第114話カワイイ俺のカワイイ突撃②

 そんな。まってくれ。

 こんな、急なものなのか?

 いや、"予兆"はあった。俺は気づいていた。彼女の変化も、いつか訪れるれるであろう"今"も。

 気づいていて、何もしなかった。


(――ちがう)


 認めたくなかったんだ、俺は。

 口では物わかりのいい"恋人"として振舞って、ただ、受け入れたくなかっただけだった。


 ――あつい。

 部屋の温度は変わっていないはずなのに、首から上があつくて、頭がガンガンする。

 なのにつま先は妙に冷えていて、奪われるように、温度が抜け落ちていく。


「ゆうちゃん、怒った……?」

「っ! いえ、怒っては……」


 俺の異変を怒りと捉えたのだろう。

 悲痛に眉根を寄せる彼女に"そうではない"と伝えたいのだが、喉が細まったように苦しくて、言葉が出てこない。

 焦りと、これから向き合わなければならない現実への嫌悪が混じる。

 背に浮かんだ汗が、つうと流れた。


「――ゆうちゃん」


 決意を帯びた瞳が逃げ出したい俺を射貫いて、緊張に強張った声が、俺の思考を捕らえる。


「……座って、くれる?」


 ――もう、逃げられない。


 両手で胸元を握りしめたのは、無意識。

 俺は薄く呼吸を繰り返して、その場で足を折った。

 身体が鉛のように重い。

 いっそ、このまま真横のベッドにもたれかかってしまえば、少しは思考に割く余力が生まれるのかもしれない。けれど。


(んなかっこ悪いこと、出来るか)


 少しでも"チャンス"を手放したくない俺は、弱気な自身を叱咤して、必死に背を立て続ける。


「……話って、なんですか」

「……ゆうちゃんに、聞きたいことがあって」


 彼女はすうと息を吸い込むと、


「私は、ゆうちゃんの"恋人"?」

「…………え?」

「ゆうちゃんは、どんな"恋人"が好き?」

「なっ、え」

「ゆうちゃんがずっと一緒にいたいって思うのは、どんな相手?」

「まっ、ちょっと、どうしたんですかなつきさ――」

「ゆうちゃんはっ」


 見たことのない、切羽詰まった表情で、彼女が下唇を噛む。


(――俺は、ホントに馬鹿だな)


 もう間もなく別れを告げられるであろう場面で、彼女の泣き出しそうに潤んだ瞳が、綺麗だ――なんて。


「――ゆうちゃんは、誰の"恋人"だと、幸せ……?」

「…………っ」


 この質問の意図は、彼女の表情が意味することは。

 だめだ、頭がうまく回らない。

 なつきさんは、俺になんと言わせたいのだろう。

 互いの仕事のこともある。別れるにしたって、後腐れなく円滑に決着をつけたいはずだ。

 敏い彼女なら、俺には未練が残っていると、わかっているだろうし。


(……ここで俺に"なつきさんの恋人でいたい"って言わせて、でも自分はちっとも幸せじゃなかったって暴露するつもりか?)


 この"恋人"関係は、俺の一方的な独りよがりだったと。

 俺の求める"恋人"は、自分ではないと。

 そう、これまでの苦痛を訴えて、俺の未練を"幻想"だと、根こそぎ断ち切る算段なのだろうか。


「……おれ、は」


 なつきさんを好きなのだと。その隣を諦められないのだと、言いたい。

 けれどこの俺の想いこそが、彼女を苦しめる足枷になっているのだとしたら?


 ――いやだ。


 彼女をこれ以上縛り続けるのも、彼女自身の口から、俺のこれまでが"過ち"だったと告げられるのも。

 怖くて、情けなく歯噛みする俺に、なつきさんが視線を落とした。


「……やっぱり、言えないんだね」

「――え?」


 それは、まさに一瞬。

 至近距離で流れた黒い髪と、認識できないほど近い、彼女の肌。

 唇に触れた感触は柔くも強引で、それが彼女の、自分と同じ場所だったのだと。

 離れていく睫毛に、行為を理解した。


 ――キスを、された。


「――っ!?」


 沸騰する顔面。思わず両手を口元に――やろうとたが、叶わなかった。

 両の手首はいつの間にか、それぞれが彼女につかまり、背にしていたベッドマットの側面に押し付けられている。


(か、かべ、ドン……っ!?)


 いやこれは壁じゃなくてベッドだからベッドドンか……って、そうじゃないっ!!


(まってくれちょっと本気にかおが近い……っ)


「な、なつきさ……っ」

「――すき」

「っ!」


 ぽそりと落とされた単語に、喉がつまる。


「ごめん、ごめんね。でも、私は、ゆうちゃんがすき」


 眼前の、俯きがちだった顔が上がる。

 俺を見据えるのは、泣き出しそうな、苦しそうな。

 それでいて欲と想いが溢れた――彼女"らしくない"、感情に覆われた眼。


「こんなの、ゆうちゃんには迷惑だって……全然かっこよくないって、わかってる。でも」

「な、なつきさん?」

「ねえ、ゆうちゃんは、どんな言葉がほしい? 何をあげたら、私を信用してくれる? ゆうちゃんが望むのなら、なんだってしてみせる。だから――」


 手首の拘束を解いた両手が、そっと俺の首後ろに回された。

 縋るようにして、彼女の顔が肩口に押し込められる。

 頬に当たる柔らかな髪の感触が――なんだか少し、懐かしい。


「……ごめん。ゆうちゃんには幸せでいてほしいのに……どうしても、手放したくない」

「…………っ」


 囁きが、俺の脳髄に響いて、思考回路をぐわんぐわんと揺らす。

 だってなつきさんはいつだって大人で、こんな、熱烈なまでに感情を露わにすることはほとんどない。

 手放したくないと。俺を、好きだと。

 最愛の人に、望んだ言葉以上に求めらえて、冷静でいられるわけがない。

 俺は衝動に抱きしめ返そうと腕をあげ、寸前でとめた。


(……っ、ダメだ。このままじゃ、なつきさんを余計に傷つける)


 膨らんだ疑念が、暴走しかけた俺の理性を繋ぎとめる。

 この雰囲気を利用すれば、もう一度その唇を、今度はその熱を知るまで奪うことも可能だろうけど。

 なにか大きな誤解に痛めているであろう彼女の心の傷に、つけいるような真似はしたくない。


(そもそも、なんでこんな事態に?)


 なつきさんの、こんなに必死な姿を前にして、これまでの言葉が嘘だなんて思えない。

 トシキさんに心移り……という疑念は、完全に俺の杞憂きゆうだったということになる。

 それはそれは、心から喜ばしいのだけれど。


(――"手放したく"ない、だなんて)


 まるで、俺が解放を望んでいるかのような。


「……なつきさん」


 出来るだけ優しくその名を呼んで、左手をその背に、右手を彼女の後頭部に移した。

 久しい感触を確かめながら、宥めるようにして柔く撫でると、彼女が恐る恐る視線を上げる。

 俺はどこか怯え混じりな双眸を、上目がちに見上げて、


「なにか、思い違いをしてませんか?」

「……思い違い?」

「俺の恋人はなつきさんです。ずっと一緒にいてほしいのも、"恋人"で幸せだと思えるのも、なつきさんただ一人です」

「……でも、私じゃ、ゆうちゃんと不安にさせてばっかりで」

「それは……」

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