第32話 弱者の矜持
備品のサポーターを身につけ、眼鏡を外した文子は畳の中央で絵理と対峙する。
「時間はどうする?」
公式は一分半だったが、文子の体力では一分ももたないだろうことは明白だった。絵理の、格下にできる最大限の気遣いだったのだろう。しかし、文子はそれを蹴った。
「無制限で構いません。どちらかが音を上げるまで」
「へえ。根性あるじゃない」
見直したわ、と絵理は驚きに目を見開く。そんなに熱血漢だったかしら、と首をかしげる。
「普段であれば、こんな無駄なことはいたしません」
いまはそれしか方法がないのです、と首を振る文子。
「相変わらず、何考えてんのかわかんないやつね」
「逃げ出してしまう前に始めましょうか」
「誰が逃げるって?」
絵理は眉間にシワを寄せた。
「私が、ですよ」
隙あらば裸足で飛び出していきそうです、と玄関を振り返り、震える足を隠さなかった。
絵理が目配せすると、主審役の涼はため息をついた。
「時間無制限、か。怪我だけはさせんなよ」
「それはこいつ次第」
涼は肩をすくめる。今回の勝負に有効打による判定勝ちはない。主審は勝負ありと判断したときにふたりの間に割り込む以上の仕事はしないように言われていた。葉月も晴も副審としてではなく、観戦者として勝負の行方を見守る。
相手を睨み、組手構えになる二人。文子は基本に忠実な組手構え。絵理は自分のスタイルにあわせた、左拳が低い位置にある構え。
「始めッ」
絵理は一気に間合いを詰め、ワン・ツー・スリー、右ロー、左ハイのコンビネーション。文子はそのすべてを綺麗にさばいた。
「へえ、やるじゃない」
「基本的なパターンは頭に入っています」
なにがくるか予想できれば防御することはたやすい。経験が浅い文子の武器は知識しかなかった。それを最大限利用している。
「畳水練ね」
そう言い、絵理は右足を持ち上げる。文子のスネ受け。しかし、絵理はそのまま蹴りを打たなかった。蹴ってこない? ふたりは片足立ちのまま膠着した。バランスを崩した文子が足を下ろした刹那、着地と同時に絵理は文子の左足に下段廻し蹴りを叩き込んだ。最も力が抜けていた瞬間だった。文子は左足が踏ん張れず、流れるように崩れ落ちた。
「理論? 理屈? 基本的なパターン? 空手舐めんじゃないわよ」絵理は転んだ文子を見下ろし、鼻を鳴らす。
「体に教えてあげる。知識だけじゃどうにもならないってことをね」
文子はできることならば、もうここで降参してしまいたかった。しかし、絵理を見上げて歯を食いしばり、立ち上がった。痛みが引いていない左足は震えながら、懸命に彼女の体を支えようとする。
「次、右ミドルを蹴るからちゃんと受けなさいよ」
「……なんのつもりですか」
「予想しても無駄ってこと」
いくわよ、と絵理は二度跳躍し、右中段廻し蹴りを放った。文子は左腕を体に沿わせ、右手を添えて蹴りに備えた。予言通り絵理は中段廻し蹴りを蹴り、文子はそれを防いだ。しかし、絵理の脛はまるで蹴るべき的が文子の体の向こう側にあるかのような勢いで彼女の肘にぶつかる。肘は絵理の蹴りによって内部に押し込まれ、守るべき文子の脇腹に肘打ちを食らわせてダメージを与えた。
「くる技がわかってたら、防ぐのは簡単じゃなかったの?」
文子は腹の痛みに耐えるようにやや前傾姿勢になっていた。これだけで耐え難いほど痛い。直接蹴られたらどうなってしまうのだろう、と尻込みしてしまう。痛みを甘く考えていた。
「どうしたの? そんなへっぴり腰じゃ勝てないわよ?」
絵理が左手のひらを上に向けて挑発すると、文子は歯ぎしりし、絵理に向かう。絵理は文子の突きをかわし、反撃の左下突き。右ストレートを予想していた文子はタイミングが合わず、水月にパンチを食らう。右アッパー。絵理は文子のガードの上から殴った。
「ガードの上からでも、なんて力技は涼のやりかたよね。やめやめ」
もっとアタシらしくやらせてもらうわ、と絵理は二度軽く跳躍し、構えを直した。距離を詰め、低めの右ミドル。文子は同じ轍を踏まぬようにガードする。その腕に絵理の足が触れる直前、突如として絵理の足は跳ね上がるように軌道を変えてガラ空きだった文子の顔を蹴った。文子の顔は弾けたように勢いよく右を向く。絵理はそれ以上攻めず、一歩下がった。
「予想が、なんですって?」
絵理はからかうように笑う。文子は切れた口の端から滲んだ血を拭い、冷めた目で絵理を見やった。
「なぜ、最後まで攻めないのですか? いまのは好機だったと思いますが」
「言われなくても、ねッ!」
絵理は一瞬で距離を詰めて不規則なリズムでパンチを三〇発打ち、痛みで満足に持ち上がらない文子の左足にローキックを五発、左ミドルで肝臓を狙い、崩れ落ちる文子の頭にローキックのように叩き落とす上段廻し蹴りを打った。倒れた文子は起き上がろうとするが、震える手が体を支えることさえ許さない。絵理は彼女が置きあがるのを待つことなく距離を詰め、文子の顔面に向かって足を振り上げた。
「アタシの流派、これで一本取れるのよね」
「上等です」
文子はそう言って絵理を睨むが、顔面を踏み抜こうと勢いよく落ちてくる踵を防ぐ術がなかった。
泣きそうな顔で試合を見ている葉月が見えた。葉月にとって、自分は数いる友達の中のひとりでしかないのかもしれない。しかし、文子にとってはそうではなかった。ひとりぼっちだった自分に手を差し伸べてくれた人。
(あなたは、そのていどのことで、と思うことでしょう)
文子にとっては、そのていどのことでよかった。誰にでも優しく、誰からもちやほやとされる王子様のような人が、目の前にいたからという気まぐれな理由で助けてくれることよりも、無力なはずの葉月が多数派の意見を無視してでも自分を選んでくれた。たったそれだけのことで、ここまで闘える。動かなかった腕が動く。文子は迫り来る絵理の踵を片手で受けて横に流し、軸に対して斜め下から力を加えた。
「!」
絵理の驚きに見開かれた目を見ている場合ではない。同時に軸足をすくいとる。軸のぶれた絵理の体は容易く傾き、肩から畳に落ちるように倒れた。文子は馬乗りになるべく体を起こして彼女に迫るが、させまいと腰を浮かせた絵理がさきにガードポジションを確保した。足の間に文子の体を挟み込み、動かせないようにする。それでも文子の腕は、小柄な体躯の絵理になんとか届いた。突込絞め。文子は絵理の両襟を取り、頚動脈を絞めた。柔道の絞め技だった。
「ぎっ……」
表情を歪める絵理。
「おい!」
反則だ、と涼が文子を引き剥がそうとした。
「触んじゃ……ないわよ……っ」
それを止めたのは絵理だった。涼は口端から涎を垂らしながらも闘争心を失わない絵理に気圧されたのか、文子から手を引いた。
「対柔道……もっとしとくべき、だったわ……」
その声は悔恨というより、まるで文子を心配しているかのようだった。文子を捉えていた足が外れる。文子は手を緩めようとした瞬間、顎に重みを感じ、跳ね上がる。手が勝手に離れ、後ろに倒れてようやく気づく。顎を蹴られた。意識を失って拘束が解けたのではなく、蹴るためにあえて解いたのだ。絵理は立ち上がって咳込む。そして、文子にトドメを刺しにきた。文子は起き上がれなかった。怖い。絵理が怖い。喉を絞められてなお諦めない絵理が怖い。顎を蹴り抜かれて立てなくなった相手にまだ追撃しようとする絵理が怖い。けれど、絵理はいつだったか言っていた。恐怖を克服することが空手なのだ、と。戦うということは怖いということ。そして、そこから逃げないということ。だとしたら、怯えているところを葉月に見せるわけにはいかない。震える手をつき、上体を起こす。口の中に血の味が広がる。脳が揺れ、景色がぼやける。絵理がふたりに見える。遠くにいる葉月が大きく見える。しかし、それだけは錯覚ではなかった。
「フミ!」
葉月はふたりの間に割り込むように、文子を守るように彼女に覆いかぶさった。
「どきなさい」
絵理は冷たく言い放つ。葉月は頭を振り、文子を強く抱きしめる。
「なんでこんなことするの? 空手が危険だって言ったのはフミなのに」
「危ないことは嫌いです」
だったら、と泣いている葉月の頬に、文子は手を添える。
「けど、あなたが苦しんでいるところを見ているだけなのはもっと嫌なのです」
葉月が空手を辞めたいというのならば、文子はそれを止めない。しかし、そうでないというのなら。
「一緒に越えましょう。怖いという気持ち」
文子は葉月の腕を押しやり、立ち上がった。
「さあ、私はまだ負けていませんよ、エリー」
「フミ……もう、だめだよ……」
葉月は自分の願いを聞き入れてくれない文子から視線を外して振り返る。
「晴……。フミを止めて!」
晴は葉月の懇願に頭を振るだけだった。
「わたしには止められない。止められるのは葉月。あんただけよ」
試合場ではすでに闘いが始まっている。一歩前に踏み出し、さきに攻撃したのは文子だった。左ストレート。しかし、足は踏ん張りがきかず、腹の痛みを抱え、頭がふらついていた彼女のパンチは力がなく、拳を掴むことさえ容易にできそうだった。それでも絵理は、その突きが当たれば命を奪われるとでも言わんばかりに右手で文子の拳を下方に打ち落とした。そして、空いた上段に廻し蹴りを放つ。破裂音。重みはなく速度を重視した蹴りだったが、文子には踏み留まる力さえ残っておらず再び倒れる。絵理は構えを解かず、文子を見下ろした。
「立ちなさい、フミ。まだ終わってないわ」
「もう、ダメだよ」
立ち上がろうとしていた文子と絵理の間に、葉月が割って入った。絵理は鋭く葉月を睨んだ。
「どきなさい、葉月。また邪魔をするなら、あんたでも容赦しないわよ」
「構わないよ。つぎは私が、相手になる」
葉月は力強く絵理を睨み返し、組手構えになった。その拳はまだ震えが収まっていない。
「葉月……?」
「強くなりたい。私も」
「……いいじゃない」
絵理は構え直し、後ろに下がって畳の中央に立った。そして、葉月を挑発するように手招きする。葉月は一気に距離を詰める。間合いが詰まった瞬間、絵理は素早い右ハイキックを放った。葉月は思わず瞑ってしまいそうになる目を見開き、自らその足に突っ込んで勢いの弱い膝付近にガードをぶつけて蹴りを防いだ。受け止めた足が離れたとき、葉月は絵理の水月に左ストレートを打ち込んだ。絵理はバランスを崩して転びそうになったが、二歩下がってなんとか持ち直してにやりと笑った。
「顔面殴られてビビってたやつとは思えないわね」
「もう、怖くないよ」
葉月は震える体のまま闘い続ける。
「その割には、まだ震えてるように見えるけど?」
葉月の技をさばいた絵理は膝蹴り、インロー、右フック、左ミドル、右ハイと加減なく反撃する。葉月が劣勢。しかし、互いに一歩も引かない攻防。練習ということも忘れているのか、互いに本気で勝ちにいこうとしていたふたりは組手の最中であるにもかかわらず自然と口角が上がっており、どこか楽しそうだった。一瞬の沈黙。葉月は息を切らし、構えを直した。彼女の懐を深く取った構えは堂に入っており、その体はもう震えていなかった。
葉月が立つこともままならない状態になっても絵理は乱れた呼吸を悟られないよう静かに息を吸い、構えを解かずにいた。二戦の死闘を繰り広げたとは思えない余裕。
「エリー、強いね」
畳に倒れた葉月は仰向けになり、絵理を見上げた。
「あんたはまだまだ、これから強くなるのよ」
絵理は葉月のそばに座り込む。葉月が素手で組手をしたせいで攻撃を受け止めた絵理の腕は赤くなっていた。
うーん、と涼は難しげな表情で首をひねる。
「なによ。バカみたいに」
絵理は気だるそうに涼を見上げる。
「いや、団体戦もエントリーしようかなってね」
「部員足りないんでしょ」と絵理は呆れたように言った。
葉月は涼のことばに勢いよく上体を起こした。
「フミ、入部してくれるの?」
「え? しねーの? ここまで盛り上がったのに?」
キックミットを枕にして道場の隅で寝転がり、晴のアイシングを受けていた文子は空手部部員の視線を一身に受ける。
「……そうですね。そばで見ていたほうが安心ですから」
「素直じゃないわねえ」
「なんでもいいさ。これから忙しくなるぞ」
涼のやる気に絵理は顔をしかめる。
「来週は強化合宿だな」
「おお、部活っぽい」
涼と葉月が盛り上がるなか、絵理と晴は示し合わせたように肩をすくめる。合宿の響きに目を輝かせる葉月の表情を曇らせることはできなかった。
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