第40話 高校生空手道選手権大会2
昼休みが終わり、三回戦目が始まった。
晴は二回戦と同じく体重判定で引き分け、再延長にもつれ込んだ。疲れのせいか受けの精度が下がり始めたのが原因だったが、足を痛めた相手の衰えはそれ以上だったようでそこにつけこんだローキックが効いて辛くも勝利を収めた。文子、葉月はともに判定負け。絵理は初めて有効打を放つことができなかったが、気勢が評価されて判定勝ち。涼の右足は軸足にも蹴り足にもできない状態らしく踏ん張ることさえ難しそうだったが、体格差のおかげか延長戦の末に気勢で判定勝ちを得た。しかし、彼女は終始歯を食いしばり脂汗をにじませていた。待ち時間の正座がそれに拍車をかけているのだろう。最終戦を迎える前に限界が訪れるのでは、と皆が不安になった。延長戦をしている余裕はあまりなさそうだ、と晴は戦いかたを改める必要を感じた。
最終戦は真奈美率いる川西高校だった。互いに負けなし。勝ったほうが県大会に出場する権利が与えられる試合となった。
「晴、大丈夫ですか?」
文子は晴を心配する。晴は呼吸の乱れを悟られまいと押さえ込んでいたが、文子にはわかってしまったらしく、心配そうに晴の顔を覗き込んでいた。さきの試合で受け損ない、受けたダメージも大きい。
「あと一回くらいなら平気でしょ。幸い、今までと違ってパワーファイターってわけでもなさそうだし」
「舐めてたら痛い目見るわよ」
あの子、負けなしなんだから、と絵理は美優の成績を告げる。晴が苦戦してきた相手に勝利を収めてきたということは、実力差はほぼ同じか、美優のほうが上だろう。
「舐めてないって。ただ、約束だからね」
晴はちらと葉月を見るが、葉月は不安で頷くこともできず、晴を見つめるだけだった。
「覚えてない?」
晴はいつものように葉月を愛おしげに見やって笑い、それから対戦相手に目を移して表情を引き締めた。たとえ葉月が覚えていなくとも、約束を違えることはできない。
「じゃあ、行ってくるわ」
コートの中央に立ち、向かい合った相手は西園美優。今大会最小最軽量の選手。元・いじめられっ子。
「構えて」
乱れを見せない小さな体が取った構えは絵理と同じく左拳がやや低い。晴はそこに絵理の面影を見たが、それ以上に彼女を驚かせたのは西園の目だった。震えることのない瞳で晴を見据えていた。彼女の一挙手一投足すべてを見逃さないといわんばかりの八方目。だというのにぎらぎらと輝くわけでもなく、水を打ったような静けさ。絵理と対峙したときよりも不気味に見えるのは、ただ相手を知らないだけだからだと思いたかった。
「始めッ」
先に動いたのは西園。これまでの試合を見ていたならば、絶対に出さないだろう右ミドル。速く正確ではあったが、綺麗過ぎるが故に捉えやすい。晴は右掌底で膝頭を捉えようと手を伸ばす。刹那、西園の足は軌道を変えて晴の足に落ちた。
「――ッ!」
いままで受けたどの蹴りよりも軽い。けれど鋭く、虚を突かれた晴は刃物で刺されたと錯覚するような痛みを覚えて前かがみになる。西園の足は元の位置に戻らず、晴の足元に着地し、すぐさま跳ね上がるように上段を蹴った。ガード。引きずりそうになる足を無理やりあげて後ろに下がる。
西園の右ロー。晴のストッピング。しかし、西園は晴の底足が自身の足に触れる前にぴたりと蹴りを止めた。空振りした勢いを殺せなかった足が着地する前に軸足を蹴られる。鞭のようにしなるその蹴りは骨や筋肉よりも皮膚に対する痛みが大きい。顔をしかめた晴は右ミドルを放つ。西園は一歩踏み込んで晴の膝よりも内側に入った。掌底で受けはしなかったが、晴がいままでしてきたような受けを自然とする形になる。西園の右ストレート。尻餅をつく晴。膝が伸びきる前に転倒し、足を痛めることはなかった。しかし、攻撃中というもっとも防御がおろそかになる瞬間、鳩尾を突かれた。当身の五要素がすべて揃った突き。晴が自覚したとき、すでに横隔膜はせり上がって呼吸を阻害した。顔の表面が冷たくなっていくのが分かる。早く立たなくては……。
「やめッ」
審判が割り込み、試合を止めた。晴に立つように促したが、気持ちが焦るばかりで体は動かなかった。腹の痛みが行動を妨げる。異変に気がついた審判が膝をつき、安否を尋ねた。晴はそれに頷いて平気であることを示し、裂くような痛みを堪えて収縮した腹筋を伸ばす。立ち上がることに五秒を要した。
「一本!」
「……え?」
女子部の一本の条件。それは、反則箇所を除いて、突き・蹴り・肘打ちなどを瞬間的に決め、相手に効果的なダメージを与えた場合、とある。男子の部でも三秒以内に立たなければ一本とされる。しかし、晴は立ち上がるまでに五秒以上もかけてしまった。それが審判に、有効打があったと認識されてしまったのだった。晴と西園は試合場の中央に戻される。
「赤、正拳中段突きによる一本。勝者赤」
「ちょっ……待っ」
「晴ッ!」
晴が審判に抗議しようとしたとき、絵理が大声でそれを止めた。晴が振り返ると、絵理は目を伏せて頭を振った。
晴は呆然とし、声も出せず十字を切る腕もおぼつかなかった。西園は握手をしようと近づいたが、晴のようすを見て躊躇い、結局手を取ることなく試合場を去った。晴は審判に促されてようやく自陣に向かう。そのときには涙が止まらず、嗚咽を漏らしていた。
「晴……」
「あんたは試合に行きなさい」
「は、はい」
文子は見たことのない涙に動揺したのか、コートに向かう足が震えていた。
「まずいわね。負け犬ムードじゃない」
「ごめん……。ごめんなさい。もう負けないって約束したのに……」
「約束……?」
晴は頭を振り、なにも言わなかった。葉月が晴の背に手を添えて慰めようとしたとき、突然肩を引かれて勢いよく振り返らされた。
「葉月、あんたが勝つのよ」
葉月はあまりにも責任の重いことばに戸惑った。
「はっきり言うわ。文子はもう勝てない。アタシたちが次に進むためには、あんたが勝つしかないの」
「でも私、今日一回も勝ってないし……」
「知ってるわ。だからなに? だからつぎも勝てないの?」
「でも」
「でもじゃない。あんたまで負け犬ムードに飲まれないで。勝てなかったらつぎ勝てばいいの。あんたのつぎっていつ?」
葉月は激しく頭を振った。それでも無理だ、と。
「あんたなんのために空手やってんの? 負けるため?」
「エリー。そんなに追い詰めんなよ。あたしたちはここまでだったってだけだ」
涼が絵理の肩を掴んで止めようとするが、絵理はそれを振り払った。
「あんたは黙ってて! なに? 先輩に勝てない言い訳のつもり? 馬鹿みたいに怪我したものね!」
「そんなつもりじゃないさ」
「アタシは嫌よ。絶対に負けない」
「エリー」
副審に睨まれ、涼は声を荒げる絵理を落ち着かせようとする。
「なんで、なんで勝てないのよッ。あんた、悔しくないの? 晴が泣いてるのに。アタシたちの仲間が泣いてるのに。たかが強いだけのやつらに屈するの?」
晴が泣いているのに。葉月は後ろで泣いている晴を見る。辛そうな晴を見たとき、いままではただ無力感に苛まれていただけだった。しかし、今は手を伸ばせば届く距離に晴がいる。彼女のため、葉月にしかできないことがある。
「……やだ」
「なに?」
「負けたくないよ。私だって、負けたくない」
葉月は絵理の手をどけて晴に寄り添い、彼女を抱きしめた。
「ごめんね、私のせいで。約束、守ろうとしてくれてたんだね。思い出したよ」
剣道大会の後。晴が葉月のために交わした約束。
「大丈夫。つぎは、私が負けないから」
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