第10話 世界でいちばん幸福な結婚
「結局…見送りにも、来ませんでしたね」
静かな室内にぽつりと落ちたのは、エドヴァルドに向けられた嫌味。深紅の瞳が動き、扉の前に立つヘルガの姿を捉えた。
「そう言う貴様は良いのか」
「私はちゃんとお別れを済ませました。猫おじさんとか童貞野郎みたいに、人前で号泣する趣味はありませんけど」
そうため息をつくヘルガの目元も、赤く色付いている。エドヴァルドが彼女から視線を外し、窓の外へと戻した。
城下町を越えた遥か向こうに、人の列。アンナを迎えに来た外交使節団である。もう随分と小さくなってしまったその影を、何を言わずに見つめるエドヴァルドに、ヘルガは口を開けた。
「最後まで…陛下からは、キスのひとつもしてあげなかったんですね」
「……」
エドヴァルドは沈黙を返す。それに構わず彼女は続けた。
「…飲んでいる茶に避妊作用があることも、アンナ様は分かっておられましたよ」
「…だろうな」
「自分の利益を追求することが我が儘だと言うのなら…アンナ様は、我が儘を言わない方でした。あの方はいつだって、誰かの為に動く人でしたから」
珍しく饒舌に語るヘルガの声は震えている。無言のエドヴァルドに矢継ぎ早に捲し立て、一方的に言葉を並べる。
「子供を産めないと分かっていたのに、それでも抱いてくれと言ったその理由は何ですか?例え役目を降ろされようとも、変わらなかった言葉はアンナ様の唯一の我が儘だったんじゃないんですか」
そうして最後は、普段の彼女からは考えられないほど弱々しい声だった。
「あの方はただ…あなたと肌を重ねることを望んだんだ」
「アンナ様」
自身の名を呼ぶ声に、アンナは窓から視線を外し背後を振り返った。彼女の居る場所は東オリアン王国の西側、西オリアンへと続く道、馬車の中である。木々ばかり映す窓には既に城の影も形もない。
彼女の横にはひとりの少女。アンナの元々の側仕えであった侍女のひとり。今回の送迎にもいの一番で名乗りをあげたと言う彼女からは、張り裂けそうな後悔が伝わってきた。
「貴女様をひとりきりで行かせてしまったことをずっと、後悔していました…」
「そんな…。わたくしが父に頼んだのです。謝らないでください」
「いいえ。制止を振り切って、付いていくべきだったのです。ご無事で本当に良かった…!」
そうして彼女は涙を拭いて、ぎゅうとアンナの手を握り直した。
「けれど大丈夫です。今度こそ、皆でお守りします。貴女様は幸せになれます」
主人を想う心からの笑顔。けれどその言葉に、アンナは言い澱んだ。
「わたくしは…」
「国境に着きました」
続く言葉は、馬車の扉が開く音に掻き消された。
「アンナ様。お手数ですが、この先は歩いて渡って頂かなければなりません」
差し出されたアレクサンデルの手を握り、地面に降り立つ。アンナの目の前に現れたのは、東西を分かつ谷と、そこに架かる橋。急ごしらえで作られた橋はアンナの嫁入りから全く変わらず、頼りなく風に揺れている。
「国境ですから、勝手に手を付けるわけにもいかないのです。それでも一度に大人数で渡らなければ、耐久に問題はありません。さあ、私と」
持ち運べるよう、馬車の分解を始めた兵士を横目に、アレクサンデルが橋の向こうの西オリアンを示す。ふたりぶんの足を乗せると、底板がぎしりと鳴った。
「…こんなに静かな場所だったのですね」
歩きながら橋から谷を見下ろせば、一筋の川。来た時とはまるで別の物のように、穏やかに流れている。
「気を付けて。この高さです。落ちれば命はありません」
下を見つめていると、アレクサンデルが声を掛けてきた。
「民が貴女を待っています。魔族側がこちらに無茶な要求をしてこなかったのも貴女のお陰だと、皆が皆感謝している。今となっては貴女の人気は…まさにフレデリク国王陛下をも凌駕する」
「……」
アンナは下を向き、静かに首を振った。
「わたくしの行動の最初から最後まで…全てが全て、民の為だったと…そう断言できるほど、わたくしは出来た王妃ではありませんでしたわ…」
「ご謙遜を。国の為に魔族に嫁入りを果たした上に、東オリアンでも活躍されるとは。お陰で私の計画が頓挫した」
何でもない一言。風に吹かれて飛んでいってしまいそうな言葉だった。けれど彼の一言に、アンナの動きがぴたりと固まる。
「計、画…」
呟いた瞬間、頭の中で光ったのは啓示にも似た閃きだった。そう、アンナに寄って止められ、そして出どころが謎だったもの。
顔を上げると、緩やかに微笑むアレクサンデルの表情が目に映る。震える口を開けた。
「あの花。魔族の方を暴走させるあの花は、貴方が…作ったのですか…?」
「…試験用に蒔いたものでしたが、予想外に繁殖力が強く、ちょっとした騒ぎになってしまったようですね。しかしまさか…貴女に見破られてしまうとは思いませんでした」
アレクサンデルの口から飛び出したのは、疑惑を肯定する返答。信じられないものを見る面持ちで、アンナは呟く。
「グランクヴィスト卿。わたくし達は敗北し、降伏したのではありませんか。何故そのような真似を…」
「もっと早くにこの技術が評価されれば、負けることなどありませんでしたよ。その為に終戦には間に合いませんでしたが…あれを使えば、東を征服することも夢ではない」
アレクサンデルは静かに断言し、そしてアンナに視線を戻す。
「魔王がまさか、無条件で貴女を解放するとは予想外でした。奥の手を出すことも覚悟していましたが、あの男にとっては居ても居なくても変わらない存在だったのでしょう。貴女が受けていた仕打ちも、容易に想像できると言うものです」
「…わたくしは、」
何事か言い欠けるアンナを片手で制した。言い聞かせるように続ける。
「蔑まれ疎まれ、殺されそうになったのでしょう?けれどもう大丈夫。貴女を大切にしてくれる王国で、一生幸せに生きていける」
彼が視線で示した方向を見れば、こちらを固唾を呑んで見守る西オリアンの侍女や兵士の顔が映った。どの表情も、橋を渡る恩人を見つめる、アレクサンデルの真意とは何の関係もなしに純粋にアンナの身を想うものだった。
アレクサンデルは頭上の太陽を見上げ、切望を口にする。
「そして私は東西を統一し、王になる」
碧い瞳に映るのは底無しの野心。アンナの口からは確信が零れる。
「それが、貴方の狙いですか…」
「これは政争なのです、アンナ様。私に反対する者は多い。けれど国の宝である貴女を救い出せば、瞬く間に国いちばんの英雄だ。そうなればあの花を使った計画も、一気に推し進められる。魔族が治療薬を完成させる前にね」
「……」
「安心してください。貴女を蔑ろにするつもりは微塵もありません。国を救ったお姫様。何をしても構わない。私のことが気に入らなければ、別に男を囲っても良い。子供を作り公務から離れ、一般の女性のように生きても良い。享楽に耽っても、例え民に一生を捧げようとも。望まれるならば、私はもちろん貴女を愛し尽くす」
そこで言葉を切って、アレクサンデルがアンナに視線を戻した。彼女の手を取り、唇を付ける。
「愛していますよアンナ・オングストレーム。私の女神。今度こそ皆から祝福される、世界でいちばん幸せな結婚をしましょう」
向けられたのは確かな愛情。それが我欲にまみれたものであっても、いやだからこそ、この男はアンナに生涯に渡る愛を誓うだろう。
優しい微笑みを浮かべたアレクサンデルに、彼女は静かに口を開いた。
「教えてください。貴方の統治するその世界…魔族の皆様はどうなるのですか」
「…貴女が知る必要はない」
(…愚問でしたね)
その返答にアンナが口を閉じ、伏し目で瞬いた。
魔族を奴等と呼び、彼らの命を危険に晒す花を蒔いた男だ。魔族に対する仕打ちなど目に見えている。
「アンナ様…?」
アンナが足を止めた。アレクサンデルが彼女を振り返る。
「何を…」
「貴方を王にはさせません」
彼女が呟いた言葉は拒否。アレクサンデルはそれに一瞬驚きはしたものの、直ぐに余裕然と背筋を正した。
「…まさか魔族に義理立てしようと?そんな馬鹿な。貴女が誠心誠意尽くしたあの国は、貴女を捨てたのです。聞きましたよ。その肩の傷も、あの男に付けられたものだと」
続けて強く言い切る。
「それに、既に貴女に打てる手はありません」
いくら大衆の人気を集めたところで、オングストレーム家はお飾りの王室だ。政治に関して何の権限もない。対照的に、アンナを無事に連れ戻したと言う外交成果さえあれば、アレクサンデルの地位は確固たるものとなる。
(そう。今さら、貴女に何がーーー)
「わたくしは、東オリアン王国第11代国王エドヴァルドが妻、アンナ・セイデリアです」
風を切り裂くように落ちた声。アレクサンデルが目を見開き、彼女を見た。空中で視線がかち合う。落ち着き払ったその瞳に、ひどく寒気がした。
「嫁いでから今日この日まで、わたくしは民に育てられました」
「…めろ」
小さい女だ。何の力もない、脆弱で世間知らず、ただの人間の小娘。けれどアレクサンデルはずっと、この女の瞳が苦手だった。錆びも曇りも知らぬ、太陽よりも眩しい黄金の瞳。
だからずっと避けてきた。地獄を見れば変わると思っていたのに。
「頭の先から爪先に至るまで、わたくしの全ては民のもの。それが国のためになると言うならば、この命など喜んで差し出しましょう」
アンナの身体が傾いた。その金色が視界から消える。そうして宙に己の全てを預けるように、アンナは橋から身を投げた。
「止めろ!」
我に返ったアレクサンデルが慌てて手を伸ばす。けれどほんの少しも掠りはしない。群青の髪は、まるで滑るように彼の手からすり抜けた。
(貴方の言う通りです)
急速に小さくなっていくアレクサンデルの顔を見ながら、アンナは谷底へ落ちていく。
世界でいちばん不幸な結婚。その衆評に相応しい婚姻だった。誰からも祝福されることもなければ、歓迎さえ受けられない、死と隣り合わせの、幸福とはかけ離れた縁談。
そうして得た夫は、彼女の前では決して優しい男ではなかった。恐ろしげな容姿にぶっきらぼうな態度。人ならざる牙の生えるその口は、愛してるの一声さえも囁くことはなかった。
(それなのに…何故でしょうね)
アンナが目を閉じる。最期、瞼の裏に浮かんだのは、ぞっとするほど恐ろしくて美しい、そして何故か愛情に満ちたエドヴァルドの瞳だった。
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