第9話 汝のさいわいを願う
「生まれた国へ帰れ。人の姫」
落ちた声が宙に溶ける。直ぐに、互いの拍動さえも止まったのではないかと錯覚するほどの静寂が訪れた。
(…当然だ)
エドヴァルドが息を吐く。
彼が宣告したのは、身勝手、あまりにも身勝手な決別だ。それでも、怒りをぶつけられることも詰め寄られることも、覚悟しての行為だった。そして、この婚姻が終わることも。
「陛下」
震える指が、彼の服を掴んだ。エドヴァルドが体を捩りそちらを振り向けば、群青の頭頂部が視界に映る。そうして下を向いたまま、アンナは静かに声を出した。
「抱いて、くださいませんか…」
その言葉にエドヴァルドが目を見開く。彼女の口から出てきたものは予想だにしない懇願だった。
「何を…」
「わたくしは…死ぬつもりでこの国に参りました」
アンナが呟く。脳裏に、婚姻の日の情景が思い浮かんだ。
恐ろしいほど冷たい雨を浴びながら、彼女は橋を渡った。東西を分かつ谷、遥か下に流れる川は全てを呑み込みそうな濁流と化していて、それに苦しいほどの共感を抱いた。
『敗戦国の姫が何を偉そうに』
『どのような生活が待つか知りもしないで』
そうして辿り着いた地で浴びせられたのは、雨と変わらぬ冷淡な言葉。噂に違わぬ待遇なのだと、改めて理解したのだ。
「それなのに…あの日、あの時。わたくしを王妃に据えると陛下が宣言されたあの瞬間。一体どれほど救われたことか」
『今この時から、アンナ・オングストレームを第1王妃へと据える』
たった一言、それだけだった。歓迎の言葉も愛の囁きも無ければ、彼がその理由を述べることもなかった。
けれどあの瞬間、確かに彼女の運命は変わった。最低限の衣食住が保証され、人としての生活を送ることが許された。
「全てを捨てた筈なのに…命も、地位も、生きる理由も、他ならぬ貴方様から頂いたのです…」
俯いたアンナの顔から、ぽろぽろと雫が落ちていく。白いシーツに点々と染みができた。
「例え…陛下に、そのような本意が無かったとしても…結果として、わたくしの心を救っていただいたことに…代わりはありません」
そこでアンナが言葉を切り、顔を上げた。煌めく金の瞳がエドヴァルドを捉える。
「あの時からずっと…お慕い、申し上げております」
白い頬を雫が滑り落ちていく。涙が溜まり歪んだ瞳はそれでも尚、エドヴァルドだけを映している。
「陛下から、頂いた命です…。貴方様が仰るのなら、従います…けれど、それでもどうか、わたくしにほんの少しでも情を感じて頂けているのなら…」
アンナの言葉に嗚咽が混じる。そうして最後に、消え入りそうな声を出した。
「最後にどうか…抱いてください…」
震える懇願は確かにエドヴァルドに届く。その金色から目が離せない。彼が心底惚れた、彼女の目。
「っ…!」
エドヴァルドが堪らず、身体を起こした。アンナに覆い被さり、そのままーーー腕を振りかぶって寝具を殴り付けた。
轟音と共にたちまち亀裂が走り、真っ二つに割れる。重心が崩れたベッドがふたりを乗せたままがくんと沈むが、一切動揺することなく、彼は眼下のアンナを見据えた。
「それ以上…その口を開けてみろ。八つ裂きにしてやる」
張り裂けそうな胸中を嘘で固めて、エドヴァルドは非情に言い切る。
「貴様など、ただの道楽で生かしておいただけ…」
言い終える前に、アンナが動いた。身体を持ち上げ、エドヴァルドの口に自身の唇を重ねる。固まる彼をよそに、ゆっくりと顔を離した。
「…貴方様とこの国の行き先に、幸多からんことを…」
衝撃でエドヴァルドの牙が当たったのか、彼女の口元からは血が流れる。それを隠すように唇を噛んで、アンナは無理矢理、微笑んだ。
「ありがとう、ございました…」
声を押し殺してしゃくりあげる。
こうして肌を重ねることもないまま、ふたりは袂を分かつ。もう二度と、この寝室へ戻ることはなかった。
「我らが姫をお迎えにあがりました」
東オリアンの城の客間のひとつ。柔らかな物腰とは裏腹に、その人物の声はよく通った。エドヴァルドは息と共に、諦念を込めた言葉を吐く。
「よくもまあ…わざわざ此処まで来たものだな」
「用心の為に大量の兵を同行させましたことを、どうかお許しください。貴方の城に人が居る様は、なかなか慣れないかもしれませんが…」
エドヴァルドの前にはひとりの青年の姿。彼の言葉通り、普段は魔族ばかりが闊歩する城内には、人間の姿があった。今もふたりの兵を背後に付け、同じく人間の彼は悠然と微笑む。
「驚きました。まさか前向きなお返事が頂けるとは、思ってもみませんでしたから」
机に広げられているのは西オリアンからの文書。長椅子に座ったまま、エドヴァルドは手紙の送り主を見据える。
「アンナを、西オリアンに戻して頂けると言うことで」
アレクサンデル・グランクヴィスト。西オリアン王国の議員の1人。公爵位を持つ上流階級の人間である。身に付けている物や優雅な所作がその証。何よりもエドヴァルドは、彼の家名に反応した。
「グランクヴィスト…“元”王家か…」
「…ええ」
アレクサンデルがその碧い瞳を細める。およそ400年ほど前、未だオリアン王国がひとつの国であった頃、グランクヴィスト家は王族の家系であった。その名字と地位に、彼が末裔であるとエドヴァルドは判断したのだ。そんなアレクサンデルは、アンナの元・婚約者でもあった。
「…安心しろ。気紛れで王妃にしたが指一本触れてはいない。子を宿さない者に渡す種などひとつもないのでな」
「…気が付いておいででしたか」
エドヴァルドの核心を突いた一言にも、彼は動揺することもなく微笑む。
アンナが毎晩飲んでいた茶。一見すると何の変哲もないただの葉だが、ある薬の効果を茶葉へと置換させたものである。
その薬が、避妊薬。
「勘違いなさらないでください。我らが彼女にあの葉を用意したのは決して、貴方様が魔族だからと言う理由ではありません」
「……」
「いくら世襲制ではないとは言え、敗戦国の姫が勝利国の赤子を宿せば、彼女も子も無事では済まない。何よりも、彼女からしてみれば、逆風の中王妃に据えてくださった貴方様の立場を鑑みての行動だったのでしょう」
ゆるやかに微笑み、アレクサンデルは続ける。
「…彼女には過酷な生活を送らせました。西オリアンで実権を握っているのは政治家です。オングストレーム王家はただの象徴に過ぎない。彼女は彼らの尻拭いをさせられただけです」
そこで言葉を切って、彼はどこか自分に言い聞かせるように呟いた。
「…彼女も、地位さえ取り払ってしまえばごく普通の少女なのに」
(…知っている)
口には出さなかったが、エドヴァルドは心中で小さく呟いた。
『じゃあ何が幸せな結婚かって話ですもんねえ』
ハネル村での一件後。アンナが意識を取り戻したあの時。
扉の向こうから漏れ聞こえたヘルガの声に、エドヴァルドは足を止めた。意識のないアンナを心配して来たところだったので、続いて聞こえてきた彼女の声にほっと安堵を覚える。入室するわけにも行かず、彼はその場で静かに話を盗み聞いていたのだ。
『月並みな意見ですが、世界でいちばん好きな殿方と共に暮らし、そうしていつかその方のお子を授かるような…そんな結婚でしょうか』
何てことはない一言。女性ならば一度は持つ夢。けれど彼女には、決して手に入らないもの。そう語るアンナの声から滲んでいたのは、確かな憧憬だった。
「……」
目の前の男を見つめる。端正な顔立ちに、エドヴァルドとは正反対の紳士的な所作。爪もなければ牙もない。何よりもアンナと同じ、人間である。
当初の予定通りこの男と結婚していれば、彼女は接吻ひとつで血を流すことも、叶わぬ夢に憧れ続けることも無かったのだ。
「彼女こそ幸せになるべきだと…そう思うのです」
エドヴァルドはもう何も言わない。例え嘘だろうとも貫き通すことを決めた。
それでも最後、狂おしいほどの嫉妬を抱えてたった一言、零れるように本音を吐き出す。
「ああ…。そうだな…」
エドヴァルド・セイデリア。東オリアン王国第11代国王であり、己の力のみで頂点にまで登り詰めた覇者である。
そんな魔王が彼女に出会って最初に抱いた感情は恋。嫉妬や我慢、驚きを経て次に心を占めたのは、失うかもしれないと言う恐怖。
そうして最後は、愛だった。
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