イスの記憶
そのイスは、変哲のないただのイスだった。
そのように、彼はそうなるように、作られた。
ただ、座るという行為のために作られた。
彼を作った家具職人が、ただ座るためにデザインし、彼を作り、そして彼を使った。
そのイスに座った家具職人は、次々と大作を世に送り出した。
彼の後に彼無しと言わしめるほど、その家具職人は有名となった。
イスにとって、家具職人に座ってもらうことが幸せだったのだろう。
なぜなら、そう作られたからだ。
しかし、家具職人は彼を頑丈に作りすぎた。
家具職人は生涯現役として働き、様々な家具を作りだし、世界の宝ともてはやされ、そして、彼の上で死んだ。
その家具職人が愛用したイスとして、彼は家具職人を称える美術館に展示された。
頑丈すぎて、彼が壊れることは無かった。
展示は何十年に及び、彼に座るものはいなかった。
彼が作られた目的から外された家具だということは明白だ。
彼は、イスとしてではなく、ただの展示物としてその長い長い時間を、家具職人と過ごした時間よりも長い時間を、美術館で過ごした。
その時だった。
一人の女の子が、彼に座った。
文字がまだわからないほどに幼い少女は、彼に寄り添い、そして、よじ登り、座った。
足をぶらぶらさせて、少女は自分の身長よりも高い世界を見て、こう言った。
「君ってすごいね」
その後、彼女は親に怒られ、美術館を後にした。
その一時だけ、彼はイスに戻った。そして、また十数年の時が流れた。
このまま展示物として、いつしか忘れられ、自分も朽ちて行くのだろう。いつかは分からない。彼はそう思っていた。
「これをくださらない?」
いつしか聞いた声が、彼に届いた。
彼に重さがかかる。その久しぶりの重さに、彼の体が軋む。懐かしい響きだ。
「イスは座ってこそのイスなのに、展示物として朽ち果てるなんてもったいないわ。それに、君だって座られたいでしょう?」
懐かしい、君という言葉に、彼はギィ、と答えた。
かつて少女だった女性は、にっこりと笑った。
彼女は、家具デザイナーとして有名になっていた。
彼は彼女から聞いた。
彼女がデザイナーになったきっかけは、幼い頃、君に座ったからだと。
懐かしい、彼は感じた。彼女に少しだけ、彼を作った家具職人の面影を感じた。
彼女は展示物として消費した彼の時間を埋めるように、座り続けた。修理もメンテナンスも行い、座り続けた。
彼女も家具職人と同じようにもてはやされ、家具職人の再来と言われた。
そして彼女もまた、彼の上で死んだ。
やはり、彼は頑丈に作られすぎたのだった。そして、その頑丈さは、彼女によってまた強固になった。
二大巨匠が愛したイスとして、彼はさらに高いクラスの扱いを受けるようになった。
それは、また展示物として存在するということだった。
長い、長い時間をガラス板で仕切られた展示室で、彼は思った。
また誰か、座ってくれるだろうか、と。
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