第82話カワイイ俺のカワイイ進捗⑤

「そーゆー事だったのね……」


 納得、というよりは呆れたように呟いた吉野さんは、未だ扉前のカイさんを見遣りながら、


「それくらい教えてくれてもいいのに。適当にはぐらかすんだから」


(はぐらかす?)


 もしかして、言わないほうが良かったのだろうか。

 微かな疑問と焦燥に眉根を寄せた瞬間、カイさんの双眸がこちらに向いた。

 ギクリと揺れた肩は二つ。そんな俺達とは対照的な瞳が細まると、吉野さんは誤魔化すように空笑いを浮かべた。


 話が纏まったのか、通話を終えたカイさんが、スマートフォンを片手に綺麗な足取りで向かってくる。

 別に、やましいことはない。筈なんだけど……その迫力に、なぜか鼓動が速まる。


「……なんの話しをしてたの? 里織」


(圧のある笑顔もかっこよ……じゃなくて怖い!)


 綺麗な人の、温度の低い笑みは二重の意味で心臓に悪い。

 ニッコリと微笑んだカイさんに、吉野さんは、


「み、水の注ぎ足しついでに美味しかったかどうか訊いてただけよ! ねえユウちゃん!?」

「え!? あ、ハイ! いつも美味しいですっ」


(あ、しまった)


 つられるように返してしまってから、これではカイさんに"嘘"をついてしまったのだと気づく。

 が、世話になっている吉野さんを庇ってあげたい気持ちもあるし……なにより、「もうキスをしたのか、心配されていました」なんて告げるワケにもいかない。


 乗りかかった船だ。腹をくくって、疑惑の目を向けてくるカイさんに、本当に何でもないのだと笑んでみせる。

 多分、鋭いカイさんは"何かを隠している"とは気付いているだろうけど……。


「……ユウちゃんがそう言うなら」


 ほらね。結局は俺に、甘いのだ。


 結局、それ以降カイさんがその話題に触れることはなく。

 帰り道。俺達が並んで歩く店から駅までの道のりは、裏通りのため人も少ない。

 まだ黒には届かない藍色に染まった視界の中、そっと隣を伺うと、その人の背景では表通りの光源が輝いている。


「まだ、夜でも暑いね」

「秋らしくなってくるのは、もう少し先ですかね」


 歩く速度はのんびりと。だって俺の靴はヒールだから、なんてバレバレの言い訳を脳内で紡ぎながら、名残惜しい数分を噛みしめるように進んでいく。

 歩いても歩いても、木霊する蝉の声。僅かな街路樹も逃さまいとしているのだろうか。

 もう数週間もすれば、この音は秋を待ち望む鈴の音に変わるだろう。


 その時もこうして、俺達は同じ景色を見ている筈だ。なんだか不思議な心地で、隣を歩く横顔を盗み見る。

 湿気のせいか、筋肉の弛緩動作ゆえか。いつも涼し気なその人の肌は常よりしっとりと艶めいていて、それがなんだか通う熱を思わせ、滲む色香に目を奪われる。


 鼓膜に映るこの彼女はこの季節限定なのだと思うと、煩わしい熱気も心から許せる。

 前方を見据え、何気なく髪を流す指先に気を取られた次の瞬間、夢心地の思考がふつりと途切れた。


(……あ)


 薄く開いた唇。きっと無意識のまま、体内の熱を逃したのだろう。

 吉野さんの言葉が耳奥で再生される。胸中に湧き出た居た堪れなさから逃げるように、張り付いていた視線を外した。


(……"キス"、かあ)


 俺だって、考えた事がないワケではない。

 大好きな大好きな"恋人"なのだ。触れたいと思うのは、自然な欲求だろう。

 ただ――。

 俺は息を潜めて、これまでも何度かそうしたように、"その瞬間"を思い浮かべる。


『……ユウちゃん』


 緊張に揺れる声。俺だけを閉じ込めていた甘い瞳が、決意を帯びた強い光を携える。


『……目、閉じて』


 囁くような懇願は、その先へ誘う魔法のように。俺はただ素直に瞼を閉じるのだ。

 叶う事ならば、近づいてくる愛しいその人の顔を、もっと眺めていたかったと残念に思いながら――。


(――って、だからそうじゃなくて!!)


 都合のいい妄想を引き剥がして、またやってしまったと痛む額を抑える。

 つまり、こういう事なのだ。

 俺のイメージする彼女との"キス"はどうにも俺が受け手なうえに、若干……いや、かなり"夢見がち"になってしまう。


 なんというか、いまいち現実味がないのだ。

 この"俺"と、あの"彼女"が、キスをするという未来が。


 だってやっと想いを通わせたばかりで……というのは実のところ建前で、本音を言うと、ずっと引っかかっていることがある。

 そしておそらく"それ"が、俺の妄想を構築する原因の一角を担っている。


(……ちゃんと"好き"って言ってもらったこと、無いしなあ)


 互いの気持ちが通じ合ったあの時、彼女は"好き"というモノがよくわからないと言っていた。

 けれどもその後に紡がれた感情は情熱的ともとれる熱烈な好意で、だからこそ付き合う事になったのだし、ネックレスの件しかり、未だに俺を"特別"としてくれているのだと疑う余地はない。

 ……それでも。


(俺も随分と欲張りになったもんだ)


 たった二文字。

 その二文字を彼女の口から、彼女の声で聞きたい。

 既に"幸せ"を手にしたが故の、自分勝手で、強欲な願望。


(カイさんは、どう思ってるんだろ)


 俺と、"そういうコト"を出来る関係性にあると、認識しているのだろうか。

 それとも、今のように互いを大切に大切に想い合う関係を続けていければ、それだけで満足なのか。

 ――むしろ、そうでありたい、なんて。


「……ユウちゃん」

「っ、はい」


 思考の深淵から引き上げられ、動揺に返事が遅れた。

 しまった、と慌ててカイさんを見遣ると、彼女は難しい顔をして、足を止めた。


「? カイさん?」

「……さっきは言い方が悪くて誤解させちゃったみたいだけど、"私"もね、ユウちゃんに少しでも会いたいって思っちゃうから。……だから、バイトの後でも平気だよなんて"我儘"で、ユウちゃんを留めちゃってるんだけど」

「!? そんなこ……っ」


 紡ごうとした否定を飲み込んだのは、開いた唇にそっと人差し指が触れたからだ。

 誰のなんて考えるまでもなく。理解した心臓が、別の体温を拾って沸騰する。

 混乱に動けないでいる俺の眼前。綺麗なその人の眉間が、ぐっと歪に寄った。


「……"無理"だけはしないで。心も、身体も。ユウちゃんは優しいから、つい甘え過ぎちゃって……心配になる」


 いや、優しいのはカイさんではとか、いつ甘えられたんだとか。

 脳裏にはいくつか駆け抜けていったが、それよりも不安気な彼女の表情が強く焼き付いて、申し訳なさに心が痛む。

 先程の俺のぼんやりを、バイト後による疲労だと捉えたのだろう。

 俺のせいで、余計な罪悪感を与えてしまった。


 後悔に少しだけ視線を落とした俺は、再び彼女をしっかり見据えてから、「……はい」と笑みを浮かべた。

 きっと"大丈夫"ではまた、不安を与えるだけだから。


(……本当は、駄目だけど)


 小さな一歩で彼女へと距離を詰め、秘めやかに伸ばした右手で、彼女の指先を握り込めた。

 微かに跳ねた肩。戸惑いの眼を振り切るように、俺は指先に力を込める。

 身体の奥底から膨れ上がる吐き出しそうな程の"好き"が、この繋がった先から流れ込んでいけばいいのに。


「……ちゃんと、"無理"な時は無理って言いますから。心配しないでください」

「……そっか。……うん、約束ね」


 そう頷いた彼女の笑みに残る微かな陰りの理由は、知らずとも夏の紫暗と共に明け行くと思っていた。

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