第34話 理想の空手家
葉月は脱衣場で服を脱いでいるとき、脇腹をくすぐられる感触に身をすくめた。横を見ると裸眼の文子が葉月の脇腹から肋骨にかけて指を這わせている。
「浮き出ていた肋骨、ずいぶんと薄くなりましたね。よい傾向です」
練習を休んでいた間に太ったのかな、と葉月は自分の腹に触れた。体重計が目につき、乗ってみると春の身体測定時よりも五キロほど増加していた。
「おそらく筋肉がついたのでしょう」
後ろから計りを覗き込んでいた文子が言う。
「もとより葉月は脂肪分が少なすぎます」
食生活に関するお説教が始まった、と葉月は逃げるように下着を外して浴場に向かう。
シャワーを浴びて冷えた体を温めていると、川に落ちたときに絡みついたのか、木屑が流れていった。丹念に手櫛で髪を梳く。その途中、ようやく追いついた文子が彼女の隣に座り、長い三つ編みを解いた。もしかしたらそのなかから魚が落ちてきはしないか、と葉月は期待するが、魚どころか木屑ひとつ落ちてこない。日が高い時間のせいか、もともと客が少ないところなのか、浴室は葉月たちしかおらずシャワーの水音だけが響く。
「今日の寝床ってさ、あのテントなのかな」
「まさか。近くに民宿がありましたし、予約くらいしているでしょう」
どうだろ、と葉月は首をかしげる。涼なら野営を選びそうだ。
「覚悟しといたほうがいいかも」
文子は洗い終えた髪を頭の上でまとめ、ゴムで留める。
並んで湯船に浸かるふたりはしばらく無言で天井を見上げていた。
「すこし熱いですね」
「そう?」
彼女たちは、四二度以上の熱め、三九度前後のぬるめ、水風呂と温度によって分けられている三つの浴槽のうち、ぬるめの浴槽にいた。なにか言いたいことがあるのだろうと思いつつ、言いよどんでいるあたり自分からその話をするべきだろう、と葉月は天井から文子に視線を移す。
「なんで、エリーとあんなことしたの?」
文子は脳震盪まで起こし、本来であれば救急車を呼んでもいいはずだった。それほどの怪我を負ってまで、なぜ勝てないとわかっている戦いに挑んだのか。葉月はそれが知りたかった。そもそも空手に反対していた文子がなぜこっそりと自主練習に励んでいたのかも気になる。
「私は……」
文子は膝を抱え、そこに顔をうずめた。
「私は晴やエリーのように幼いころからあなたとともにいたわけではありません」
ましてや部長のように、葉月から尊敬されるような能力もない、と文子は呟いた。文子と知り合ったとき、晴と葉月は互いに遠慮があった。次の年、葉月は母が男の家に引っ越す話を聞かされて傷つき、ふさぎ込んだ。
「私はそんなあなたを支えることで己の存在価値を高めようとしていたのです」
だから、葉月が強くなってしまえば自分は不要になってしまう。それが怖くて、葉月が空手をすることに反対していたのだ、と話す文子の声は震えていた。
「それは私の弱さゆえ。私は葉月と対等になりたかった」
それが空手を始めた理由です。葉月は初めて、文子の本心を聞いた気がした。いつも毅然として模範的であろうとする文子の弱み。彼女もやはりなにか見えないものと戦っていたのだ。
「エリーとの試合は私自身の戦いでした。ですから、私には感謝される資格がない」
あなたの弱みにつけこんだ卑怯者なのです、と文子はとうとう涙を流してしまう。葉月はそれを見ないように目を瞑る。
「ひどいね、フミは」
「すみません……」
それでも、葉月は文子を怒れなかった。はたして、ただ卑怯なだけの人間があれほどまで絵理と戦い続けることができるだろうか。なにより、いまこうして悩みを打ち明け、本音で語る彼女を拒絶することがどうしてできようか。
「でも、嬉しかったんだ」
目を赤くした文子は顔を上げて不思議そうに葉月を見ていた。葉月はなにが嬉しかったのかを説明するつもりはなく、彼女に微笑みかけて手をつなぐ。多くを語らないほうが正しいように思えたから。
葉月と文子が銭湯から帰ってきたとき、晴と涼はジャージに着替え、着々とバーベキューの準備を整えていた。しかし、そこに絵理の姿がない。
「ランニング続けてる。課題がなんとかって」
どうせ包丁も使えないんだし、いなくても困らないけど、と晴は止めていた手を再び動かし始める。葉月も隣に並んで晴を手伝った。
「課題ってなんだろ」
「さあね」
わざわざ弱みを見せるような子じゃないし、と晴は喋りながらも葉月に仕事の指示を出す。
「足だろうなぁ」
涼は玉ねぎを厚めに輪切りながら口を挟む。息を止めているせいか声がやや上ずっていた。葉月が首をかしげていると、彼女は包丁を止めて顔を上げた。
「理想の空手家に必要なものってわかるか?」
この話には晴も文子も手を止め、涼を見やった。三人ともその問いに対する答えを出そうと頭をひねる。まず口を開いたのは晴だった。
「筋力と技術かしら」
うんうん、と涼は頷く。いくら技を持っていても、筋力がなければ相手は倒せない。逆に筋力だけで技がなくてもいいのであれば、最強の人類はボディービルダーということになってしまう。しかし、現実はそうなっていない。両方を兼ね備えてこそ、強くあれるのではないか、と晴は話した。次いで回答した文子は晴の意見より一歩進んだものだった。
「一撃必殺、ではないでしょうか」
敵より先に攻撃し、その一撃でもって相手を倒す。静物ではなく、動いたり守ったりする人間を相手にそれをするには技術も力も必要である。
「たしかに、ふたりの意見は的を射てるよ」
とくに一撃必殺なんて空手の極地。出来れば最高だ、と涼は言う。しかし、ふたりの答えは彼女の問いには合わなかったらしい。涼は葉月を見やる。
「相手を倒すこと……かな」
空手はひとりでは成り立たない。相手がいてこそである、と教わったことを葉月は思い出していた。いかに技術、力があろうと、それが相手を倒すために振るわれなければ鍛える意味がないのでは、と思ったのだ。涼は満足げだったが、三人とも不正解のようだった。正解は、と文子が尋ねる。単純なことだ、と涼は笑った。
「倒れないことさ」
空手は立ってするもんだ。倒れなければ寝技をかけられることもないし、投げられもしないし、負けもしない。倒れる前に倒す。それが空手。
ほう、と葉月は感心していたが、晴も文子もやや呆れているようだった。
「根性論ですか」
「倒れないから空手家なんだよ」
けれど、と涼は続けた。
「エリーは倒れちまったよな」
さきの闘いで絵理は文子に足を取られ、転ばされてしまった。結果的に勝利したとはいえ、そのせいで絞め技を許してしまった。
「しかし、あれはそういうふうにできています」
むしろ転ばないほうがおかしい、と文子は絵理をかばう。実力不足などではなく、転んで当たり前の方法を使ったのだ、と。
「けど、エリーはそうは思ってない」
理屈じゃないんだ、と涼も苦笑いだった。空手家を名乗りながら、倒されてしまったことが彼女のプライドをどれほど傷つけたことだろう。表には出さずとも、彼女はきっと思い悩んだに違いない。そのようすが葉月にはありありと想像できた。
「だから走るの?」
涼は頷いた。根性だけじゃなく、強靭な足腰、バランス感覚。倒れないために必要なものは精神的なものだけではない。
「スクワットしたほうがいいんじゃない?」
筋力をつけたいならランニングよりも、と晴のことばに、涼はにやりと笑って靴を示した。
「だからこれなんだよ」
そう言って涼はゴム底についていた三つの円に刻まれた一文字に爪を立ててひねると、ネジのようにすこしずつその身を露わにした。涼は取り出したボルト状の棒を葉月に渡す。それは手で持つぶんには軽いが、見た目以上に重量があった。
「重り?」
「ウエイトシューズなんだ」
むかしで言う鉄下駄だな、と言われるが、葉月にはその絵が浮かんでこなかった。
「この靴、重さが調整できるんだよ」
青が一番重くて、その次が黄、軽いのが赤。
「あいつはこの間買ったばっかだから、まだ最重量にするには筋力が足りないんだな」
自分は全部赤にしても重いだろうな、と葉月は思う。思えば涼はいつもこの靴だった。常日頃から鍛錬しているからこそ、彼女は力強いのか、と涼の強さの一端を垣間見た気になった。しかし、この筒だけだと涼にとっては軽すぎるのでは、と首をひねる。
「ああ、だから中敷も重りにしてんだよ」
涼は葉月から返されたボルトを靴に戻す。
「片方、どれくらいなのですか?」
靴に触れた手で食材を切られてはたまらない、と思ったのか、文子は包丁を取って涼からまな板前の場所を奪った。
「ざっくり二キロってとこかな」
涼はピースサインを作る。これはほぼ三キロあるのを誤魔化しているぞ、と葉月は思う。
「エリーはエリーで強くなりたいんだろうな」
葉月からしてみれば絵理の強さはいまでも充分に思えた。強さを希求する彼女の原動力はなんなのだろう。
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