第29話 強くなりたい理由
その日の放課後、空手部の三人は制服のまま武道館の畳に座り、輪を作っていた。晴はいつも身近に見ていた葉月の人生を、その家族のことを淡々と語り始めた。又聞きも又聞きだから話半分で聞いてね、と言いながらやけに詳細なその話は六年をともに過ごした絵理でも知らないことばかりで、好奇心もあって彼女は飽きずに晴の話を聞いていた。
川西地区の中流家庭で生まれ育った葉月の母親は高校の卒業式の時点ですでに葉月を孕んでおり、卒業と同時に葉月の父となる社会人と結婚した。そして、彼が生まれ育った川東地区で市営住宅を見つけ、そこに引っ越して三人仲良く暮らしていた。ところが、葉月の父はある日突然いなくなってしまった。再び姿を現した時にはすでに遺体となっていた。
「いなくなった理由はわからないの。車には二本の缶チューハイと板チョコがひとつ残ってるだけだったって。雪が積もってる山の麓に車を止めて、そのなかで凍死してたんだとか。ガソリンは空っぽで車輪は溝にはまって動けない状態だったから事故だろうってのが警察の判断だったけど、葉月は自殺だったって信じてる。葉月はそのとき四歳で、葉月のお母さん――おばさんって呼ぶわね――おばさんは二二歳だった。未亡人になっても若さのおかげで就職先を見つけることは簡単だったみたい。それからふたりは互いに支えあって生きていきましょうって約束するの。葉月は小さいときからお手伝いなんかをいっぱいやって。調理実習のときなんかびっくりするくらい手際良かったでしょ?
「おばさんは一言で言えば困ってる人を見捨てられない、面倒見のいい人だった。わたしもお母さんもおばさんには随分助けてもらったの。うちの親父はよくいるDVの人でね、酒に酔ってはお母さんに暴力を振るったの。そういうとき、悲鳴を聞きつけたおばさんはすぐに助けに来てくれて。いまこうしてわたしが無事でいられるのは相談所にも行けなかったお母さんの代わりにいろいろと対策を講じてくれたおばさんのおかげ。離婚までこぎつける手伝いをしてくれなかったら、それこそお母さんは命を落としてたかもしれないんだから。それくらい親父の暴力はひどかった。
「ごめん。わたしのことはどうでもいいわね。
「そんなおばさんにも欠点があったの。男の趣味が悪い。簡単に言って、ダメな人を好きになるのよ。だから葉月のお父さん代わりは入れ替わり立ち代りするのにタイプは同じようなダメ男。幼い頃ならともかく、思春期に入ったころの葉月はかなり打ちのめされてた。そこに追い打ちをかけるみたいにおばさんが再婚を決めたの。それは葉月をすごく傷つけた。ふたりでも立派に生きていけると思っていたのは自分だけだったって気づかされたから。葉月では力不足で、おばさんの心を支えきれてなかった。だからこそ、再婚なんかするんだって。自分のことを否定されたみたいだって。
「小学六年生にして新生活が始まったわけだけど、その男はわたしたちのアパートに住む男の例に漏れず酒を飲んで暴力を振るう最低な奴だった。けど、おばさんは面倒を見ちゃうのよね。居心地悪くなった葉月はそれからわたしの家に入り浸るようになったんだけど、おばさんの結婚生活はすぐに破綻した。その男がアルコール中毒をこじらせて肝硬変になってね、ICUから出てきたときには働けないわ、トイレにも一人じゃいけないわで介護が必要になったの。おばさんは仕事があるからそんなことできないって、その男は実家に帰ることにしたの。おばさんと一緒にね。けれど、葉月はついていけなかった。わかる?
「乱暴されてたのよ。おばさんがいないときにね。それも、ただの暴力じゃなかった。おばさんも男に見切りをつけてしまえばよかったのに。けど、そうはしなかった。『結婚ってそういうものじゃないのよ』って。それから葉月は本格的にわたしたちと暮らすようになったの。それが中学二年のとき。お母さんは葉月もおばさんも大好きだったからすぐに葉月を受け入れてくれた。お金の心配はいらなかった。仕送りもあったし。けど、葉月はおばさんのことを信じられなくなっちゃったの。愛してたからこそ反転した想いは大きくて」
「つまり、葉月はお母さんを取り返すために強くなりたいの?」
「違うわ。だって、その男はとっくに死んだんだもの。おばさんはいま自分の実家、川西の家にいる。おばさんは葉月とまたいっしょに暮らしたいって言ってるけど、葉月がそれを受け入れられないの。怖いのよ。また否定されてしまうのが。
「わたしもフミも、あの子にすごく救われた。だから今度はわたしたちの番。けど、どうすればあの子を救うことができるのかわからないの。だから、いままでは無条件に葉月を肯定してきた」
「そのていどのことだったの?」
絵理は拍子抜けしていた。葉月が抱えている問題はもっと大きく、深刻なものだと思っていたから。誰もが同情し、涙を禁じえないようなものだと覚悟して話を聞いていたというのに、実際の問題は母と暮らすか否かというようなこと。もちろん絵理もその背景にあるものが悲劇的であることは理解していた。しかし、それらすべては葉月がわがままを言うことができていたら、男を作らせなければ防げたことではないか。そして、それはこれからも同じこと。わがままを言う前から泣き寝入りする葉月の気持ちが絵理にはわからなかった。
「そう。そのていどのことなの。けど、そのていどのことをできないくらい、あの子は弱いのよ」
葉月がもうすこし強く、自立することができれば母の生き方を受け入れ、祝福できるようになるのではないか。晴はそう考えていた。
「あの子ね、『強くなりたい』って言ってたみたいなの」
きっと心の奥底で、今のままではダメだって気づいてたのよ。だからわたしは、あの子がお母さんの幸せを願うことができるくらい強くなれるように手伝いたかった。晴は葉月の空手を応援していた理由を話す。自分の部活を後回しにしてまで絵理と引き合わせたり、怪我をおしてまで空手部に入った理由はそこにあった。
「けれど、フミは逆」
彼女は強くなった葉月でも、母を受け入れることができないと思っている。否定されて泣く葉月を二度も見たくない。だから、葉月には強くならずにいてほしいと思っている、と。
「心の傷が癒えるまで、あの子に寄り添うつもりでいるの」
わたしには無理、と晴は言った。母のことも知っている彼女だから、どちらにも幸せになってもらいたいのだろう。
「結局、フミのほうが正しかったのよね」
葉月か彼女の母か、どちらか一方の幸せしか願うことはできない。葉月が強くなれるかもなどと期待せずにいたら、こんなにも悔しい思いをせずに済んだのに。晴はそう言って鼻をすすり、目元をこすった。
「それは違うんじゃねえかな」
涼は自分でもうまく言い表せないのか、頭を掻いた。
「みんな、なんで稽古すんだろうな」
強くなりたい理由は人それぞれ。葉月は初めて武道館に来たとき、『押忍』の精神について興味を示していた、と涼は言う。きっと葉月は表面上だけなら母を祝福してやれるはずだった。しかし、それは卑屈に耐え忍んでいるということ。愛する母のことだからこそ、葉月はそんな偽りの気持ちで祝うことができないのだろう。葉月は母に幸せになってもらいたいと思っている。母を取られる悔しさを抱いてもいい。けれど、心の底から愛する人の幸せを願うため、心に余裕を持って押して忍ぶ。そんな強さを彼女は求めているのだと思う、と。それは涼の流派でいうところの、『押忍』の精神を心に宿すということだった。葉月が求めているものと空手の教えが合致したからこそ、彼女は空手にこだわっていたのではないか。
「けど、それができなかったから、いまこんなことになってるんじゃない」
涼には才なき者の気持ちはわからないわ、と絵理は切り捨てる。
そうかい? と涼は首をかしげた。
「あいつはお前らが思ってるほど弱くないと思うけどな」
涼は快活に笑う。一番葉月歴が短いくせに、と絵理が悪態をついたとき、晴の携帯から着信音が鳴った。
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