第80話カワイイ俺のカワイイ進捗③

 高く澄んだ空が鮮やかな夕焼けから群青色に変わる中、シフトを終えた俺は急ぎ足でデジタルサイネージの煌めく街へと飛び出した。

 主張しすぎない縦ストライプ柄のワンピースは、夏らしい華やかなパステルイエロー。

 白いローヒールのサンダルは歩きやすく、細いストラップがお気に入りだ。


 可愛らしい刺繍が施された小型バックと手提げを揺らしながら辿り着いたのは、もはや馴染み深い"お決まりの店"。

 今すぐ店内に踏み込みたい気持ちをグッと押さえつけ、扉前で歩を止めた俺は、腹底から静かに息を吐き出しながら視線を落とす。

 身なりの最終チェックだ。


(――よし)


 掴んだ木製の取っ手を引くと、カランと鳴る鈴の音。

 一歩を踏み込んだ瞬間に心地よい冷気が全身を包み、肌にまとわりついていた熱気が剥がれていく。目に飛び込んできたきた観葉植物の緑が、なんとも水々しい。


 注文に向かう途中だったのか、オーダー用紙を片手に「いらっしゃいませ!」と発した人は俺の姿をみとめるなり、「あ、いつもんとこね!」と右ホールを指差した。

 後頭部で結い上げられた茶色のポニーテールが揺れる。


「おつかれさま、ユウちゃん! お水すぐいくわね!」

「ありがとうございます、吉野さん」


 夏バテを感じさせない朗らかな笑顔が眩しい。

 左ホールへと向かっていく吉野さんに会釈して、俺は目的の席へと足を向けた。


 右ホール、壁際の一番奥。

 すっかり指定席と化してしまったそこには、柔らかくセットされた俺より短い黒髪の後頭部。

 長い首筋を支える伸びた背は、目に優しいペールブルーのカットソーを纏っている。


 自然と頬が緩んでしまうのは仕方ないだろう。小刻みになる自身の足音を自覚しながら、近寄った俺はその人の肩越しから顔を覗きこむ。


「カーイさん、お待たせしました」

「っ」


 驚いたように瞠目した双眸が、俺を捉えるとすぐに柔らかく緩み、


「おつかれさま、ユウちゃん」


 心地よい響きで労われ、笑みを返した俺は「お待たせしてスミマセンでした」と対面のソファーへ腰掛けた。

 店の"エスコート"ではないのだからと、荷物の受け渡しは止めるよう最初のデートでお願いした。

 カトラリーの受け渡しは未だにしてくれるが、それはもはや癖なのだという。


 俺の言葉に「ううん」と首を振ったカイさんは、手にしていた本を閉じた。

 サイズからして、文庫本だろうか。表紙は書店名の書かれた紙製のカバーに覆われていて、作品名はわからない。


「何の本です?」


 俺の知る限り、こうして本を読んでいる姿は見たことがない。

 珍しいな、と思いつつ訊ねると、カイさんは「ああ、これ?」と鞄にしまう手を止めて、


「なんか、最近話題らしくてね。拓さんが参考にって貸してくれて」


(参考……? ああ、なるほど。"エスコート"にか)


 カイさん達の仕事は、理想の"イケメン"を演じる必要がある。

 飽きられない為にもその時々の流行りを知り、必要ならば取り入れていく必要があるのだろう。


「ってコトは、恋愛モノなんですね」

「うん、当たり」

「内容、訊いてもいいです?」

「えーとね、漫画やアニメが好きな女子高校生って設定の女の子が主人公で、二つ上の"イケメン"生徒会長に恋する、すれ違い系のお話しみたい。女の子はその生徒会長くんが好きなキャラと雰囲気が似てるって理由で気になり出すんだけど、初めはそれだけで、恋愛感情は持って無くて。でも実は、小さい時に公園で助けてあげた過去があってね。生徒会長くんはその女の子を見て気づいたからアプローチを始めるんだけど、女の子は全然思い出せないから混乱するだけだし……ってのが、今のところ読んだ範囲。まだね、ちょっとしか読めてないんだ」


 カイさんが栞の挟んだ箇所を見せながら「ほら」と苦笑する。確かに、残りの厚みから推測するに、まだまだ序盤といった所だ。

 内容としてはありきたりのように感じるが、わざわざ拓さんが貸してくるというコトは、それなりに勉強になるのだろう。

 主に男性キャラの振舞いが。


「……最後は二人がくっついて、ハッピーエンドってトコですかね」


 この手の流れならきっと着地点はそこだ。

 案の定、カイさんは首肯しながら、


「そうだと思うよ。拓さんは読んでのお楽しみって言ってたけど、帯にそれっぽいこと書いてあったから」


 クスクスと笑む顔から察するに、恐らくカイさんは帯の文面に気付いたことを口にはしなかったのだろう。

 愉しげに勿体ぶる先輩をガッカリさせまいと、素直に頷いて受け取ったのだ。


 今度こそ本を鞄にしまいながら、「それにしても、久しぶりにこういった縦書きの文字を見ると、時間がかかるね」とカイさん。

 そういえば最後にこうした本を読んだのはいつだったかと記憶を辿りながら、「何かしらちゃんとした目的がないと、一冊読み終えられる気がしないです」と俺は答える。


「あ、ごめんね。せっかくわざわざ時間作ってもらったのに、こんな話し」

「っ」


 その言い方じゃまるで、カイさんが一方的に俺を呼び出したみたいじゃないか。

 一瞬だけ言葉を詰まらせた俺は、ちょっとだけ拗ねたように唇を尖らせる。演技ではなく、本気の不満を乗せて。


「……本のコトを訊いたのは俺ですし、少しでも会いたいから、我儘言ってカイさんに出てきてもらったんです」


 カイさんの今日のシフトは昼過ぎまでだ。もし俺と付き合っていなければ、貴重な余暇を休養に当てるでも、私用を入れるでも、自身の好きに使えただろう。

 つまり、どちらかと言えば、謝るべきは俺なのだ。なのにどうしてそんな簡単な方程式すら、すっ飛ばしてしまうのか。


 理由は単純。どうにもこの人は、俺に対して優しすぎる。

 とはいえ、そんな所も好ましく思えるからと、強く指摘できない俺も俺だが。

 カイさんはちょっと面食らったように目を丸くした。次いで微かな照れを滲ませながら、ふわりと相好を崩し、


「……嬉しい」

「!」


 この、この人の感情に率直な言葉と表情の、破壊力が半端じゃない。

 かわいいとか格好いいとか綺麗だとかたまらないだとか。湧き出る感嘆をツラツラと脳裏に流しながら、俺は急いでメニュー表を手にして眼前に立てた。


 情けなくも真っ赤だろう頬を隠そうとしたのだが、小さな砦は無情にも、細い指先によって瞬時に破られる。

 パタリと倒されたメニュー表。開かれた視界の向こう側には、なんともご満悦げな笑み。


「何食べようね。この間はパスタにしたから、今日はドリアにしようかな」

「……俺の顔にメニューは書いてませんよ」

「ユウちゃんは今日も可愛いね」


 呼吸をするように甘言を紡ぐ唇の下で、銀色のチェーンが揺れた。波のように象られたモチーフの中央には、クリアブルーのアクアマリン。俺が贈ったあのネックレスだ。

 俺との"デート"の時は必ず身に付けてくれているのだと気付いた時、「気を使わなくていい」と言った事がある。

 するとカイさんは緩く首を振り、


『本当に、気に入ってるから。流石に仕事中は外さないとだけどね』


 光る波を大切そうに指で撫でたカイさんに、俺はそれ以上の口出しは止めた。というか、無理だ。感謝しかできない。

 だってカイさんはこのネックレスを常に持ち歩き、仕事の都度外しては、また着けてくれているのだ。

 そんな手間を何でもないと微笑んでくれる事実が、なんともこそばゆい。

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