幽霊人間のいたずら
@miumiumiumiu
第1話
※
二月六日、日曜日。
向かってくる冷たい風に瞼を半分下ろすと、ひんやりとした空気が頬を撫でていくのがよく分かる。家の前に出ると、南方に指先ほど小さく見える
駅前にはアーケードのある商店街がある。テレビの情報によると、全国的に商店街は寂れていくみたいだが、オレンジ商店街は今も活気で溢れていた。理由は、近隣の住民愛も然ることながら、この辺りに大型スーパーができないのが大きい。要はライバルがないのである。安泰。地元民に愛されているのだ。
駅までの道はゆったりとした下り坂。視線を上げると広大な太平洋を眺められた。まるで巨大な翼を広げるように、次々と押し寄せてくる波の白さは、見ているだけで凍えてそうで身震いしてしまう。本格的な冬の厳しさは、広大な海に誰も近寄らせない静けさを有していた。
正面から吹いてくる潮風は、強く髪の毛を靡かせるもので、時々顔を逸らさないと呼吸が苦しくなる、こともある。毎年この時期に思うことだが、春の到来が待ち遠しかった。けれど、春は春で花粉が猛威を奮うため、実に複雑な心境となる。考えてみると、夏の虫や秋の食欲による体重増加など、年々どの季節にも苦手なことが増えていく。そう思うと、四季の移ろいは試練の連続のような気が……。
視界に広がる海岸線は緩やかな曲線を描いて、南西の崖には外観の白い灯台が建っていた。午後二時なので明かりは見えないが、深夜になればこの辺りは人工的な光が少ないため、一本の強烈な光が世界に灯ることになる。家族三人で弁当を持って遊びにいったのは、一年前の春のこと。休みの日の小さなイベントだったのに、今では得ることのできない、かけがえのない思い出である。
あの頃は、強く胸を締めつけられる不安な気持ちはなかったのに。
幸せだったな。
「…………」
歩く。歩く。方向として、まずは駅に向かって歩いていく。
駅東方に五階建ての大きな建物がある。他に背が高い建物がないため、ここからでも充分眺められた。
この道を歩いていく心境として、心配する気持ち、焦燥に不安、病院にいくことで突きつけられる感情……それらが随分薄まってきていた。慣れもあるが、毎日のことで感覚が鈍くなってきているのだろう。以前はずっと落ち着かない気持ちでいたが、今では『希望』も『絶望』も頭を過ることが少なくなっていた。
けれど、いつ直面するとも限らない絶望に怯える事実は、心の表面にへばりついて離れない。それは今日だって。
この瞬間も。
「…………」
小さく開けられた口から白くなる息を弾ませ、膝まであるベージュのダッフルコートに身を包んで坂道を下っていく。右肩からかけたバッグは黒革だが、福沢諭吉一枚でお釣りがくるもの。もちろん駅前の商店街で購入した。右手には着替えとタオルが入っている布鞄を持っていて、それを病院に届けるのが今の目的。毎日の『習慣』になっているが、できることならしたくない。いい方向でなくなるなら、なくしたいものである。
家族全員で生活するという、当たり前だった日々が当たり前でなくなって、改めて日常の素晴らしさを痛感していた。こんな日がこようとは。
「…………」
道の両側には瓦屋根の住居がつづき、どの庭にも柿や桜の木が目についた。けれど、海風に揺れる葉もなく、広げた細い枝が寒々しい冬にじっと耐えているように見える。そうして冬に耐え、春の到来を待ち遠しにしているのだろう。厳しさもあと二か月の辛抱である。今年もきっと、桜色に染まる季節が訪れるに違いない。包まれる冷たい空気からは、遥か遠い光景に思えてしまうが。
その頃までに、かおりのどんよりと曇った心が、青空のように晴れやかなものに変わっていればいいのだが。
「…………」
外観水色で全品百円の自動販売機前を通過して、県道にぶつかる。家からここまで擦れ違う人は皆無で、ヒールのない靴でゆったりと歩くことができた。急いだところで何も変わることはないし、スピードを上げるとその分寒さが身に染みるから、歩調を変えるつもりもない。
それに、あまり速く歩くと、隣を歩く女の子がついてこれないと困るから。
「……ほのか、寒くない?」
右隣には、娘のほのかが歩いていた。寒さの影響と先月からの重たい気持ちに俯き加減で、懸命についてきてくれる。
ほのかの陶器のような白い肌は透き通るようで、気温のせいもあり頬はほんわり桃色に染まっていた。髪の毛は真っ直ぐ背中まで落ち、歩調に合わせて小さく揺れている。真っ赤なジャンパーに同色の手袋、紺色のスカートは足首まで達していた。元々おとなしい性格だが、年明けからは一層元気がない。それはそうだろう、ずっと一緒に暮らしてきた父親が入院しているのだから。
入院して、かれこれ一か月が経過しているものの、退院の目途が立っていない。いや、そればかりか、入院から今日まで会話もできない深刻な状況にあった。
「今日は帰りにお買い物しようね。よーし、特別にお菓子二個買ってもいいよ。チョコでもポテチでも、クッキーでもアイス……はちょっと寒いか。はははっ」
明るく声をかけるも、ほのかの視線が上がることはなく、口から白い息以外に漏れるものはなかった。
かおりは小さく上唇と下唇を押しつける。前方にある歩行者信号が点滅していたので、少し歩調を緩めていった。
「…………」
県道に到着するのと、信号の色は赤に変わる。前の道路を大量の土を積んだダンプカーが右から左へと走っていった。反対車線では、外観が四角い軽自動車がウインカーを出して一度は左折しかけるも、曲がることなく直進していく。寸前で気が変わったのか道を間違えたのか?
信号前には四角いコンクリートの交番があり、入口の
そう思っていると、紺色の制服が出てきた。
挨拶をする。
「こんにちは」
「ああ、後藤さん、こんにちは。今から病院ですか?」
「ええ、まあ、そうなんです」
出てきたのは、交番に勤めるお巡りさん。『
明るい性格で人当りがよく、近所の人にも評判よかった。身長は百八十センチぐらいで、体重は百キロを超えているに違いない。シルエットだけなら熊である。こうして明るい時間ならいいが、暗い夜道で見かけたら、もしかしたら全力で逃げてしまうかもしれない。少なくとも顔は逸らすだろう。
そんなお巡りさんに対し、かおりには少し気がかりなことがある。最近は少し疲れているみたいで、対面しているときは気のいい笑顔を浮かべているものの、たまに机に頬杖をしてぼぉーっとしていることがあった。かおりにはかおりの苦労があるように、お巡りさんにもお巡りさんなりの苦労があるに違いない。いらない世話を焼くわけにはいかないので、その点に触れることはないが。触れたところで、きっとどうにもならないだろうし。
かおりは小さくお辞儀をし、意識して口角を上げた。
「病院にいっても、うまくいかないもんだから、なかなかね。あの人、早く目覚めてくれればいいんですけど……」
『早く』でなくても『目覚めてくれるだけ』でいいのだけれど。それだけで、どれだけ不安定な心を落ち着けることができることか。
「これから、どうなっちゃうんでしょうね……」
「病気ですもんね、大変ですよね」
話題のせいか、お巡りさんは眉を寄せた難しい顔。と思ったら、頬を大きく緩め、膝を曲げてほのかに声をかけていった。
「ほのかちゃんも、しっかりお父さんのお見舞いするんですよ。家に帰ったら、お母さんのお手伝いもちゃんとしようね。ほのかちゃんがいい子でいれば、お父さんだってすぐ元気になるはずだから。しっかりするんですよ」
笑顔に戻ったお巡りさん。
「まっ、ほのかちゃんなら大丈夫だよね。いい子だもんね」
「ほのか、ご挨拶は」
ほのかに促すも、声を発することなく、ただ顎を引くようにして頷いた。少しは愛想よくすればいいのだろうが……父親が入院している現状では、元気ないのも仕方がないことかもしれない。
かおりは注意することなく、『すみません』と頭を下げておく。
と、視界の端で信号の色が変わった。
「それじゃあ、これで。ご苦労さまです」
もう一度頭を下げてから、擦れ違う乗用車一台を目に、真っ直ぐ駅を目指して横断歩道を渡る。
信号を越えると用水路にかかるアーチ状の橋にぶつかる。焦げ茶色の木製のもので、長さは十メートル。手前から見ても実際に上を歩いてみても、中央部分の曲線がはっきりと感じられた。見事なその曲線や周辺の雰囲気はドラマや漫画に出てきてもおかしくないぐらい絵になっている。手摺りの間から覗き込むと、緑の草と苔の間に光を反射する水が西へと流れていく。夏なら魚影が見えるだろうが、冬は寒くてどこかでじっとしているに違いない。
橋を越えてそのまま緩やかな坂を下っていき、ようやく駅前に到着。東方には商店街があり、アーケードの蒲鉾みたいな曲線からは、賑やかな声と、外向けに設置されているスピーカーからアップテンポな曲が流れてくる。
買い物は病院の帰りにするため、今は背を向けて五階建てを目指す。
正面にある美河総合病院の白い外観は、巨大な豆腐のよう。今もあの中では多くの患者が病気と戦っていて、その一人が自分の夫であること……普段縁のなかった建物が生活の一部に組み込まれ、以前より身近なものになっていた。いいイメージを受けるものでないが。
「…………」
段を上がってコンクリートの通路を歩いていくと、ほのかが通っている小学校のグラウンドほどある広い駐車場が見えた。今は半分ほどが埋まっている。敷地の端にある自転車置き場から建物沿いを正面玄関に向かい、大きな自動ドアを抜ける。玄関ロビーは吹き抜けになっていて、とても開放的。午後の受付はないので窓口のシャッターは閉まっていた。
車椅子が三台は乗れるだろう奥に広いエレベーターを経て、五階に到着。手前から二つ目の扉、502号室。ノックすることなく入っていく。
「…………」
目に飛び込んでくる真っ白なシーツ、パイプの柵があるベッド。囲むようにして置かれている医療器具からは、いくつものチューブが布団の下に入っている。一定の間隔で波打つ波形の音を耳に、かおりは小さく息を吐く。
ベッドに横たわる夫の肌は青白く、生気は一切感じられない。ただ今は静かに瞼を閉じている。口には、鉄色の管が入れられており、それによって呼吸が保たれていた。自ら息をすることもできていない状態にあり、周囲を囲む医療器具によって生かされている、というのが現状である。この状態が一か月以上つづいていた。
502号室は個室のため、トイレにシャワーが完備されている。冷蔵庫もテレビもあるが、一切使われていない。当然である、使うべき人間がずっと眠っているから。
部屋は南向きで、窓には白いカーテンが引かれており、開けてみると広大な太平洋が正面にある。真っ青な海には、次々と押し寄せてくる白い波があり、暖房のある室内なのにとても寒々しく見えた。海岸線は僅かに歪曲していることがよく分かり、近くには数隻の船が停泊している。漁や釣り船が多いが、趣味で持っているものも少なくなかった。
「ほのか、喉渇かない? オレンジジュースでいいよね?」
コートを脱いで、いつものようにコーヒーを買うべく、自動販売機のある近くの休憩室にいこうとして……かおりは目をぱちくりっ。頭の隅で『おかしいな?』という気がかりを得ながら、バッグを開けたのだが、案の定というのか、財布が見つからなかった。
「うーん……」
視線を斜め上に向けて訪れた記憶は、家を出る前のもの。出かける前に財布の中身を確認した。今日の買い物分は入っていたが、少々寂しいもので、『ああ、帰りにATMに寄らなくちゃいけないわ』と考えていて……。
「……入れたっけ?」
家を出る前に財布を確認した。中身の確認も怠ることなく。けれど、それをバッグにしまったかというと……急に記憶が曖昧になる。いや、曖昧というより、一旦玄関の靴箱の上に置いた以後、財布に触れた記憶がない、ような……。
「ありゃ、忘れちゃったかなー……」
着替えの入っている布鞄も確認してみるが、当然そんな方にあるはずがない。そっちに入れたことなど、今まで一度もないのだから。
横で見ているほのかの不思議そうな視線を感じつつも、もう一度バッグに手を突っ込んでみる。小さな化粧ポーチにポケットティッシュ、横にあるポケットを覗き込むが……確認した事実に、『あー……』と出したくもない息が漏れていった。
「……やっぱり。困ったなー」
そもそも財布をバッグにしまった記憶がなく、靴箱の上に置いた記憶がある以上、どんなに探しても見つかるはずがないのだ。それはバッグを逆さまにしたところで変わることはないだろう。
結論、財布を家に忘れた。
嘆息。
「……ごめんね、ほのか。お財布を家に置いてきちゃった。どうしようか?」
横にいるほのかは、口を半開きにしてこちらを見つめている。『どうするのぉ?』と、椅子に腰かけて首を小さく傾けていた。
かおりはその頭に手を置き、にっこりと微笑みかける。
「帰りにお買い物しないといけないから、お財布、今から取りにいくね。すぐ戻ってくるから、ここでちょっと待ってて」
かおりの提案に、一瞬だけ表情を曇らせたほのかだが、頭をぽんぽんっと叩くと、渋々という感じで頷いてくれた。
「ああ、そうだ。もし病室に看護師さんがきたら、『ちょっと待っててください』ってお願いしてくれればいいから」
そうして、まだ首を傾げているほのかを残し、かおりは急いで病室を出ていく。パジャマ姿の入院患者とともにエレベーターに乗り込み、玄関ロビーを抜ける。一気に押し寄せてくる外の冷気に思わず身を縮ませながら歩いていき、敷地の隅にある自転車置き場に向かいながら振り返ってみると、角度の問題で五階の病室は明かりがあるかすらも分からなかった。
駅前まで戻り、さっき下ってきたばかりの緩やかな坂を今度は上っていく。緑色のネットがある小学校を左に眺めながら、用水路にかかるアーチ状の橋を渡り、県道の信号は到着寸前で青色に変わったので足止めされずにラッキー。角の交番に目を向けたが、お巡りさんの姿はなかった。駐車場にパトカーは駐車されているので、きっと奥に引っ込んでいるのだろう。
前方に青い空にくっきりと浮かび上がっている稜線を眺めながら、瓦屋根の間を抜けて家の前に到着。
道路と敷地の間に深さ三メートルの水路があるが、水は溜まっていない。子供がボールを落としては、打ち込まれている手摺りを伝って取りにいく光景をよく目にした。その水路を上から覆うようにコンクリートがあり、橋の役割を果たしている。亡くなったかおりの母親が小さかった頃、水路に水が流れていて竿を垂らせば魚が釣れたらしいが、かおりが子供の頃から魚どころか水が流れているのを見たことはなかった。
枝を伸ばしている大きな柿の木がある。秋も深まると実が熟してゼリー状になり、手で皮を抜いてはスプーンで実を食べるのが毎年の楽しみ。今は実どころか一枚も葉をつけておらず、枯れ木のよう。あんまり放置すると枝葉が水路に落ちるので、『脚立を持ってきて切らないといけないなー』と思うも、なかなか実行に移せずにした。『やらなくちゃ!』という気持ちだけで魔法のように剪定できればいいのに。そういう親切な小人が現れてくれるとか。
建物は奥まったところにあるので隣家の塀の間にある通路を進んでいく。日曜大工道具が置かれたトタン屋根の小屋を横目に抜け、二階建ての住宅に到着。物干し竿の洗濯物は取り込んであり、奥の竹林が小さく揺れている様子が、少しだけ寂しい印象を受ける。近くの花壇にはチューリップの球根を植え、毎年の楽しみだった。
ただ、今年は家族三人で見られるかどうか……。
「あーあ……」
帰宅。
玄関は格子のあるガラス戸の引き戸で、バッグから取り出した鍵で開錠する。玄関はコンクリートの土間に靴が並んでおり、周囲の壁には木目が目立つもの。
「あれ……?」
戸を開けてすぐ目が向かった場所……しかし、忘れたと思っていた下駄箱に財布は見当たらなかった。小首を傾げ、『もしかしたら』とバッグを探るも、見落としていたという事実は確認されない。その点に関しては安堵だが……である以上、別の場所に忘れたことになる。
財布は玄関で確認したはずなのに……?
どこ?
「っ!?」
刹那、かおりの感性以前の部分が、入ったばかりの家に違和を得た。今こうして入っているのが普段生活している自分の家なのに、覆っている空気がしっくりこない。どこかおかしな感じがして、しかし、どう変なのか具体的には説明できない。
ただ、なんとなく、何かが、変。
「…………」
幼い頃、学校から帰ってきて誰もいなかったとき、あまりに静かだから『もしかしたら幽霊がいるかも!?』と、びくびく怯えたものが……不意にあの頃に似た気持ちが蘇った。もう四十歳で、結婚もして一児の母親だというのに、暮らしている家に臆しているというか、すんなりと足を踏み入れることができなくなっている。
どきどき。
「……ははっ、おかしいんだー」
直面した『我が家に戸惑う』という状況、感覚としては不気味に感じているものの、客観的に考えると、思わず吹き出してしまった。『幽霊なんているはずないじゃーん』という常識が頭の半分を占めていて、頭から振り払うことにする。同時に、止めていた足を動かしていく。
土間で靴を脱ぎ、左側の居間の扉を開けた。炬燵の上には新聞やティッシュ箱、爪切りや耳かきが入ったプラスチックの箱があり、玄関以外に財布を置くとしたらそこだろうと視線を向けるも……ない。『おかしいなぁ?』と首を傾げ、なんとはなしに視線を動かしていく。窓からは短い光が射し込んでいて絨毯の端まで届いており、目をゆっくりと上げていって……次の瞬間、驚愕が飛来した。
「っ!?」
一瞬にして脳内に危険を知らせるシグナルが発生。真っ赤なランプが点滅し、激しく反響するけたたましいサイレンが頭を覆い尽くす。『早くどうにかしないと!』と思いが激流のように駆け巡った。その反面、直面した驚愕のあまり、体はうまく反応してくれない。電話することもここから別の部屋に移動することも声を出すこともできないままに、存在はその場に固定されたみたいに呆然と立ち尽くす。
目に映ったものに思考回路が完全停止状態にあった。
「…………」
頭を真っ白したかおりが見つめる先……そこにはかおりの身長よりも大きな窓があり、窓越しにビニールを張った温室が見えた。今はその窓ガラスの中央部分がぼやけていて、焦点を合わせてみると、なんと放射線状に割れ目が入っていたのである! さらには、中心に
そう認識した瞬間、窓と窓の間に小さな隙間があることに気づく。家を出る前に施錠したとき、あんな風ではなかった。
『空き巣狙い』
言葉が脳を占める。
直面した異常事態に、まだかおりの思考回路は停止したまま動いてくれない。半分開けられた口を閉じることもできない。
家なのに、今はまるで知らない家に迷い込んだ気分。すっかり冷静さを失った状態では、何も行動を起こせない状況をどうにも改善できずに……あろうことか、その身にさらなる驚愕が訪れる!
「ひっ!?」
背後は廊下で、床板が『みしっ!』と大きく軋んだ!?
全身硬直していた状態から、弾かれるように振り返る。すると、そこに存在そのものを震撼させる愕然が!
「ど、どうしてここに?」
一瞬の驚き。家には誰もいるはずないと思っていたそこに人がいたから。けれど、認識した存在にほっと胸を撫で下ろすかおりがいる。理解できない不気味な状況において、こうして誰かに会うことができたから。
しかししかし、直後に背筋が凍りつく。ここはかおりの家であり、その人物がいるはずない!?
「どうして!?」
吐き出した言葉は疑問でもあり、問いかけでもある。しかし、かおりの人生において、その疑問が解消されることもなければ、問いかけの回答を得ることもなかった。
なぜなら、ここで、かおりは四十年の人生に幕を下ろすことになるから。
その胸に、巨大な未練を残して。
一瞬にしてすべて吸い取られる薄い意識では、もはや目の前にあるものを認識することすらできない。
感覚として、世界が凍りついたみたい。空気すら流れることなく、あらゆるすべてが停止する。
現在も自身を襲う衝撃はあるが、あまりにも神経を超越した凄まじいものであるばかりに、今では苦しさや辛さを通り越して感覚が無と化していた。
今はただ、そこにいるだけ。それ以外にできることはない。
「…………」
脳裏に過る思いがある。それは病院に残してきた一人娘のほのかについて。
今頃きっと、父親が眠る病室で一人寂しく膝を抱えていることだろう。迎えにいってあげられなくて、ごめんね。
「……──」
来年小学校を卒業したら、家族三人で海外旅行を計画していたのに。どうやら守れそうにない。『約束したことはちゃんと守りなさい』なんて普段からえらそうなこと言ってたのに。ごめんなさい。
「────」
中学校の入学式には、一緒に登校するはずだったのに。
二十歳の成人式には、きれいな振袖を着せてあげる予定だったのに。
どんな恋人を家に連れてきてくれるだろうかと期待していたのに。
結婚式を派手にしてあげようと今から楽しみだったのに。
孫を抱いてあげることもできそうになくて。
ごめん。
ごめんなさい。
こんな母親で、ごめんなさい。
ほのか。
娘を不幸にしてしまう。
無力なかおりでは、何もしてあげることができない。
駄目。
こんなの、駄目。
せめて……せめて、ちょっとでいいから運命に抗いたい。
悲運を受け止めるばかりでなく、自分がこうして存在した証を残したい。
だから。
だから、最後の一瞬まで、生きる。
生きてみせる。
生きて、ほのかのために……。
「── 」
もはや意識はない。感覚もなく、何も見えずに何も聞こえない。
力なき物体と化したかおりだったが……感情以前の魂そのものが、右手に最後の力を込める。
小さな火が消える瞬間、一度ぱっと弾けるように、その右手は理不尽な世界に抗った。
「 」
空間に感情が圧縮する。一瞬の火花が散るように……。
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