覚悟しておかなければならない。

 そうして凄絶な不幸に見舞われたほのかは、愛名市にやって来た。荷物少なく二月に越してきて、祖父と同じ部屋で生活している。暫くは膝を抱えることしかできず、ご飯だってなかなか食べてくれず、どんどん痩せ細っていく一方だった。

 小学校は転校の手続きをするも、ほのかは一度も登校することなく……雪解けの四月を迎える。

 今年も桜は咲いた。けれど、ほのかは変わることなく家に閉じ籠ったまま。

 花音は、同じ屋根の下にいるほのかに、『このままでは駄目だ』と思った。確かに母親を失い、父親が予断の許さない状態にあることは辛いことだと理解できる。だからといって家でずっと塞ぎ込んでいるのはよくない。無理してでも、ほのかを家から連れ出すことを考えた。一緒に暮らしている祖父も両親も時間をかけることを望んだが、このまま何もしないと、ほのかまでは取り返しのつかないことになる気がして。

 花音は部屋を訪れ、力いっぱい細い腕を引っ張る。目的は、もちろん一緒に登校すること。疎まれようが恨まれようが、構わない。弱っていく姿を何もせず指を銜えているぐらいなら、嫌われる方がまし。

 そして始業式の朝、花音の気持ちが通じたみたいに、ほのかは登校してくれた。よかった。これで立ち直る一歩を踏み出せたと思う。

 けれど、学校では誰とも話そうとせず、授業中も休み時間も席に座って俯いてばかり。転校生というちやほやされるポジションも、愛想笑いすらできないほのかでは、最初に集まったクラスメートはみるみると離れていく。

 学級委員である花音の従姉妹ということで、誰も手を出そうとしないが、そうでなければいじめられていたかもしれない。他のクラスに噂がいくぐらい、ひどい状態だったから。担任の大野先生は、『そっとしておいてあげよう』と逃げ腰だし。不思議である、どうして大人はああもうまくいかない状況を前にして、見て見ぬ振りができるのだろう? トラブルメーカーの谷原口が意味なく喚くのは気にするくせに。納得いかない。

 花音は決して目を逸らすことはない。また前みたいにほのかと遊びたいから。嫌われたとしても、少しずつでも距離を詰めることを選ぶ。そう努力する。あんな何もしないことを正義だと主張する大人にはなりたくない。

 今日は所属しているソフトボール部に誘うも、首を横に振られてしまう。断れたことに傷ついて、けれど、めげている場合でない。また別の手を考えないといけなくて、でも、なかなか思いつかないのが現状で……どうにもできないままに学校で別れた。部活後に夕食のテーブルを囲むが、ほのかの席だけ、明かりに照らされていないような暗い印象が滲む。ご飯は半分以上残しても、両親は注意すらしないし。そんなことをしていると、ほんとに駄目になってしまうのに。

 だからこそ、花音である。手を差し出すのが花音なら、ほのかをなんとかして立ち直らせてあげるのも花音。

 そういった強い決意はあるが……けれど、どう接していけばいいか分からない。現状において、経験不足は否めなかった。こういう困ったときは、いつも親や先生に相談していたから。

 果たしてどうしたらいいのやら?

 考えてみて……まずは少しでも同じ時間を共有しようと思った。いつもの習慣である、モコの散歩に誘って。もし断られたら、また無理にでも腕を引っ張っていこうと思った。

 それが、花音の正義であるから。


       ※


 夜八時。

「モっちゃんに任しとけば、いつものコースに連れてってくれるから。ほら、緊張しないで、もっと楽にしてていいよ。あたしもいるし」

「う、うん……」

「にしても……まだまだ寒いよね、春なのに。桜だって散ったしさ。でも、暑くなるとなったで冬が恋しくなるもんだけど」

 夕食後の犬の散歩。花音はほのかを誘い、尻尾をちぎれんばかりに振るモコを連れて家を出た。

 毎日この時間に全身を躍動させる半端ないモコは、もこもこした白毛が特徴的なプードル。円らな瞳と鼻だけが黒く、耳には赤いリボンをつけていた。家を出るときは、玄関の扉に頭からぶつかっていく凄まじい勢いがある。

 元気なモコの扱いに、ほのかは戸惑いがちにもリードを持つ。ちょっと身が引けているのは、慣れてもらうしかない。

 リードによってほのかを引っ張るモコは、門を出て東方に進路を向ける。そちらがいつもの散歩コース。視線の先には小高い丘が見えた。青願せいがん神社の丘である。社殿のある頂上以外に明かりはなく、団地や住宅の人工的な明かりを掻き消すように、そこだけ闇色が生まれていた。

「モっちゃんってね、あたしが一年生のときは手に載っちゃいそうなぐらい小さかったんだよ。当時は、あたしの手がもっと小さかったから、ほんとにちっちゃかったんだー。それが今じゃすっかり大きくなっちゃって、この前計った五キロもあったの。その成長、我が子のように嬉しいよ。うんうん」

「う、うん……ああっ」

「ほっちゃんほっちゃん、手に力入れちゃ駄目よ。ぴーんっと伸びちゃったら、モっちゃん、首が痛くて困っちゃう。リードはね、だらーんってさせてあげないと。うん、歩調を合わせて上手に歩いてあげて。最初は難しいかもだけど、すぐ慣れるよ」

 乗用車がぎりぎり擦れ違うことができる狭い路地で、今は人通りが皆無。閑静な住宅街で、一定の間隔で設置されている街灯と、建ち並んでいる住宅の明かりもあって、夜でも歩くのに支障なかった。

 見上げると、団地や住宅に切り取られた夜空。星を数えても……四つしか見つけられない。角度の問題か、見上げても月を見つけることはできなかった。

「ほっちゃん、ファイト」

 戸惑いながらもリードを握っているほのかの姿に、花音の口角が上がる。

 つい先月までずっと部屋で塞ぎ込んでいて、外出すらできなかったことを考えると、こうして散歩に出ているだけでも進歩である。それはきっと、心の傷が少しずつ癒えているからだろう。両親にはそっとしておけと言われたが、毎日声をかけ、強引に家から連れ出してよかった。学校にも通えるようになったし……クラスのみんなと打ち解けるところまではいってないけど、それは今後の課題。なんとか部活を一緒にできれば、一気に距離が縮むと思うけど。

「ほっちゃんさ、前に一緒に遊びにきたことあるよね? ここが青願せいがん神社よ。上の方で隠れん坊したの、覚えてる?」

 五分ほど歩くと、小高い丘の北側に出る。ここは学校のグラウンドが五個、六個はありそうな広大なスペースで、南側は遊具がある公園、北側の小高い丘の頂上に巨大な鳥居のある青願神社があった。石垣の上にある丘全体は多くの木々が生えており、吹いてくる風に枝がざわざわっと揺れている。この丘に生えている木のほとんどが銀杏の木で、秋になれば丘全体が黄色一色に染め上がることで有名だった。その鮮やかさに毎年銀杏祭りが行われ、県外からも多くの人が訪れる。ただし、実の匂いがちょっと独特なものなので、その辺は大変といえば大変だが。

 そんな丘の石垣に沿って歩いていき、角を右折。歩いていくと緑色の柵が見え、遊具のある公園を眺められるようになった。この公園をなぞるようにして歩くのがいつもの散歩コース。

(んっ?)

 目の前に歩道に猫がいた。こちらを向いて、ちょこんっと座っている。灰色と黒色の斑模様、前足を揃えて座っているので、首から腹までの毛が白いことが分かった。

(うーん?)

 二人と一匹の犬に対峙してもまるで逃げる様子はなく、かといって好戦的でもなく、暫く猫はじーっと花音たちのことを見つめては、

『みあー』

 と鳴いて公園内に入っていった。跳ねるように歩いていき、浅間神社がある小高い丘の斜面にジャンプ。木々の間へと消えていく。

「変な猫ね」

 猫を目で追いかけていったので、自然と目は公園内に向けられており……公園中央に照明が設置されていて、ブランコや鉄棒といった遊具を照らしていた。正面に聳える十階建てのマンションからの明かりもあり、暗い時間帯でも充分遊ぶことは可能であろう。だから、ここにはよく中学生がたむろっている。だいたいいつもは奥にある巨大なお椀型の滑り台に集まっているが、今日は見当たらなかった。いいことである。

「……あれ」

 中学生の姿がないから、公園に誰もいないと思ったが……違った。公園隅にあるベンチに誰が座っていたのである。別に興味あるわけでないが、見つけてしまったものは仕方がない。なんとはなしに目を凝らしてみると……それは子供のようで、さらに注意して見てみると、あろうことか花音の知っている男子であった。

「……あっ、ほら吹き黄金井こがねいだ」

 照明が頼りの暗い時間、誰もいない公園のベンチに腰かけていたのは、愛名西小学校六年一組のクラスメート、黄金井こがねいつむぎ。今はパーカーつきのジャンパー姿で、何をするでもなく静かに腰かけている。遠目だが、なんだかうなだれている様子。色素の薄い茶色の髪は耳を隠していて、俯いていることと薄闇のせいもあって表情は確認できなかった。けれど、遠目からでも分かるあの幸のなさは、間違いなく黄金井である。ただのクラスメート男子ならともかく、日頃から問題児である以上、学級委員花音の目に狂いはない。それ以前の話として、このシチュエーション、初見でなかった。

「あいつ、毎回毎回何してんのよ、まったく」

「どうした、の?」

「ほら、あいつよ」

 顎で示す。

「一緒のクラスにいるでしょ? って、物凄く地味だから覚えてないかもしれないけど。あいつ、たまにあそこでああして座ってるの。こんな夜に。なんでだと思う?」

「さあ……」

 小首を傾げるほのかの仕草は、やけにかわいらしい。

 花音は肩まで上げた右手で頭を撫でてあげたくなる衝動を抑え、視線を公園に戻して大きく吐息する。ドラマに出てくる白人が『やれやれだぜ』といった感じで両肩を上げる仕草。

「あいつね、平気で嘘つくの。それもすぐ分かっちゃうような、しょーもないの。ほんとにわけの分からない。だから、『ほら吹き黄金井』ってみんなに呼ばれるの。嘘ばっかだから、今じゃみんなに相手にされてなくて。そのせいだと思うけど、家族にも疎まれてるらしいよ。きっと居場所がないんじゃないかな、家に。だからああして、誰もいない所で、時間潰してるんだろうね」

「…………」

「あいつ、なんで変な嘘つくんだろう? そんなのしたっていいことないのに。ああ、いやだいやだ」

 花音はもう一度公園のベンチに寂しく座る黄金井を見つめてから、まるで嘆息するように次の言葉を吐き出す。

「あいつ、幽霊が見えるんだって」

 風が吹く。花音の着ているジャージの襟がぱたぱたっ揺れ、ほのかのスカートがはためき、綿菓子のようなモコの毛がふわふわっ。

 春の夜風は、まだまだ冷たさを有している。


 世界はまだ停滞していた。

 もう雪は溶けたというのに。


       ※


 四月十三日、水曜日。

 新年度になって一週間が経過した。小学生としての経験豊富な六年生にとっては、そろそろ落ち着きを得る頃……であるはずだったのに、あろうことか花音のいる六年一組では事件が起きた。

 朝一番の一時間目は、『昨日の委員会決めで発生したトラブルをみんなで考え、解決する』というトラブルメーカー谷原口のわがままをクラス全員で向き合わなければならない。考えるだけで、それはそれは気が重い時間になるはずだったが、突発的に起きた事件によってそれどころではなくなった。

 朝、近所のみんなと集団登校した花音が北校舎四階にある教室に入ると、すでに谷原口が騒いでいたのだ。坊主頭を抱えながら、『ないないないない! ないんだよぉ!』と目を剥いては狼狽しながら喚いて。かと思うと、入口近くにいた花音にぶつかりそうになるほどの全力疾走で教室を飛び出していった。花音は首を傾げるも、あまり関わり合わないようにする。

 気にすることなく席に着いていると、チャイムとともに担任の大野先生が入ってきた。顔を泣き腫らした谷原口とともに。

『みんな、ちょっと聞いてくれ。どうも谷原口の上履きがなくなったみたいなんだ。誰か知らないか?』

 見てみると、確かに谷原口は上履きを履いておらず、白い靴下で教卓の横に立っている。唇を噛み、顔を赤くさせて。顔を上下させて洟を啜ったかと思うと、右腕でごしごしっと乱暴に涙を拭う。

 に対して、みんなの反応は薄かった。昨日につづいて泣いている谷原口の姿に、『またかよ』と呆れたのかもしれない。

『昨日帰ったときは、ちゃんと下駄箱にしまったらしいんだ。おかしいよな、なくなるはずないんだけど』

 大野先生は言葉にしていないものの、教室の窓側から一人ずつ見渡している様子は、クラスメートを疑っているみたい。花音がそう思った以上、きっと他のみんなもいやな思いをしていることだろう。

 感じ悪い。

 そんな空気だったからこそ、クラス中の沈黙が導く見解としては、『誰かが谷原口の上履きを隠したんだろうな』になった。昨日あんなことがあっただけに、谷原口に対して意地悪しようという気持ち、分からなくはない。花音だって実際にやりはしないもの、『ホームルームを中断させた谷原口に、天罰が落ちればいいのに』なんてこれまで信じたことのない神に祈ったほど。もちろん『密かに』であるが。

 誰もが口を閉ざしたまま、教室には重たい沈黙が訪れる……大野先生の提案により、一時間目は全員でなくなった谷原口の上履きを探すこととなった。ぞろぞろ教室を出ていくみんなの足取り、決して軽くはない。

 ただし、対象が谷原口なので、どこかお気楽な印象があった。

『誰か知らないけど、ナイスだよな』

『いい気味だっての。いつも泣けばなんとかなると思いやがってよ』

『あー、面倒だわー。なんであんなやつのために』

『どうでもいいじゃん、あんなやつの上履きなんて』

『唯一のプラスは、こうやって授業がさぼれたぐらいだな』

『にしてもさ、委員会決め、どうなるんだろうね? せっかく放送委員になれたのにー』

『あー、馬鹿らしー』

 座席の近いメンバーで班を形成し、分かれて上靴を探していく。

 花音たちが担当したのは、兎を飼っている動物小屋がある西校舎裏。花音が視線を巡らせていると、近くには探しているようでただ歩いているだけのクラスメート。どの顔にもうんざりした色が浮かんでいて、真面目に探すつもりはない様子。注意してもいいが、いかんせん気持ちが分かるだけに、口を閉ざしていた。

 そんなクラスメートを横目に、花音は上履きを探す。なんといっても、花音は六年一組の学級委員である。どんな事情があろうとも、どんな相手であろうとも、助けを求められれば協力しなければならない。少なくとも、その素振りをする必要はあるだろう。横にいるほのかとともに小屋と物置の間を覗くが、ビニール袋を見つけたので拾ったものの、赤線のある白い上履きは見当たらなかった。そのビニール袋に、落ちていたチラシと木片を入れて……気がつけば、本来の目的をなぞることでごみ拾いとなっていた。きれいになるからいいものの。

 探しはじめて三十分が経過した。依然として上履きは見つからない。見つかったという連絡も入ってこない。三十分探しても見つからなかった場合は一度教室に戻るということになっていたので、拾ったごみをごみ箱に入れて、下駄箱で靴を履き替えて教室に戻ると、花音たちの斑が一番だった。

 だからこそ、目を丸くさせる光景を目の当たりにすることに。

 なんと、席に谷原口がいたのだ。それも、自分の上履きがなくなっているのに、探すことなく教室隅の席で突っ伏した状態で。だらーんと。たまに肩が動いているので寝ているわけでなく泣いているのだろうが、こんなに長時間泣くエネルギーなんてないだろうから、一度は騒いだものの、『みんなで校舎中を探す』といった大きな話になったもんだから、きっと気まずさになかなか顔が上げられないに違いない。

 嘆息。

 その後も続々と別の斑が戻ってきた。一時間目の終業のチャイムが鳴る頃には、全員が戻ってきて、どの斑も例外なく首を横に振る。

 しかししかし、最後の最後に戻ってきた男子生徒は違った。とてつもなく大事な情報をもたらしてくれたのである。

『……見つけた……上履き』

 ほら吹き黄金井だった。


 結論からすると、黄金井が上履きを見つけたのは本当だった。『またいつものほら吹きか?』なんて花音はいぶしがったものだが。

 いつも使っている北校舎西側の下駄箱、そこに谷原口の上履きがあった。下駄箱はどれも木製で、上履きと下履きを上下に収納するようになっている。ただし、蓋はない。だから、上履きと下履きを確認すれば、児童が校舎にいるか外にいるかが分かるようになっていた。

 そんな下駄箱は横に四列並んでいて、六年一組のは端から二列目。その向かいにある下駄箱に谷原口の上履きが置かれていた。なんのことはない、すぐ隣にあったのだ。クラス全員で学校中を探したのに、まさかこんな近くにあったなんて。

 花音の頭に、『灯台下暗し』と『木を隠すなら森の中』という言葉が過った。

 こうして谷原口の上履きが見つかり、一件落着。直面したトラブルが解消したことにより、ほっとした安堵の空気が漂うも……直後! トラブルメーカー谷原口は空気を読めない谷原口であり、空気を読めないからこそ新たな問題を勃発させてしまう。このまま解決ムードのまま教室に戻ればいいものを、トラブルメーカーの本領発揮とばかりに、落ち着いた水面にわざわざ荒波を立てていった。

『まさか、お前が隠したんじゃないだろうなぁ!?』

 突然の発言。下駄箱までやって来たクラス全員が凍りつかせる。

 当然、耳にした花音の頬もぴくりっと動いた。『せっかく見つけてくれた恩人に、あの馬鹿なんてことを言うのぉ!?』と思うも、あまりに突飛な発想だったので、反応することができない。うまく間に入ってあげられればよかったのだが、それができなかったことで、両肩がずしりっ! と重くなる。

『だってよ、おかしいじゃねーかよ。こんな場所にあるなんて、誰も見つけられるはずねーじゃねーじゃんか!?』

 すぐ隣の下駄箱だから、『盲点』という意味ではそうだが、断じて見つけられない場所ではない。実際に見えていたわけだし、黄金井が見つけたわけだし。

『隠した張本人だから、見つけられたんだろう!? 最初はちょっとしたいたずら心だったかもしれないけど、クラス中で探すって話が大きくなったから、気まずくなって偶然見つけたことにしたんだろうがよぉ! おい! 白状しろってんだぁ!』

 怒鳴りつける谷原口。

 に対し、至近距離で唾を飛ばされている黄金井は小さく首を横に振る。

 谷原口は、両拳をぎゅっと握った。

『嘘ついてんじゃねーっ! ほんとに偶然だっていうなら、どうして見つけられたのか説明してみろよぉ!? ああぁ!?』

 その追及、花音も少し興味があったので黙って耳を傾ける。

 確か黄金井たちの斑が担当していたのは図書室がある西校舎四階。一階の下駄箱なんて用がない。にもかかわらず、こうして見つけたということは、少なくとも四階から一階の下駄箱までやって来たことになる。

 その理由とは?

『ほら、言ってみろぉ! どうしてだよぉ!』

 詰め寄られた黄金井は、しかし、じっとその場から動くことがない。

『黙ってないで説明しろってんだぁ! そうやって黙ってると、お前が隠した犯人ってことになるぞぉ!』

 ここぞとばかり、無茶苦茶な理論を展開する谷原口。

 に対して、黄金井は俯いていた視線を上げ、ずっと閉ざされていた口を開く。

『教えてもらった……』

 黄金井はここにいる誰の顔を見ることなく、下駄箱奥にある掃除道具入れと壁の間に顔を向ける。

『あそこの、人に……』

 花音も視線を向けるが……当たり前の話だが、授業中この時間、そんなところに誰かがいるはずない。事実、見たところで誰もいないのだから。いるとすれば、透明人間か、幽霊か。

 視線を戻すと、黄金井はじっと何もない壁を見つめて、

『小さい、子……』

 ぱっと視線を逸らしたかと思うと、そそくさと階段に歩いていってしまった。もうここに用がないみたいに。

 ここにいる全員を唖然とさせた状態で。

 落ちた沈黙……破ったのは谷原口だった。

『出たよ! 出ましたよ! はあぁ!? はあああぁ!? あれですか、お得意の幽霊ってやつですかぁ!? また幽霊が出たっていうんですかぁ!? ふざけんじゃねーっ! そんなことで誤魔化せると思うなよぉ! おいぃ、黄金井ぃ!』

 さっきまで泣いていた谷原口は、今度は激怒するように顔を赤らめて階段へ駆けていく。

 残された花音やクラスメートは、『どっちもどっちだな』と息を吐いては、ゆっくりと階段に向かっていく。なるべく先をいったあの二人に追いつかない緩やかなスピードを意識して。

 これから教室に戻ると、これから昨日の委員会決めのつづきをしなければならない。とんでもなく憂鬱である。

 六年生としての一年は、まだはじまったばかりなのに。

 先が思いやられる。

 あーあ……。


       ※


 午後八時。

 今日も雨が降ることはなく、建物に切り取られた夜空には僅かな星の瞬きが確認できる。犬の散歩に出発。花音は相変わらずのジャージ姿、ほのかはシャツの上にブルーのカーディガンを羽織い、白い毛に覆われた黒目を爛々と輝かせるモコと家を出る。

 昨日同様、青願神社と公園を迂回するコース。あまりほのかとの話題はないが、こちらから声をかけるとちゃんと相槌は打ってくれるので、最低限の会話にはなっている。他人からすれば、ほぼ花音の一人お喋りといった状況になっているかもしれないが、それでも構わない。

 丘の石垣を横目に歩き、公園が見えるようになった。

「……ねぇ、花音ちゃん……お願いしていい?」

 そんな公園が見えたタイミングで、ほのかからの珍しく頼みごとをされたと思って瞬きしたら、モコのリードを渡された。受け取ると、ほのかは柵の間を抜け、段を下って夜の公園に入っていく。

「…………」

 繰り返す瞬き。いきなり道路に残されることとなった花音。その斜め下にモコ。

 リードがぴーんっと伸びて、『どうしたんだよ? 早くいこーぜぇ』と振り向いているモコの顔を目に、置かれている状況に首を小さく傾ける。『どうしちゃったんだろうね?』と問いかけるようにモコを見つめたが、返事があるわけない。

 公園に視線を戻すと、奥にあるお椀型の大きな滑り台に中学生が四、五人屯っていた。大きな笑い声がして、花音の胸がびくんっと突き上がる。『あーあ、いやだなー……』と唇を尖らせ、ほのかのことを探すと……ほのかは公園南側へと向かっている最中。その足に迷いなく、まるでこの夜の公園に明確な目的があるみたい。

 延長線上を目で追っていく。すると……そこには木製のベンチが二つ並んでおり、一人の男子が座っていた。

 ほら吹き黄金井である。

(ほっちゃん!?)

 思わず花音の目がまん丸に。

 なんと、ほのかはベンチの前でしゃがみ込み、あろうことか黄金井に話しかけたではないか!?

(な、何やってんの、もぉ!?)

 とても見過ごすわけにはいかない。よりにもよって、あのほら吹き黄金井に近寄っていくなんて。学校の誰かに見られたら、変な噂が立ってしまう。

 慌ててモコを抱き、段を下りて夜の公園に入っていく。青願神社までつづく丘の石段を横目に、ブランコ横を駆け足で通り抜けていき、薄暗いベンチの前に到着。所要時間、三十秒。ダッシュである。ソフトボールで鍛えられた体は伊達でない。

「何やってるの、ほっちゃん。ほら、早く帰ろう」

「ごめん……でも、黄金井くんと、その……お話しして、みたくて……」

「なんでよ!? そんなのしなくていいの!」

 腕を掴む。一刻も早く公園を出るべく、そのまま引っ張っていこうとして……けれど、予想外のことが!

「ほら、いくよ」

「いやっ!」

「っ!?」

 驚きを通り越して、頭は真っ白に。

 唖然。

 引っ張った腕を、あろうことかほのかに振り払われたのである。これまで何に対しても無気力だった、あのほのかに。

 突如として訪れた驚愕が、花音の神経を痺れさせた。

(…………)

 間抜けにも花音が口をぽかーんっと開けているのは、目の前で起きたことが信じられないから。

 そうして立ち尽くしていると……片手で抱えていたモコがもぞもぞっと動きはじめたので、はっと我に返った。モコを地面に下ろし、流れる前髪のせいで表情が確認できないほのかに視線を向ける。

「どうして? どうしてこんなことするの? あたしはほっちゃんのこと思ってやってあげてるのよ」

「……ごめんね」

 消えるような言葉。

「でも……黄金井くん、と、お話、が……」

「はあぁ!? 笑わせないでよ。こんなやつと、どんな話があるっていうの?」

「……今朝のこととか……幽霊のこととか」

 ほのかは肩を窄ませ、申し訳なさそうに俯いている。長い髪の毛の間にうっすらと映し出される肌は、同じ日本人とは思えないぐらい真っ白に見えた。

「興味が……あって……」

「ほっちゃん、よりにもよって、ほら吹き黄金井と話したいの? どんなボランティア精神で、どんな罰ゲームよぉ!? でもって、どれだけ聖女なのよぉ!? なのよぉなのよぉなのよぉ!」

「ほら吹き、じゃない……」

 それは、ずっと口を閉ざしていたベンチに腰かける黄金井の声。反論するも、断じて花音のことは見ておらず、目線の先はすぐ下の地面。明かりを背にしているから、自分の影で何も見えはしない。

「嘘なんか、言わない……」

「あのね、黄金井さ、ややこしくなるから、勝手に割り込んでこないでくれるぅ? だいたいあんた、こんな時間にこんな場所で何やってんのよ? 家帰って、ドリルの宿題でもやったら? どうせまだやってないんでしょ? ってより、やってきたことあった? また先生に怒られるよ」

「…………」

「あーあ、都合が悪くなると、だんまりなんだから。ほんと、会話にならないわー」

 見せつけるように特大の溜め息を吐き出し、居心地悪そうに縮こまっているほのかの腕を取る。

「こんなのと話したっていいことないって。だいたい、今じゃなくていいでしょ? あんまり遅いと、お母さんたちが心配するよ」

「……学校だと、声、かけにくい、し……」

「まあ、それはね」

 確かに。

「けど、どうしてもなの? どうしてもこんなやつと話したいの?」

「……うん」

「どんな奇特よ」

 春の夜はまだまだ肌寒いのに、今は真夏の太陽に熱せられるみたいに、体温が上昇してしまう。苛立って仕方ないから。このままでは怒鳴り散らしそうだし、下手すると手が出てしまうかもしれない。

(もおおおーっ!)

 自分のいやな部分が出てきそうだから、『好きにすればぁ!』と二人を置いて家に帰れればどれだけ楽だろうか……ほのかと一緒でないと両親に怒られるし、こんな変人と二人きりで、しかも夜の公園で一緒にいたことがばれて妙な噂でも立った日には、学校で生きていけなくなる。なんたって、ほのかは自分の従姉妹であり、今は一緒に暮らしているのだから。

「あー、はいはい。あー、はいはいはいはーい。じゃあ、好きにして。ほら、お好きにどうぞ。あたし、ここで待ってるから。待っててあげるから。でも、十分だけだからね、それ以上は許さないよ。一秒たりともね」

 憤慨するように頬を膨らませる。小さな声で『ありがとね』と呟くほのかをぎろりっ! と睨んでおき、もう一つある横のベンチに腰かけようとして……けれど、座ることはできなかった。『松原、そっち、座らない方が、いい』と、腰かけようとしたタイミングで、黄金井に声をかけられたから。結果、腰を屈めようとした変な姿勢で体を止めることとなる。ぴたっと。

「んっ? 座らない方がいいって、どういうことよ? あたしなんて座る資格がなくて、ここで立ってなさい、ってこと!? 先生によく教室の後ろで立たされてるあんたみたいにさ」

 いやでも言葉に棘が出る。目の力を抑えることはできなかった。

「説明してみなさいよぉ!? どうしてあたしが座っちゃいけないのさ」

「……そこ、先客、いるから、やめた方が、いい」

「はあぁ!?」

 派手に引っ繰り返る花音の声。木造ベンチを見ても、寂しく明かりに照らされているだけ。いくら瞬きをしたところで、変わることはない。

 先客がいるなんて、意味不明。

「ははーん……いやがらせのつもり?」

「ああ、いや……こっちに、座りなよ。そこ、やめた方が、いい。悪いやつ、じゃ、ないみたい、だけど」

 パーカーを揺らして、黄金井は立ち上がった。髪質がさらさらしているので、それだけで耳に覆う髪の間から耳が見えては、すぐ隠れる。

「こっちにした方が、いい」

「……はははーん」

 花音にはぴんっとくるものがあった。いやいやだが、話に乗ってみることに。

「もしかして、ここに『いる』って言いたいわけ? この誰もいないベンチに」

「うん……」

「…………」

 自分の発言である『いる』に、当然のように黄金井が頷いたことは、普段なら笑い飛ばすところだが……なんとなくベンチに腰かけるのをやめておいた。別に信じていないし、黄金井の言うことなんて信用できないし……ただ、相手が席を譲ったなら、相手に合わせるようにこちらも立っているだけ。隣のベンチに腰かけなかった理由は、それだけのこと。断じて暗い雰囲気に臆したわけではない。花音はそうやって自分に強く言い聞かせる、苦々しい思いに眉を寄せながらも。

「じゃあ、どうぞ。いくらでも会話に花を咲かせてください。さぞかしおもしろい話が聞けるんでしょうね。さあ、どうぞどうぞ。これから十分間、好きなことを喋ってください。ほらほら、限られた時間、後悔しないようにね」

 ベンチの前、花音はモコのリードを持ったまま正面にある十階建てのマンションを見上げた。こうも近いと、十階の明かりの目にしようとすると首が疲れてしまう。東方にも大きな団地があり、北方には青願神社の小高い丘がある。西方にはちょっと背の低い四階建ての団地があって、この公園は多くの子供に利用されていた。今は夜だから、中学生が大きな滑り台で屯っているだけだが。

 また中学生の笑い声が響いてきたが、気にしない。世の中、馬鹿ばかりである。まったく。ほんとに。どうしようもなく。

 モコはさっきまでリードを引っ張って歩きたがっていたが、どう頑張っても自分の願いが叶わないことを悟ったのか、今は花音の足元でおとなしく丸まった。家のソファーでよく見る姿である。

 そして、ほのかと黄金井は、ベンチの前で立ったまま、背中を大きく丸めて、視線を地面に向けたまま、

「…………」

「…………」

 ひたすらに黙っている。

「…………」

「…………」

 どちらから話しかけることもなく、顔を見合わせることもなく、そうして突っ立っていることが自分の役目のように。

「…………」

「…………」

 花音が匙を投げてから、軽く三分は経過しただろう。

「あーっ! いい加減にしなさいよぉ!」

 この状況、公約した十分を待てないのが花音。そういう性格だから仕方ない。

「ほっちゃん、話したいことがあったんじゃないのぉ!? 早くしなよぉ!」

「だってぇー……」

 なぜか涙目のほのか。

「ごめん……何を話していいのか……」

「幽霊の話じゃなかったのぉ!? さっき颯爽と歩いていったじゃん! もういい! あたしがする! ってのか、あたしも今朝のことは聞きたいしね!」

 鼻息荒く、花音は所在なさそうに立つ黄金井を指差した。相手の上半身がびくんっと揺れたが、気にしない。

「で、どうして上履きがあそこにあるって分かったわけ? そもそもあんたの担当じゃなかったでしょ、あの場所? あそこにいた理由、上履きを見つけられた理由、ちゃんと説明してもらいましょうか。さあさあ、納得いくようにお願いしまーす」

 その辺りについて、学校では口籠もるばかりで一切説明がなかった。谷原口に犯人扱いされようとも、一切口を開けることなく、最終的には大野先生の仲裁によって有耶無耶になっている。

「さあ、早く説明してみなさいよ。さあさあ。さあさあさあさあ」

 腕組みをして、上半身を乗り出す花音。

「早くしなさいよ。あんたにとって都合が悪いことがあるなら、ここだけの話にしといてあげるから。ほっちゃんもいいよね?」

 花音は、こくこくっと小刻みに首肯するほのかを目の端に、俯くばかりの黄金井を凝視する。目に力を入れて。

「どうして見つけられたの?」

「……今朝、言った通り……」

「言った通りって?」

「あそこにあるって、教えてもらった……あそこにいた、子に……」

「子?」

 今朝も聞いたが、わけが分からない。下駄箱には、六年一組のクラスメート以外、誰もいなかった。けれど、そう突っ撥ねると話が止まってしまうので、根気よくつづける。

「『子』ってことは子供なのよね。何年生ぐらいなの?」

「一年生か、二年生か……それぐらい、小さい子……」

「小さい子ね……」

 絶対いなかったと断言できる。花音の目が狂っていない限り、あそこに低学年の児童なんていなかった。

 ほのかに顔を向けるが、やはり首を横に振る。

 二対一で花音の正しさが民主主義で示された。

「本当にいたの? 嘘ばっか言ってると、みんなに嫌われちゃうよ。まあ、それは手遅れかもだけど。えーと、だからね……そうよ、もっと嫌われる前に自粛した方がいいんじゃない」

「……信じられないなら、その、仕方ない、けど……でも、教えてくれた、ことは、ほんと、だから……」

「じゃあさ」

 どうしても平行線を辿るので、少し花音が譲歩する。学級委員である、クラスの意見にはちゃんと耳を傾けなければならない。

「教えてくれたってのは、そこにいた誰かに『そこに上履きがありますよ』って教えてもらったの?」

「そ、そこまで、直接的にじゃ、ないけど……」

 黄金井は上唇を噛み、その癖を隠すようにして口元に手をやる。今朝のことを思い出すように、何もない斜め上の空間を見つめた。

「……登校したとき、ぼんやりしたのが、いた、下駄箱に。小さい子……なんとなく、その、向かいの下駄箱のこと、示してるみたい、だった……」

「あらら、まったく言葉の通り、ぼんやりとした内容ね。で、どうやって教えてもらったの?」

「光みたいな霧みたいな、ので、ぼやっと、光って……」

「ぼやっと……?」

 説明として、『ぼんやり』に『ぼやっと』だなんて。

 花音は辛抱強く相手をする。ここは自分の忍耐を試すこともそうだし、隣で興味津々に聞いているほのかのためにも。

「で、登校したとき、谷原口の上履きのことは知ってたの? だったら、騒ぎが大きくなる前に教えてあげたらよかったのに。意地悪ね。これは性格に難があるってことかしら?」

「違う……結果として、分かった、だけ。最初は、何のことか、分からなかった……一時間目、あんなことになって、担当した図書室辺りを、探して……もう教室に戻らないといけない時間になって、そこで、思い出した、んだ。『もしかしたら、朝のあれがそうだったかも』って……気になったから、いってみたら、あった」

「ってことは、下駄箱いったらすぐ分かったの?」

「そう……授業中だから、だいたい置いてあるのは、下履きばかり」

 下駄箱に下履きを置いて、児童は教室で授業を受けるため。

「でも、一個だけ上履きが、交ざってたから、『ああ、これだ』って。名前見たら、そうだったし……」

「言われてみると、それもそうね……」

 放課後なら置かれているほとんどが上履きだから気づかないだろうが、授業中なら上履きは目立っただろう。

 一応、説得力はある。

 けれど、その話自体が偽装されたものだってことも考えられる。罪意識に苛まれた作り話であると。

「ねぇ、本当に犯人は黄金井じゃないの?」

「違う……」

「でもね、その幽霊の話より、犯人がはっきりした方がみんなも納得できると思うよ。一応対策もできるし」

 と、花音は自分の言葉に違和を得る。

「……ああ、でも、違うわ。幽霊が犯人ってわけじゃないんだった。ただ教えてくれただけで、犯人は別にいるんだったね。えーと、誰なんだろうね、ここがはっきりすれば一件落着なのに」

「犯人は……」

 口籠もる。黄金井は逡巡するように視線を彷徨わせて……息を抜きながら唇を動かしていく。

「……上杉うえすぎ、と、杉原すぎはら

「はあぁ!? 杉杉すぎすぎコンビ!?」

 野球部の二人。教室でよくつるんでは馬鹿騒ぎを起こしている迷惑コンビ。ただ、運動神経はよく、運動会のリレー選手に選ばれるぐらい。

「なんであの二人が犯人なのぉ!? あ、でも、ちょっと待って。そういえば……随分おとなしかったわね……」

 今朝、上履きが見つかった以降のこと。谷原口が一方的に騒いだせいもあり、クラス中が黄金井を犯人扱いしているとき、あの二人はやけにおとなしかった。杉杉コンビといえば、いつも教室で何かが起きると真っ先に大声を上げて問題を大きくしては、無意味に掻き混ぜているのに。今回だって、いつもなら露骨なまでに犯人を責め立てる場面だったはず。なのに、今朝はそんなことなかった。

 あの二人の行動、考えてみると得心がいかない。なぜ静かにしていたのか? けれど、得心のいかない理由として、黄金井が言っていることが事実だとすれば、すっと胸に落ちるものがある。

 犯人はあの二人。

「あんにゃろ二人が仕出かしたことだったんだー。なるほどなるほど。よし、じゃあ、明日それとなく問い詰めてみようかしら? どんな顔するのか、想像してみると楽しみね」

 授業もホームルームもいつもいつも不必要なほど騒いでは進行役をする花音の邪魔をしてくるので、弱みを握ることができること、密かにほくそ笑むも……次の瞬間、目を巨大化させた。

「ってぇ!?」

 盛大に唾が飛ぶ。

「じゃあじゃあ! あんたは犯人が分かってたのに、ああしてずっと黙ってたのぉ!? ば馬鹿じゃない! いや、馬鹿よぉ! 自分が犯人扱いされてたのに言い出さないなんて、それで平気なのぉ!?」

「別に……どうでも、いい。おれ、犯人じゃない、から。疑われたって、平気、だし」

「そう、なの……」

 あれから、さんざん谷原口に犯人扱いされて付きまとわれ、クラス中から非難の目を向けられていたのに、あれが平気だなんて。冤罪にもかかわらず。

 黄金井の心境、花音にはとても理解できなかった。

「まあ、あんたのことはあんたのことだから、あんたがいいなら……いや、でも、誤解はやっぱりいけないと思うわ。誤解されてるとこがあるなら、やっぱりさ、その、うーんと……そうよ、あんたがいつも黙ってるからいけないのよ! ばしっ! と言わないと。上履きを隠した犯人は杉杉コンビだって。じゃなきゃ、損な役回りよ」

「じゃあ……」

 黄金井はぐっと息を止め、緊張するように大きく喉を鳴らしてから、言葉をつなげていく。発言に意を決するように。

「じゃあ……お前は、幽霊のこと、信じてくれるのか?」

「へっ……?」

 意味が分からない。

 幽霊?

「どういうこと?」

「あの二人が、犯人だってこと、証拠なんて、ない。おれは、あそこにいた子に、教えてもらっただけ、だから……」

「ああ……」

 幽霊に教えてもらったから、なくなった上履きの場所も犯人も判明した。しかし、そのまま教室で告げたとして、みんなの反応としては……誰も納得してくれないだろう。当たり前である。なんたって、証人が幽霊だから。

 ただでさえ『ほら吹き黄金井』であるし。

「なるほど、そりゃ厳しいわ……」

 黄金井の話を信用するためには、必然的に幽霊を信じる必要がある。そんなの、常識ある者なら信じるわけがない。幽霊なんて、クラスメートがずっと馬鹿にしてきたこと。誰もが無下にしてきたこと。ろくに聞く耳もなく、相手にすらしてこなかったこと。それは今だって変わらない。

 だって、幽霊だから。

「あっはっはーんだ。そんなもん、信じられるわけないじゃなーい。幽霊だなんて、馬鹿言ってんじゃないわよー。六年生にもなって、恥ずかしいわー。そういうの、さっさと卒業しなさい」

「…………」

 押し黙った黄金井。表情は普段通り変化に乏しい。ただ、どこか納得いかないような色が滲んでいるように花音には見えた。

 花音は相手の表情など見なかったことにして、ただただ笑いながら首を横に振る。今まで相手の話に乗っていたものの、あまりに非現実的なものに、一気に距離を得てしまう。確かに上履きの話は説得力があった。犯人の二人の行動にも不審な点が認められたし。だがしかし、根底部分が幽霊の助言だとすると、信憑性を失われる。

 なんせ、幽霊だから。

 幽霊じゃ……。

「まあ、あんた犯人だろうが、あの二人が犯人だろうが、この際どうでもいいわ。終わったことだし。気にしてるのは、きっと谷原口ぐらいよ。だいたい、谷原口だって昨日が昨日だったから、いけないのよね。ちょっと清々した気持ちがあるし……うん、もうどうでもいいわ」

「花音ちゃん、ちっともよくないよ……」

 幕を下ろそうとしていた件に、横から口を挟んできたほのか。胸の前でぐっと拳を握る姿には、今までにない力強さがある。

 そうまでしてほのかが口を開いたと思ったら、

「わたし、幽霊、いると思う」

 爆弾発言が飛び出した。


       ※


「だってだって、いてほしいもん、幽霊。だから、黄金井くんは犯人じゃないと思う。わたしは信じるよ、黄金井くんのこと」

 角度の問題で、半分だけ明かりに照らされたほのかは、まるで怒っているようである。ずっと無気力に過ごすことしかできなかった、あのほのかが。そこに譲れない思いがあるみたいに。

「わたし、黄金井くんのこと、信じる」

 言葉は明確。

「信じるよ。だから、犯人は黄金井くんじゃない」

 顔を染めて、こくこくっと何度も首肯を繰り返す。そうして自身にも自分の言葉を言い聞かせるように。

「だから、信じよう。黄金井くんのこと、信じてあげよう。ねっ、花音ちゃん」

 本心から口に出しているのだろう、ほのかの目に光るものがあった。

 そんな瞳に真っ直ぐ見つめられても……内容が内容だけに、普段の花音なら笑い飛ばすところだが……あまりにも置かれている状況が異様なもので、気圧されるみたいに戸惑ってしまった。

(えーと、えーと、えーと……)

 思考がいろんなところに飛んでは、横から砂の嵐が脳内に吹き抜けて……結局何も考えられない花音がいる。

 横を見てみると、思わぬ賛同者に虚を突かれ、どうしたらいいか分からないみたいに、目を泳がせながら居心地を悪そうにする黄金井。

 花音は、ほのかに強く見つめられていることに、なぜか脈動が強くなる。どうかしないといけないのに、なかなか言葉が出てきてくれない。

(わあああぁーっ!)

 匙を投げた。

「……こんなの変よ!? どう考えても理不尽だわ!」

 おかしいに決まっている。こんな馬鹿げた内容で花音が多数決で負けるなんて。

 幽霊がいる二票。いない一票。

 んな馬鹿なぁ!?

「あー、びっくりだわ。こんな捻じ曲がった真実が世の中に存在していたなんてね。まさかまさかよ。非常識なことでも、人数によっては非常識が常識になって、常識が非常識になっちゃうなんて!」

 驚嘆である。

 きっと現状は、これまで花音が身を置いていた日常から隔離された異常空間に違いない。歪曲した世界だから、花音の思いが通らないのだ。

 と、ここで瞬きを一度。

「……ってことは、ほっちゃん、幽霊がいてほしいんだ」

 読解力が正しければ、そういうことになる。

「どうして?」

「へっ……? そりゃ、だって……」

 少し口を窄ませて……ほのかは告げる。

 心の傷を曝すように。

「お母さん、に、会いたいから……」

 ほのかの母親は、二月に他界している。どん底の悲しみに、暫く学校に通うことができず、ずっと部屋に引き籠る生活がつづいていた。

「どんなだっていい、お母さんに会えるなら、会いたいよ。だって……」

 声の安定が失われるほのか。栓をしていた感情が一気に噴出していくよう。

「お母さんに、会いたいもん……」

 言葉をつづけられなくなっていた。

 に対して、

(…………)

 花音に言葉はない。

 非現実的なところに縋る従姉妹の存在が、胸に大きく突き刺さる。悲しみの絶頂に、人智を超えたものに縋ろうとしていた。近年では、怪しい宗教に騙されるような事件がよくニュースになっている。花音には騙される人の気が知れなかったが、もしかしたらこういった深い傷を持った人間が、現実では得られない心の浄化を求めて信者になるのかもしれない。少なくとも、今のほのかはそれぐらい希薄に感じられた。

 触れたら、壊れてしまいそう。

「…………」

 花音には、目の前の闇を受け止めるだけの胸を持ち合わせていなかった。クラスで選ばれた『学級委員』といっても、所詮は社会を知らない子供に過ぎない。事実、声をかけるどころか、口を開けることもできないのだから。

「…………」

 春の夜風はまだまだ寒い。このままだと風邪を引くかもしれない。

 遠くの滑り台からは中学生の笑い声が響いてくる。品のないもので、耳障りだが、しかし、今はぼんやりと聞こえて、特に思うものはない。

 花音とほのかと黄金井……押し黙った三人の状況……自然と漏れる息が大きく意識される。

 リードを持っていた右手の人差し指が小さく曲がった。すると、それが合図になったように花音の唇と唇の間に空間ができる。

「……ほっちゃん、もう帰ろう」

 そう言い出すのが精一杯。

 同時に、これまで鼻で笑うばかりで見向きすらしようとしなかった場所に、少しだけ視線を向けようとする気になった。

 それが成長と呼べるものかどうかは、きっと今後の花音次第だろう。

「あのさ、黄金井」

 だからこの日、花音は一つの提案をした。

 これまでない未来を求めて。

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