第39話 負傷
開始早々、涼は右ローを放った。相手は一瞬遅く脚を上げる。それは判断が遅れたのではなかった。涼が打ち下ろした脛は相手の膝にぶつかり、鈍い音を立てた。涼の足を壊そうという相手の戦略。気がついたときには手遅れだった。涼が顔をしかめた瞬間、相手はにやりと笑う。これで涼の足はもう使えない、と勝利を確信したのだろう。涼は生まれた虚を逃さない。彼女はその足を着地させたあとすぐさま同じ足で相手の上段を蹴った。痛めたはずの脛で。相手はスネ受けのためにやや下がっていたガードを上げることもできず首の重い一撃をくらい、膝から崩れ落ちた。すぐに主審が止めに入り、相手となにかやり取りをしていた。副審はふたり、涼の一本を示すように白旗を挙げている。やがて主審は立ち上がり、ダメだといわんばかりに手を軽く振った。涼の勝利が宣言される。
涼は十字を切って、何事もないように歩いて自陣に戻ってきた。
「涼……」
葉月が心配そうに腰を上げた瞬間、絵理がそれを押さえ込んで頭を振った。
「ダメよ」
「でも!」
「悟られたらつけ込まれるの。……平気よね?」
涼は笑って肩をすくめた。
アナウンスが響き、午前の試合が終わったことを告げた。
「控え室には戻れそうもないわね。とりあえず、人気のないところに行きましょうか」
涼は絵理の提案に頷く。
「フミ、アタシのカバンに冷却スプレーとか入ってるから、カバンごと持ってきて」
頷く文子の表情には焦りが浮かんでいた。
「慌てないで、お昼ご飯でも買いに行くみたいに落ち着いてね」
「心得ています」
文子と晴はやや足早に三人と別れ、控え室に向かった。
「肩は貸さないわよ」
葉月と絵理、涼はほかの選手たちが戻るのを待ち、地下に降りて控え室とは反対方向の職員用の出入り口付近に隠れた。ここには過去の栄光としてだれかが持ち帰ったトロフィー群があるだけで、ほとんど人が来ることはなかった。絵理は出入り口に鍵が掛かっていることを確かめる。
「足、見せなさい」
「平気だよ。よくあることだ」
「いいからッ」
涼がため息をついて裾をめくり、サポーターを外すと脛はやや広い範囲が青黒くなって腫れていた。葉月は鼻骨骨折した自分を思い出す。あのときの鼻と同じ色をしている。
「いっ、痛くないの?」
「痛いさ。けど、折れちゃいないよ」
「最悪。……鍛えかた足りないんじゃない?」
「エリー!」
怪我人にそんな言いかた、と葉月が言おうとすると、絵理は手振りで彼女を黙らせた。
「あんまり無防備だったからさ。狙ってたとは思わなかったんだよ」
通路の曲がり角からばたばたと走る足音が聞こえ、文子と晴がカバンを持って現れた。
「ごめん、川西の部長さんにバレたかも」
そう言う晴の顔には疲労の色が滲んでいた。
「いきなり話しかけてくるんだもん。『涼はどうした』って」
「言ったの?」
「誤魔化しましたが、やたらと素直に解放してくれました。私たちの試合はほかより長引いていましたし、見られていたのかもしれません」
かもね、と絵理はカバンをあさり、冷却スプレーと湿布を取り出した。患部から距離を取ってスプレーを噴きつける。
「棄権したほうがよくない?」
晴の意見に葉月も同意したが、当の本人がそれを拒否した。
「でも……」
「たかがヒビよ。骨折した足で大会に出て勝った人だっているんだから」
顎が砕けても戦った人もいたわね、と絵理は手を動かしながら付け加える。
「それって男の人の話でしょ?」
「空手家の話よ」
「添え木とかいる?」
葉月は代用品を探して辺りを見回す。
「サポーターの上からテープ巻いて固定する。バレたら失格だもの。あと、晴はゼリー食べて休みなさい。あの戦いかたじゃあと二回もたないわよ」
絵理はカバンから自分の食事であるゼリー飲料を取り出した。体脂肪を燃焼させて持久戦を戦い抜く、とキャッチフレーズが書かれたシールがついていた。
「仕方ないでしょ。最初から攻めて勝てるほど経験値ないんだから。……薬臭いわね、このゼリー」
絵理は涼の患部に湿布を貼ってサポーターをつけさせ、テーピングテープを巻いた。
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