第6話 自信のない言語ほど大声で
東オリアン王国。国内でも最西端に位置する西オーバリの森。未だ手付かずの自然が残るその場所には、魔族の中でも特に自然由来の生き物が多く暮らしている。
「ここハネル村には、1時間ほどの滞在予定です」
クリストフェルが声を投げ掛けると、エドヴァルドの赤い瞳がこちらを捉えた。
「念の為陛下には、こちらでは一切の飲食を控えていただき、水も王城にて用意したものをお召し上がりくださいますようよろしくお願い致します」
「…分かった」
地の底から響くような、厚みのある声音。全身から王者の貫禄を漂わせた主に深く礼をした後、クリストフェルはテントから出た。
「我らの地に陛下直々にお越し頂けるとは…」
「本当に見事な竜鱗でいらした…」
外に出ると膝を付き並ぶ、背の低い民間人の姿。ハネル村の住人、ノームの魔族である。共通語がいくつか漏れ聞こえた後、独自の言語へと切り替わった。何を言っているのかここでは通訳にしか理解できないが、皆一様に感嘆のため息を漏らしている。中には涙を流す者もいた。
それを見ながら、クリストフェルは冷静に思考を巡らせる。
(これならば…しばらくは“持つ”。陛下が被害のあった土地に確かに来訪したと、国中に広める為に記者も呼んだ)
西地区を中心に発生している魔族の暴走事件。ここに居る者は皆被害者である。この村からは誰ひとりとして、暴走者になった者は出て居ない。
(原因も感染経路も不明だが…細心の注意を払っている上、陛下がいらっしゃるのもごく短時間。問題が起こることはないだろう)
それでも万一の危険を冒してまで行った遠征の見返りは大きい。西区の民を国は見捨ててはいない、そう思わせるには十分な施策だ。
そう確信を得たところで、ふとクリストフェルが気付いた。
「……?王妃殿下は何処に…?」
今回の遠征には当然、王妃であり立案者でもあるアンナも来ている。人間の彼女に今回の遠征に関して価値はない為に注意が疎かになっていたが、あの小さな影が見当たらない。彼が辺りを見回していると、テント脇に控えるグレーゲルが顔を上げた。
「村人と交流を持とうとしていたが、人の王妃を相手にする者などいない。子供と話しておったわ」
「警護は付けていますか?」
「魔族もどきの山羊女が付いている」
「な…。侍女のヘルガのみとは…王妃の警護にしては無警戒すぎやしませんか」
彼の忠告にも、グレーゲルは鼻を鳴らしただけだった。
「あのような人の王妃、死んだところで私には関係がない。ベルマン。貴様とて都合が良いだろう。陛下の思し召しは不明だが…あの娘が居なくなれば、陛下が人間に肩入れしている等と国民から疑惑を持たれることも無くなる」
「……」
『例え人間であろうとも、今のわたくしは魔族の王妃。民の生活を守る責務があります』
黙ってしまったクリストフェルの脳裏に過るのは、アンナの言葉。彼は知っている。その役目を全うしようと自身を懸ける彼女の努力を。今回の件とて、決して気まぐれや道楽で口にした意見ではない。
(…だが、これが現実だ)
それでも、クリストフェルの口が庇い立てを行うことはなかった。グレーゲルに諌言すれば、途端に目の敵にされる未来は目に見えている。アンナがいくら民を思おうとも、それが返ってくることはないのだ。
「ホダラッ!ミーニャエルゴ!!」
さて、そんな悲しき王妃は、難解極まる言語を大声で叫んでいた。大きく腕を振り、必死の形相である。
「オ゛ンッ!」
言い終わると同時に、思い切り足を一歩踏み出した。はあはあ肩で息をする。すると周りで大人しく座って話を聞いていた子供達の表情が、ぱあっと輝いた。
「すごいっすねアンナ様」
森の奥へと進みながら、ヘルガが感心した声を出した。
「ノームの言語は魔族でも話せる者はそう居ないですよ」
「いいえ、本で勉強した程度の知識ですから、発音など中々難しくて。結局は身ぶり手振りでした。喜んで貰えて良かったです」
その隣でアンナはハンカチで額の汗を拭う。ただ単に会話するだけならばあれほど大仰に叫ぶ必要は無かったのではと思われるかもしれないが、彼女の信条は「自信のない言語こそ大声で」なので仕方がない。
「ところでどこへ向かってるんです?」
さくさくと草を踏み分け先行するアンナに、ヘルガが声を掛けた。彼女がしっかりとした足取りで向かう先は村の外れ。遠征団の仮の拠点からは反対の方向である。
「子供達の話の中に、彼らの秘密基地…水場の近くの洞窟にて見たことのない野花が生えていた、と言うお話があったのです。事件の手掛かりになればと」
「花…?でも花なんかで魔族が暴走するなんて聞いたことがありませんよ」
「ええ。だからこそです。わたくしごときが調査しなくとも、有り得る可能性は既に皆様が追究していらっしゃる筈ですわ。有り得ない可能性を辿ることが、わたくしにできる唯一の手です」
どちらにしろ村に居たところで、肩書きだけの王妃には何の役割もない。自分達特有の言語を理解されたことが嬉しかったのか、村の子供達は秘密だと言ってその場所を教えてくれた。
「ここですね…」
木の根本にできた小さな空洞。川の水が流れる音が聞こえる。
そこでアンナは、目的のものを見つけた。影に数輪纏まって生える、背の低い植物。花弁は鮮やかな黄に色付いている。ふたりに反応し、とまっていた蜂が飛んでいった。
「花だ…」
「花ですね…確かに見たことがありません」
様子を観察するアンナをよそに、ヘルガが1輪手に取った。花を鼻に近付ける。
「強い香りはありますが…特に変わったところは…っ!?」
直ぐ様呼吸を止め、花を遠ざけた。口元を抑えうずくまる。
「…ヘルガ?」
アンナが突然座り込んだ彼女を見て、息を呑んだ。
ヘルガの肌はぶわりと毛が逆立っている。長く天に垂直に伸びる角が、ミシリと音を立てた。何よりもその目。普段は横一文字に引かれた黒い瞳孔が、大きく広がっている。まるで、捕食者のそれのような。
「ヘルガ!」
「だ、大丈夫です…。この、粉…っ!」
「…?花粉ですか?」
震える腕で差し出された花の中央、橙色のかたまりを見て、アンナが眉根を寄せた。
「こ、ここから離れましょう」
息も絶え絶えのヘルガを肩で支え、川の傍へ連れていく。大木の根本に来たところで、ふたりで腰を下ろした。
「たぶん…暴走も、あの花粉が、原因です…」
ヘルガが背後の幹に寄り掛かる。息は整ったが、その瞳はまだ野性的な光を帯びている。彼女の汗を拭いながら、アンナは静かに口を開く。
「仮にあの花が原因だとしたら…何故すぐ近くのハネル村の方は平気なのでしょう」
「…魔力に反応するのかも」
「魔力ですか…?」
「ええ。ノームは精霊です。魔族と言うよりも自然そのものに近い。だから発症しなかったのかもしれません」
ヘルガがはあと息を吐く。まさに理性がなくなると言う言葉がぴったりの現象だった。花粉が鼻の粘膜に吸着した一瞬、彼女の心を支配したのは強力な破壊衝動。
「私は魔力が少ない…魔族の中でも人間寄りだったから、まだ抑えられた。けれどあれを、魔物としての血が濃い者が吸ったら…」
何かに気付いたように息を呑むと同時に、村の方向から悲鳴が上がった。
「何だ…!?」
グレーゲルが警戒したように剣を鞘から抜く。
(この、感覚は…)
視界を阻むように煙が立ち、ピリピリと空気が震える。
1匹の蜂が、テントの中に迷い込んだのだ。攻撃的ではない花蜂。更にエドヴァルドの分厚い皮膚をその小さな針が通すこともないので、適当に追い出せと部下に命令をしてすぐのことだった。
突然内部からテントが破壊された。突如として響き渡った轟音に何が起こったのか分からないまま、村人が逃げて行く。
「……」
立ったままその場所を睨み付ける。目の前にはひしゃげた鉄の部品に、破れた厚い布。こんな芸当が出来る者を、彼は1人しか知らない。
そうして煙の中から姿を現したエドヴァルドを見て一瞬で、グレーゲルは決断を下した。
「無礼は承知!全責任は私が持つ!全力であの方を止めろ!」
自身の部下に命令を飛ばす。幾多の試練を越えてきた彼らの結束は厚い。例え主君であろうとも、上司の命に迷うことなく剣を抜きエドヴァルドを取り囲んだ。
ところが幾多の兵士を前にしても、怯む素振りも暴れる様子も見せず、彼は平然と立っている。
「 」
ただ、たった一声、吼えた。
咆哮が行き渡った瞬間、場の空気は引っくり返された。ぞわりと粟立つ肌は全身を巡り、その恐怖で呼吸さえもままならず、数人が意識を失って倒れた。
何の特殊な力でもない。ただ勝てるわけがないと、相手に悟らせる。これこそがエドヴァルドが絶対的王者である所以。前に立つ者全ての戦意を喪失させる程の、抗いようのない圧倒的な暴力。
「っ…!」
グレーゲルが片膝を付いた。
(動、けん…!まさか、これほどだったとは…)
事態を全て飲み込んだ訳ではないが、グレーゲルは主君の暴走状態だけは理解していた。思考を取り払った純粋な力は予想外に強く、立つことすら儘ならない。
その間にもエドヴァルドは、彼に真っ直ぐに歩み寄る。理性を失った瞳は、炎のように赤く燃え盛っていた。
(もはや、ここまでか…)
グレーゲルが瞼を閉じる。心中が諦念で染まったその瞬間、切り裂くような声が差した。
「エドヴァルド陛下!!」
群青の髪に金色の瞳。グレーゲルの視界に、アンナの姿が映る。小柄で華奢な彼女の姿は、決して闘争欲を掻き立てるものではない。けれどエドヴァルドの興味は、彼女に移った。
「……」
「っ…!」
圧倒的な力を持つ獣が近付いて来る間、アンナは目を逸らすこともできなかった。咄嗟に叫んだは良いが、あまりにも急な出来事だ。当然策も何も用意はしていない。退がった背中に、巨大な岩が当たる。
「アンナ様ッ!!逃げて!!」
ここに来る途中、エドヴァルドの咆哮に当てられ、動けなくなったヘルガの叫び声が耳に届く。それでも彼を前にして逃げたところで無駄だと、彼女の本能が言っている。
「へ、陛下…」
「……」
呼び掛けに応じるように、深紅の瞳がゆらりと動く。けれど目の前の敵を屠らんとする火は消えてはいない。
その巨躯が片足を半歩下げて、拳を作る緩慢な動作を、アンナはただ見ていることしかできなかった。そうしてエドヴァルドは、その巨大な拳をアンナへと振り下ろした。
瞬間、響き渡る轟音に、飛び散る鮮血。
「へ、陛下…」
アンナが呆然と声を漏らす。あれほどの音だったにも関わらず、自身の体、そのどこにも異常はない。肩にわずかな痛みが走ったが、それも無視できる程度のものだった。
拳が当たる瞬間、エドヴァルドが方向を変え、自身の額をアンナの背後にあった岩へと打ち付けたのだ。
「エド…ヴァルド陛下…」
呆然とするアンナの前で、岩はがらがらと崩れていく。力の限り硬い岩に打ち付けた額からは血が流れ、エドヴァルドの体が地面に倒れ込んだ。
「陛下!」
「アンナ様!」
動けるようになった者達が駆け寄ってくる。背中からヘルガに支えられて、アンナの心が緩んだ。思い出したように肩に痛みが走る。
「アンナ様!」
「……」
そうして糸が切れるように、ふっと意識を失った。
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