第31話 覚悟はあるか
土曜日の午前中、葉月は涼に内緒で武道館の鍵を借り、文子とともに道場に入った。葉月は自分の道着に袖を通し、文子には備品の道着を貸出した。いつもどおり掃除からはじめ、黙想、準備体操、柔軟、筋トレをこなして体を温め、基本稽古に移る。葉月は涼に教わったことを口にし、実演してみせる。すると、自分が思っていたよりも技は体に染みついていたようで、思い出そうと頭を巡らせる前に身体が動いていた。
「本当に、夢中だったのですね」
文子はどこか嬉しそうだった。葉月も強くなりたいという目標の前に、新しい技を覚えること、身につけた技術を磨くことなど、ただ空手が楽しくて、部活の時間が近づくとそわそわと落ち着かなくなるような高揚感を思い出していた。また、みんなと稽古したいな、と思ったとたん、合同稽古で向けられた悪意も同時に蘇ってきた。体がすくみ、拳に力が入って震える。
「大丈夫ですか?」
文子は葉月の肩に手を置く。そのとき、武道館の玄関が開く音がした。入ってきたのは絵理だった。表情は不機嫌そのもので、手にはいつも道着を入れているエナメルバッグ。続いて、晴と涼も入ってくる。なんで、と葉月は近づいてくる三人を見つめていた。
「私が呼んだのです」
ふたりって言ったのに、と葉月が訴えるように文子を見やると、彼女は心配ないと言わんばかりに葉月の前に立って絵理から葉月を隠した。彼女を安心させるためか、文子は葉月の手を握った。
「なんの用?」
絵理は今にも食ってかからんばかりの勢いで文子を威嚇する。しかし、当の彼女は絵理から目を背けて涼にお辞儀する。
「ご無沙汰しております」
「ああ、エリーの試合で審判してくれた子だよな。うん。覚えてるぞ」
「そうですか」
文子はそこでことばを切り、唾を飲んで深い深呼吸をした。
「……突然で申し訳ないのですが、組手をしていただけませんか?」
「はあ?」
驚きの声をあげたのは晴だった。
「ちょっと、フミ。話したでしょ? 葉月はそんなこと出来る状態じゃないの」
いくらなんでも荒療治すぎる、と文子をなだめた。
「あたしはかまわないけど、さ……」
涼が葉月を見やると、葉月はさっと視線を逸らして俯いた。
「いえ。組手をするのは葉月ではありません」と文子は皆の視線を一身に受けながら、事も無げに言い切った。「私です」
文子はいたって真面目に、まっすぐに涼を見つめる。彼女の震えに気がついていたのは、手が触れている葉月だけだった。
「いや、ダメだな。あたし、素人は殴れない」
「ご心配なく。自主練習してきましたから」
しかしな、と涼は困ったように頭を掻いた。文子は黙って涼の答えを待つ。
「アタシがやるわ」
沈黙を破ったのは絵理だった。
「ちょっと、エリーまで何言ってんのよ」と晴が睨む。
「いつも言ってるでしょ? アタシ、こいつが嫌いなの。事情は知らないけど、殴られてくれるってんなら絶好の機会じゃない」
ただ殴られて終わるつもりはありませんが、と不服そうな文子。
「むりむり。あんたはアタシのサンドバッグ、憂さ晴らしの的にされて終わんのよ」
「フミ……。なんで、こんな……」
文子では、絵理に勝つことはできない。晴に止めてもらおう、と葉月は彼女に視線を送るが、晴自身も驚きからか、葉月の信号に気づかず文子を心配そうに見つめて動けずにいた。
「見ていてください。それだけでよいのです」
そう言って文子は葉月の手を離し、これから闘おうという人間とは思えないような柔らかく穏やかな笑みを浮かべた。
「物置に予備のサポーターがあるから、勝手に使えば?」
「お言葉に甘えて」
絵理が指さす先に向かい、文子はひとりで物置に入っていった。
「あの子、なに考えてんのよ」
葉月は独り言のように呟かれた晴のことばにただ頭を振り、消えゆく文子の背中を見送ることしかできなかった。
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