第8話 墜ちるは、氷雨


「暴走事件は解決したと言って良いだろう」


太陽の光が照らす室内。クリストフェルの淡々とした声が響く。今日も今日とて図書室に居たアンナとヘルガの元に、新聞を持ってきたのだ。


「例の花は研究の為に保管した後、見つけ次第焼却処分するように呼び掛けてある。多少闇市に回ったぶんはあるが…治療薬も近く開発されるだろうとのことだ。取り立てて問題ではない」

「そうですか…」


アンナがほっと息を吐いた。彼女の肩には未だ包帯が巻かれている。そうして次の記事に話が移ったところで、ヘルガがぴくりと反応した。


「……」

「……?」


彼女の眉間に皺が寄る。クリストフェルがその表情に疑問を投げ掛けようとした瞬間、廊下から大きな足音が響いてきた。


「失礼する!」


扉が勢い良く開く。クリストフェルが息を呑んだ。グレーゲルが部下を引き連れ、突如として現れたのだ。


「な…何を…!?」


仰々しい雰囲気に身構える。何せ彼は極度の人間嫌い。目的は間違いなくアンナだ。


(今までの彼の言動からして…何か適当な理由をつけて王妃を殺しに来た可能性も高い…!)


それだけは何とか阻止しなくてはーーーだが思索を巡らせる時間もなく、獅子の魔族は彼女の前までずんずんと歩み寄る。


そうしてグレーゲルは突然、その場に跪いた。


「今までの非礼をどうかお許し願いたい!!」


非常に大きな声が木霊する。座ったアンナよりも目線が低くなるよう、グレーゲルが深く頭を下げた。


「…へっ?」


クリストフェルが間抜けな声を漏らす。突然の奇行にアンナはぱちぱち瞬きをして、ヘルガはベッと唾を吐きかけた。


「このグレーゲル・アウレリウス。人であるから弱いと決めてかかり、貴女の強さにも気付けないとは一生の不覚!」


たてがみに付いたよだれも気にすることなく、彼が吠える。


グレーゲル・アウレリウス。獅子の獣人。その強さから一度は魔王候補として祭り上げられたものの、その本質は仕え人である。ひとたび己が仕えるに値する主だと判断すれば、例え行く先が地獄であろうとも随行する忠義を持つ男であった。


強者か弱者か、その判断材料は明白にして平等。エドヴァルドが暴走状態となったあの瞬間、グレーゲルの本能は悟った。誰も、自分さえほんの微塵も動けなかったあの状況で、唯一、人を守る為に動いたアンナこそ真の強者であると。


「貴女が首を掻き切れと仰るのならばその通りに!だがしかし許されるのではあれば、生涯に渡る忠誠を誓わせて頂きたい!我が主よ!」


より一層深く頭を垂れる。背後でヘルガが「裸踊りをしろって命令しましょう」と耳打ちしていたが、生憎アンナは優しく純粋な妃であった。立ち上がり彼の手を取って、深く頭を下げた。


「こちらこそどうぞ…よろしくお願い致します…!」


そうして裸踊りをすることもなく、グレーゲルは彼女の傍らに立つことを許されたのだ。実はその先にそれ以上の拷問が待ち構えているのだが、それはクリストフェルも知ることはなかった。


(あれには心臓の縮む思いをしたな…)


当時を思い出しながら、げっそりとした表情で息を吐く。クリストフェルの後頭部は、その時のストレスのせいか円く禿げている。

だがしかし仕事中である。息を吐ききり、気を取り直して目の前の主に向き直った。


「事件の際の新聞記事やアウレリウス卿の働きもあり、王妃殿下を支持する声も…少しずつですが、強くなっています」

「…そうか」


エドヴァルドが小さく漏らす。彼が視線を落とす先、執務机の上に広げられた文書を見て、クリストフェルが眉を顰めた。

光沢のある白地に金の模様が施された封書。西オリアンからの手紙に相違ないだろう。


(いつも通り、今後の待遇緩和を求める嘆願書だと思うが…)


「直接陛下宛に寄越すとは不躾な話ですね」


ふうと息を吐く。事件が解決した今、保留になっていた西オリアンの処遇もどうすべきか結論を出さねばならない。

そこまで考えたところで、ふと手元の資料に気が付く。


「あ。そうでした。陛下から頂いた…茶葉の成分分析が終わりました」


資料を提出すると同時に、口頭でも同じ内容を伝える。答えを聞くと、エドヴァルドは一度だけ瞬いた。


「…そうか」


分析の結果は何てことはない内容。一般に広く出回っている薬を、効果を落とさず茶葉へと組み込んだだけだ。

だがそれは、この国にはない技術だった。


「陛下は、あれを一体どこから…?」

「……」


彼の質問にもエドヴァルドは答えない。窓から入る夕焼けの光を浴びて、その深紅の瞳は燃え上がる。そうして一言、誰もが予想だにしなかった言葉を口にした。






「今夜こそ…是が非でもセックスを達成致します…!」


闇に包まれた城。その寝室で、アンナは拳をぐっと握っていた。セックスしたいと言い続けて早5ヶ月。無駄に時間を割いてきた。


しかしながら今夜のアンナは特別である。彼女には秘策があるのだ。


『…アウレリウス卿』

『は。何でしょう』


今日の昼間のことである。誓った忠義に偽りはなく、グレーゲルは業務の隙間を縫っては毎日のようにアンナの元へと来るようになった。ヘルガと睨み合いながらも護衛としてその位置を譲ることはない彼に、アンナは静かに話し掛けた。


『貴方には、奥様が6人ほどいらっしゃると伺いました』


今までになく真剣なアンナの表情に、グレーゲルが息を呑む。


『え、ええ。東オリアンでは複婚が禁じられてはおりませんで』

『そうですか…』


辺りを見回しても、彼女とグレーゲル、そしてヘルガ以外は誰の姿もない。その状況とアンナの表情から、非常に秘匿性が高い案件なのだとグレーゲルは察した。

金色の瞳がじっと彼を見つめる。


『経験豊富な貴方様にずばり教えて頂きたいのです…。夜の営みにおいてその気にさせられる手法とはどのようなものであるかを』

『えっ』


予想外の言葉にぴちりと固まる彼に、アンナは真剣に続けた。


『大事なことなのです。どうかお答え頂けませんか』

『っ…!』


グレーゲルが言葉に詰まる。何せアンナの言っていることを要約すると、お前はどんなセックスアピールをされたらスケベな気分になるか聞かれているのである。答えたくない。心底嫌である。


然りとて今のグレーゲルにとって彼女の命令は絶対。そうまで言われてしまえば断れるわけがない。彼の矜持は激しく抵抗してるとは言え、忠誠を誓う主に嘘をつくなど、出来る筈がなかった。苦渋の選択の後に、何とか口を開く。


『じ、自分は…強引に迫られると、弱いです…』


ひと部隊を預かる団長とは思えないほど弱々しい声が出た。ついでに彼に似合わぬ真実が露呈してしまった。


『強引、ですか…?』


そしてその答えを聞いたアンナと言えば、顎に手を当て何事か考えて始めた。よく分からないが自分の役目は終わった。そう安堵するグレーゲルに、彼女はどんな拷問よりも冷酷非道な台詞を吐いた。


『アウレリウス様が虜となるその強引な攻めとやら…内容を詳しく話してはくださいませんか』


そう、生憎アンナは優しく純粋な妃であった。いっそのこと首を掻き切って欲しいと彼が思っているとは想像もしないほど、彼女はただひたすらに真剣だったのだ。


(気付いたのです…。わたくしに足りなかったのは強引さ!)


その後自身の性癖を事細かく話さなければならなくなったグレーゲルに関しては、ヘルガが心底軽蔑の眼差しを向けていた。だがしかしそんな尊い犠牲の末、アンナは新しい発見を得たのだ。


(アウレリウス様によれば、普段高潔に見える男性ほど、実はその内に被虐欲求を抱えているとのこと…)


それは個人の感想である。あんな凶悪な顔して実は攻めるより攻められる方が好きととんでもない秘密を暴露することになったグレーゲルは、恥ずかしさのあまり死にそうになっていたが、アンナの純粋な探求心の前では些細なことであった。


(今日はほんの少しだけ強引に、陛下をお誘いします…!)


そう心に決めうんうんと頷く。今現在、ベッドに横たわる彼女の目線の先には、今日も今日とてエドヴァルドの背中。


(颯爽とキスして逃げるなど…如何でしょう…!)


自分の動きや立ち回りなどを懸命に予測する。ところが、彼女の作戦が行動に移ることはなかった。


「アンナ」


暗闇にぽつりと落ちた音は聞き慣れた単語、けれど決してそう呼ばれることはなかった人物からの言葉。一拍置いて、彼女の顔が真っ赤に染まった。


(え、エドヴァルド様が、わたくしの名前。呼んで…)


「婚姻の契約を解消する」


時が止まる。何を言われたのか、理解ができなかった。けれど彼女を置いて、振り向きもせずに、エドヴァルドは続けた。


「生まれた国へ帰れ。人の姫」

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