第7話 星を抱いて眠りにつく


「……」


アンナが瞼を開けた時、目に映ったのは見知った天井だった。


(ここは、城の…)


上半身を起こし、室内を見渡す。間違いなく彼女が住居とする東オリアン王国の王城、その一室である。ぼんやり霞む頭で状況を理解しようとして、ふと意識が移る。


「……?」


視線を動かし呆然と手のひらを見つめる。何の変化があるわけでもない、いつもの自分の手。けれどそこに、普段とは違う妙な感触が残っていたのだ。けれど疑問を口にする前に、アンナの元に足音と声が降ってきた。


「アンナ様!目が覚めました?」

「…ヘルガ」


顔を上げ侍女に視線を移した瞬間、ずきりと肩に痛みが走った。その刺激で全てを思い出す。


「わたくし、意識が無くなって…あの後、どうなったのですか…?」

「ああ。エドヴァルド陛下が頭突きした際に飛んできた岩の破片でアンナ様が怪我をされましたけど、その程度なら跡もなく治るそうですよ」

「いえ。わたくしのことよりも、陛下は…」


不安そうに聞くアンナとは裏腹に、ヘルガはひらひら手を振った。


「大丈夫大丈夫!多少血が出て気絶したぐらいです。あの頭突きで暴走もおさまりましたし、今もピンピンされてますよお」

「そうですか…」


アンナがほっと息を吐く。ヘルガから渡された水に口を付けて、ゆるやかに微笑んだ。


「わたくしが進言した提案で事件が起こってしまったとは…アウレリウス様に怒られてしまいますね…」

「いやあ…それはどうでしょうねえ…」

「……?」


言葉を濁す侍女にその真意を聞こうとして、すぐに扉の開く音に掻き消された。


「目が覚めたのか!?」

「ベルマン様」


廊下から、クリストフェルがつかつかと駆け寄ってくる。魔王の秘書官を務める彼を、アンナが瞬きながら覗き込んだ。


「陛下は何事もなく…?」

「先程からその陛下をずっと捜しているんだ!一体何処へ行かれたのか…」

「なんと…」

「まあエドヴァルド陛下だからな。岩への頭突きぐらいでどうにかなる御方ではない。それにしても、人間とは非常に脆いと聞いたぞ。平気なのか?」

「ええ。ご心配をお掛けしました」


アンナが微笑むと肩の力が抜けたのか、クリストフェルがその嘴からはあと息を吐いた。


「例の花だが…やはりあれが暴走の原因と見なして間違いはないだろう。花粉部分が体に入ることで魔力が暴走し凶暴化する。出どころは未だ不明だが…これで焼却なり対応策なり考えられる」


そこで言葉を切って、クリストフェルが新聞を机に置いた。今朝発行されたばかりの、国内でも随一の占有率を誇る銘柄である。


「あの場に居た記者が書いたものだ」

「まあ…有難いことです」


紙面には「人の王妃が事件を紐解く」や「その身を犠牲に陛下の暴走を抑える」などわずかに誇張された事実と好意的な文章が並んでいる。

それを静かに読んでいたアンナが、1文に目を止めた。くすりと笑う。


「“世界でいちばん不幸な結婚をした王妃”とは失礼ですね」

「…まあ、じゃあ何が幸せな結婚かって話ですもんねえ」


ヘルガと目を合わせて笑い合う。するとクリストフェルがぱちぱちと瞬きをした。


「僕が思うに…死ぬ間際に配偶者の顔を思い出すのならば、それは充分幸せな結婚だ」


アンナとヘルガがもう一度顔を見合わせた。互いに目配せをし、動揺を伝える。


「ベルマン様はずいぶん…ロマンチストでいらっしゃいますね…」

「死にかけのジジイみたいなこと言ってますね」

「やっやめろ!僕達の求愛の話はしただろう!あれは時に命さえ落としかねない行為なんだ」


クリストフェル・ベルマン。一夫多妻制も多い魔族の中で珍しく、生涯をかけて一夫一妻制を貫く白頭鷲ハクトウワシの獣人である。未だ見ぬ彼の愛は超重量級だった。


「最期の瞬間まで相手を信じ、命を預け、想い合う。これほどに幸せな結婚などないと僕は思う」


うんうんと頷きながらそう語るクリストフェルに、引いた目を向けるのはヘルガである。


「鳥類ってやっぱ死ぬほど重い…怖…」

「重いとは何だー!貴様のような女がいるから鳥人男性の生涯未婚率は年々上がってきていて」


わちゃわちゃ騒ぎ始めるふたりを置いて、アンナはぼうっと宙を見る。何事か考えながら、独り言のように呟いた。


「幸せな結婚、ですか…」

「…アンナ様はあるんですか?そういう憧れ」


ヘルガが聞くと、アンナが微笑んだ。白い頬が仄かに色付く。


「そうですね…月並みな意見ですが、世界でいちばん好きな殿方と共に暮らし、そうしていつかその方のお子を授かるような…そんな結婚でしょうか」

「む。月並みだな!そのようなことでは相手の真意は分からないぞ!」


やはり命を懸けなくてはと童貞が騒ぐ中、ヘルガだけがぴくりと反応した。廊下に繋がる扉の向こうに、何者かが動いたことを感じ取ったのだ。


「……」


そのまま扉の前にあった気配が消える様を、無言で見送る。視線を戻すと、アンナがぐっと胸の前で拳を握ったところだった。


「例えどんな結婚であれ…まずは陛下とのセックス!セックスです!」


ぶふぅとクリストフェルが水を噴き出す。


「げ、ゲホッ!おい!王妃たるもの発言には気を付けろ!」

「あら…セックスとは男性を癒す魔法であるとお聞きしましたが、違いました?」

「そうじゃない!いきなり、せ、性行為とは雰囲気の欠片も無い!手に触れるとか、接吻とか、そういうところから始めろ!全くこれだから…」

「手…」


ぶつぶつと文句を溢すクリストフェルを置いて、アンナの心には先程の疑問が甦る。

意識を失っていた時、誰かが、自身の手に触れていたような気がしたのだ。決して強く握ることはなかったが、ずいぶん長い間、その体温は意識のない彼女の手のひらに置かれいた。まるで、アンナの心配するように。


「……」

「アンナ様?」


ヘルガに視線を動かすと、比較的人間に近い手が映った。


(違う…)


クリストフェルの羽毛に覆われた手でもない。もっと厚い、革のような感触。意識は無かったとは言え、未だ自身の手に残る感覚に間違いはない。燃えるように熱かったが一部は冷たく、それでいてつるりとした特徴的な。


(一体どなたの、お手だったのでしょう…)






カーテンで閉め切られた寝室。暗闇を照らすのは蝋燭の光のみ。どこか妖艶な雰囲気を纏うそこで、アンナはひとりきりで呟いた。


「先日は酒に溺れ、寝室での記憶を全て無くすと言う醜態を晒しましたが…」


飲んでいた茶器を片付ける。アンナは灯りを持ち、勢い良く立ち上がった。


「陛下はお怪我をされていますし無茶はできません…けれどベルマン様の仰る通り、今日こそ手ぐらいは繋ぎたいところです…!」


あの後アンナはエドヴァルドを見に行った。額に包帯を巻いてはいたものの、通常通りの姿がそこにはあった。ヘルガとクリストフェルの言葉は決して嘘ではなかったのだ。彼の頑丈さに驚きつつ、アンナは思った。


(ならばわたくしも通常通り…いえセックスができていない限り通常も何もないのですが、業務を全うすべきなのです…!)


せめて触れあうところから。そう胸に決意を抱いて、王妃は魔王を待つーーー。






「……」

「……」


数時間後、寝室にはいつもの光景が広がっていた。広いベッドの上で、まるで仕切りでもあるかのように、端と端に寄って横たわるふたりの姿が。つまりは手を繋ぐどころか、有り得ない距離感を保持する新婚夫婦が。


(こ、これでは本当に通常通りになってしまう…)


「え、エドヴァルド陛下…」


その大きな背中を見つめながら、アンナが控えめに声を出す。


「今回はその、申し訳ありませんでした…。陛下を巻き込んでしまった上に、あのように自ら怪我を、負われて…」


わたくしを守る為に、そう続けようとしてアンナは声を飲み込んだ。その言葉を仕舞って、先を続ける。


「…どうぞお大事に、お願いします…」

「……」


(やはり…わたくしの勘違いなのでしょうね)


アンナが伏し目で瞬いた。エドヴァルドに自分を庇う理由はない。彼は自身の魔力に打ち勝っただけなのだ。それが偶然、アンナの命を救っただけに過ぎない。エドヴァルドが彼女の為に無理矢理自身を気絶に追い込んだなどと、幻想なのだと。


「……」

「……」


そして同時刻、エドヴァルドと言えば、恐怖を覚えていた。彼に恐怖心とは似合わないことこの上ない話なのだが、それも致し方ない。

本意ではないとは言え、愛する妻に怪我。怪我を負わせてしまったのだ。彼はいたくショックを受けていた。


(人は脆いと知ってはいたが…まさかあれほど弱いとは…)


ハネル村での暴走中、アンナを前にしたエドヴァルドは間一髪理性を取り戻した。そこで咄嗟に自分を気絶に追い込んだまでは良かった。だがその際に破片のひとつが予想外の方向へ飛び、彼女を傷付けてしまったのだ。


ヘルガに厳重に口止めし、意識のないアンナの手に触れ傍らに居続けた。もう目を開けないのではないか、そう不安に苛まれていると、ヘルガにデカくて邪魔ですと斬り捨てられたのは記憶に新しい。


(今まで…このようなことを、気にしなくとも良かったのだ…)


彼の圧倒的な暴力は皆が皆称賛し、尊敬と畏怖の念を抱くものであった。彼自身、類い稀な才能とたゆまぬ努力の末に掴んだこの強さを誇りに思っている。けれどエドヴァルドが恋の次に持った感情は恐怖。一瞬理性を取り戻し自分自身を止められたから良かったものの、彼が本気になればアンナなど一捻りで死んでしまうのだ。


(こ、怖い…!)


事の重大性に気が付き、小刻みに震え始める。先日酒に酔った勢いでアンナから本音を聞けたまでは順調だったが、こんなことでは行為に至れる筈もない。


「……」

「……」


そんな震える旦那を見ながら、アンナは別のことに気を取られていた。


(エドヴァルド様の…この、手…)


大きく無骨、厚みのある皮膚は人間とは明らかに違う。何よりも鱗、甲を覆う色鮮やかな竜鱗はどんな魔族のそれよりも特徴的である。

アンナの頭の隅で、可能性が光る。自身の手のひらが、ぴくりと震えた。


(まさか…)


有り得ない、そう思って辿り着いた答えを打ち消そうとした瞬間、エドヴァルドから声が投げられた。


「怖い思いをさせた。…すまなかった」


暗がりに落ちた言葉はアンナの身を思うもの。予想外の言葉に驚く彼女を、エドヴァルドは振り返らない。


「……」

「……」


そうして疑惑は疑惑のまま。彼女の中でそれが確信に変わることはない。それでもアンナはほどけるように微笑んだ。


「…いいえ」


結論から言ってしまえば、この日アンナが立てた目標は叶わなかった。手や素肌に触れることもなく、今日も今日とて大きな背中を瞳に映して、時が過ぎるのを待つだけだ。


代わりに、その胸に小さな幸せを抱いて眠りに落ちる。今夜もやっぱり、セックスはできない。

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