第27話 復帰
術後一週間が経った月曜日、スプリントを外した葉月は晴とともに武道館に向かった。玄関を開けて中に入ると真っ先に絵理が駆け寄ってきた。
「葉月! もう治ったのね。大丈夫?」
アタシの匂いわかる? と迫ってくる絵理に葉月が首を振ると、彼女はやや残念そうに掴んでいた葉月の袖を手放した。
「落ち着きなさいよ、もう」
「そうね。……にしても、綺麗に治るものね」
絵理が葉月の鼻に触れようとする。葉月の身体が硬直する。呼吸が浅くなって肩が上がる。なぜだかその手から目が離せない。迫り来る手がまた鼻骨を……。晴がその手を叩き落とした。葉月は深く息を吐き、肩の荷が下りたような安堵に包まれた。
「昨日外したところなんだってば」
「そんなんで稽古して大丈夫なの?」
基本くらいなら、と葉月は恐怖を感じていたことがばれてしまわないように微笑んだ。口角のあがりかたがぎこちない気がした。
「まあ、無茶はしないことね」
三人は道着に着替え、稽古の前に道場の掃き掃除を始める。道場の正面から畳の目に沿って箒をかけ、すこしずつ後ろに下がりながら集めた埃を一箇所にまとめる。その埃をちりとりに移したとき、玄関が開く音とともに涼がやってきた。
「押忍」
十字を切って畳を踏む。
「遅れて悪いな。日直でさ」
そう言う涼は葉月に気がつき、完治したことと、再び道場に来てくれたことを喜んだ。葉月は、涼が笑ってくれただけでまた来てよかったと思えた。
「おかげさまで。一週間まるごと休んでごめん」
「いや。あたしも守ってやれんくてスマン」
ゆるく頭を振った涼は葉月に近づき、頭を撫でてやろうと手を伸ばした。大きなその手が悪意に満ちた前田の拳と重なって見えた。殴られる。葉月は身をすくめ、涼の手を避けようとした。
「?」
「あ……。ごめん」
「あんたの手、汚いのよ。なに? チョークの粉?」
絵理が睨むと、涼は不思議そうに自分の手を見下ろした。手にはチョークの粉が付着したままで白く、触れたものすべてに手形を残せそうだった。涼は誤魔化すように笑って手を叩き合わせ、その場でチョークの粉を払い落とした。
「黒板消してたからな」
絵理は宙を舞う粉を吸わないように口元を覆い、不愉快そうに眉をひそめた。
「そういや、あいつら退部したみたいだぞ」
「あいつら?」
川西二年の四人だよ、と涼はうろ覚えの名前を四つ挙げたが、正解はひとつもなかった。
「岡田が辞めるって言い出して、それに便乗したみたいだ」
もともと四人で入ってきた彼女たちは仲間意識からか馴れ合いからなのか、ひとり欠けただけでなし崩し的に残りの三人も一緒になって退部したようだった。
「原因、エリーじゃない」と晴が言う。
「そう?」
原因が思い当たらないわ、と絵理は肩をすくめる。
「またあんな目に合わされたらって思ったんじゃない?」
「それはあいつが弱いからだわ」
恐怖に打ち克つことが空手の意義だ、と絵理は言う。怪我を恐れて立ちすくむようならやめてしまったほうがいい、とも。
「ふぅん。それじゃあ掃除も終わったし、稽古を始めましょう。……葉月?」
「え?」
葉月は急に声をかけられて正気づき、辺りを見回した。まさか、ばれてしまった? 葉月は誤魔化すよう曖昧に微笑んだ。
「ぼーっとしないの」
晴に促されて葉月と絵理も畳に正座し、正面に礼。目を閉じ黙想する。そこに涼が合流し、ようやく稽古が始まる。涼の号令のもと、四人は基本稽古をいつもより本数多めにこなした。それから五分の休憩を挟み、ミット打ちをしようと涼はビッグミットをふたつ物置から持ってきた。
「あんた、休んでる間になまったりしてないわよね」
ビシバシ指導してあげるから覚悟なさい、と楽しげな絵理。葉月はこくりと頷き、組手構えになる。
「こっちはこっちで勝手にやるけど、いいわよね?」
「ああ。任せるよ」
涼は晴を、絵理は葉月をマンツーマンで指導することになり、内容や速さ、回数はふたつの組でそれぞれ違うものとなっていった。涼はやりかたを説明したあと自分でその技を披露し、見て覚えさせ真似させる方法をとった。絵理は説明のあと本人にとにかく回数をやらせ、途中途中で口を挟んで問題点を指摘して体に教え込ませるスパルタ型だった。どちらの方法がよいということもないが、やはり小学生の指導員として経験を積んでいる涼のほうが初心者には親切であった。
涼は呆れたように絵理の稽古を見やり、晴は肩をすくめる。まあいいや、と涼は新たな技を晴に教えようとミットを持たせた。
「ワン・ツー、スリーで下突き。それから右ロー左ハイ。これがまあ基本的なコンビネーションだ。左右交互に技を出すから腰を切ることを意識してな」
涼は組手構えになり、晴はミットを胸に密着させて衝撃に耐える姿勢になった。
「一!」
号令とともに涼は左足を一歩踏み出し、着地と同時に左拳を繰り出す。右足をすり足で引き寄せて腰を切り、右拳。腰を回しつつ左拳を裏返して鳩尾に拳を突き上げる。拳を素早く戻し、同時に右下段廻し蹴り。一歩踏み込んだ位置に着地して右前組手構えで左上段廻し蹴りを放つ。晴は咄嗟にミットを顔の高さまで持ち上げられず、仰け反って上段廻し蹴りをかわそうとするが、彼女の目の前で涼はその足を止めた。
「よく反応できたな」
「ロー蹴ったんだから顔面もくると思ったのよ」
晴は訝しげに涼を見やり、ミットを渡す。
「でんでん太鼓みたいに体全体で動くよう意識してな」
「押忍」
組手構えになる晴。左肩が上がらないという事情もあり、晴の構えは右前というだけでなく拳の位置もやや変則的だった。どうせ右前なら、と絵理は自身が尊敬してやまないブルース・リーの映像を晴に見せて真似させた。空手よりもジークンドーのほうが晴との相性がいいと判断したからだった。
「そういえば、エリーだけ構えがすこし違うわよね。流派の違い?」
晴がちらと絵理を見ると、ミットを持つ葉月に向かっている絵理の構えは晴や涼たちと違い、前方にある拳のほうが下の位置に来ていた。
「ああ。あいつは受けたり捌いたりよりかわすことを念頭においてるから、かな」
「見切りとかスウェーってこと?」
「目が良くないとできないし、なにより難しいからな」
間合いの測りかたが上手い晴にも適した戦法に思えたが、彼女自身はまず基本を身につけてから、と真似はしなかった。
「だな。今はまだ『守』の段階だ」
まあね、と晴は組手構えを正した。
「ちょっと。なにしてんのよ」
「?」
絵理の声に涼と晴が振り返ると、そこではミットを持った葉月が及び腰になっていた。
「なに? どうしたのよ」
「どうしたじゃないわよ。葉月がミットをちゃんと持ってくれないのよ」
葉月は肩を上下させて息を切らし、やや瞳が潤んでいた。
「あんたが回数やらせるから疲れたんじゃないの?」
「さっきまで普通だったのよ。急にこんなんなるから……」
晴が振り返っても、葉月はふるふると頭を振るだけだった。
「ちょっとやってみなさい」
「うん……」
葉月がミットを胸に当て、絵理が構えたとたん、葉月の呼吸が目に見えて早くなった。それから鼻をすすり、数を数えようとしなかった。絵理がぐっと拳に力を入れると、それだけで葉月はビクつき、一瞬、ミットで顔を隠すような姿勢になった。どうしたって前田の悪意がちらついてしまう。また顔を殴られてしまう。触れるだけで再び殴られたと錯覚するような痛み。怖くてくしゃみもできず、鼻をかむことさえ躊躇った一週間。些細な日常動作にさえ細心の注意を払い、苛まれる日々。またあのような時間を過ごすのは耐えられそうもなかった。
「葉月……?」
自分の行いに気がついた葉月はそろそろとミットを下ろし、俯いて震えた。ばれてしまった。誰かと対峙することもできない自分がこの道場にいる資格なんてないのかもしれない。絵理は言っていた。恐怖を乗り越えられないやつに空手をする資格はない、と。
「ごめん……帰る!」
葉月はミットを捨てるように置き、道着のまま玄関に向かって逃げるように走り出した。明言さえしなければ、まだ間に合うかもしれない。また次の稽古には来ることができるかもしれない。それまでには克服できるかもしれない。
「ちょっ……葉月!」
「待ちなさいッ」
絵理は駆け出し、葉月が玄関につく前に正面に回り込んだ。
「あぅ……」
葉月が止まってあとずさりすると、絵理は好機とばかりに飛びかかり、葉月の頭を両手で挟むように持って首を傾けさせ、横に引き倒すように体をひねって地面に押し倒した。
「なんで逃げるのよ」
葉月は無言で体を横に向け、馬乗りになって見下ろしてくる絵理の視線から逃れようとした。
「もしかして、あんた……怖いの?」
葉月は驚きに目を見開き、やがて涙を流しながら小さく頷いた。もう終わってしまった。強くなれないままだった。絵理は顔を上げて晴たちを見た。三人はどうしようかと互いに目配せしたが口を開くものはおらず、武道館は葉月の嗚咽だけが響いていた。
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