第26話 葉月の暮らし

 合同稽古翌日の日曜日。絵理は葉月のお見舞いに行くために午前中から家を出た。その途中で花屋に寄り、オレンジのガーベラを主とした小ぶりなフラワーアレンジを受け取る。花が収まった木の籠をぶら下げてつぎに向かった先は青果店で、白い箱に収納されたメロンを購入した。見舞いの品であることを告げると店主はメロンのへたにピンクのリボンをあしらい、見栄えのよいモノにしてくれた。定番ながらも恥ずかしくない品だ、と絵理は満足して葉月のもとに向かう。早い時間帯のせいか人通りがなく、通りは静まり返っていた。ときたま小学生の楽しげな声や赤子の泣き声が聞こえることもあったが、これならば葉月も養生できそうだった。敷地を囲う金網に沿って歩き、入口の門を目指していると向かい側から人影が現れる。

「おや、おはようございます」

 文子はそう言って門の前で立ち止まった。絵理はタイミングが重なったことに舌打ちしそうになったが、メールを送ってきた晴の作為があったことに気づいて鼻を鳴らした。

「お見舞いの品にしては派手すぎやしませんか?」

 葉月が気を遣ってしまいます、と文子は絵理が手にしていたバスケットと白い箱を見て呆れたように言う。そういう彼女自身はスーパーの袋を手に持っており、中身はどうやら缶詰やスポーツ飲料のようだった。

「あんたが適当すぎんのよ。アタシのが定番でしょ?」

「入院患者ならば、ですね」

 そう言って文子は葉月と晴が住まう団地を見上げる。塗装が剥げて錆が目立つ金網に守られた団地の建物群はかつてベージュの壁面であったことを彷彿させるようなくすんだ色だった。点在する木の下には半年前の落ち葉が僅かに残っており、花壇には花の代わりに雑草がその場を占拠していた。

「行きましょうか」

 文子が先に門をくぐるが、絵理は負けてたまるかと彼女を追い抜いて前を歩いた。小学生時代の記憶をたどり、葉月たちが暮らしている棟に向かう。階段を見つけて昇ろうとするが、メロンを持っているし、と絵理は考えを改めてその横に設置されていたエレベーターのボタンを押した。エレベーターはすぐにやってきて二人を乗せる。静かに動き出し、狭い空間でふたりきりになった。文子から訂正が入らないことで自分に記憶違いはなかったと安心し、絵理はなんとか葉月の部屋にたどり着く。彼女が四〇五号室のインターホンを押そうとしたとき、文子がその手を掴んでそれを阻止する。

「葉月たちは四〇六号室です」

「晴ん家にいるの?」

 文子は答えずに絵理を引っ張って四〇六号室のインターホンを押す。

「いらっしゃい」

 言いながらすぐに晴が出てきてふたりを招き入れた。寝巻きのまま遅めの朝食を食べていた葉月の鼻にはスプリントがあてがわれており、怪我のひどさを物語っているように見えた。

「全治一週間だって」

 肩をすくめる晴によると、状態としてはそこまでひどいものではないらしい。変形した鼻骨は整復処置を受けて元に戻り、一週間ばかり固定しておけば治るとのことだった。それを外せば肌にはなんの痕跡も残らないだろう、とも。絵理はその話に安心するが、すぐに暗い気分になった。

「ごめんなさい。アタシが守らなきゃいけなかったのに……」

 大丈夫だよ、と慌てたように手を振る葉月。絵理がお見舞いの品を差し出すと葉月は小さく手を叩いて感心していたが、晴はやや呆れたようにフラワーアレンジの籠を持ち上げた。どうやら花瓶はないらしく、それを聞いた絵理は切り花ではなくフラワーアレンジにしてよかったと胸をなでおろした。

「あとで食べましょうか」

 晴はメロンと文子の品を古びて色あせた冷蔵庫にしまった。

 文子が襖を開けて寝室に入っていく。羨ましく思った絵理は好奇心から後に続いた。綺麗に畳まれた布団の隣には敷きっぱなしの布団があり、掛け布団が盛り上がってぽっかりと口を開けていてさきほどまでそこに葉月が収まっていたことを物語っていた。部屋の中は本棚や教科書など勉強に必要なものと、生活必需品しか置いておらず殺風景だった。しかし、女子校生の部屋に置くには不自然なものがひとつ。文子は仏壇の前に正座して線香を供え、お輪を鳴らす。仏壇は質素で、というよりも本来の意味での仏壇とは異なるものであった。長方形の足の短い机にロウソクが二つ、並べられた位牌、お輪、お供えもの、写真立て。それだけしかなかった。写真に写っていたのはまだ三〇代にもならないだろうという、若い男性だった。絵理はその写真に見覚えがあったが、以前見たのは別の場所だった。

「葉月の御父上ですよ」

 視線に気がついたのか、文子が写真を見ながら答えた。

「葉月が生まれてすぐにお亡くなりになられたそうです」

「知ってる」

 絵理は静かな声で返し、文子と入れ替わりで手を合わせて冥福を祈った。

「なにか飲む?」

 洋間から晴の声が聞こえ、ふたりは仏壇から離れて声のもとに戻る。


 夕方になり、文子と絵理はともに葉月の家を出た。無言のままエレベーターに乗り、門をくぐった。ここで道は別々になる。

「それでは」

 文子は一言だけで告げ、帰路に着く。

「待ちなさい」

 絵理には解消しておかねばならない疑問がひとつあった。

「なんで、葉月があそこで暮らしてるの?」

 絵理は彼女たちの隣人が昼間から騒いでいる声を聞いていた。そして、ただでさえ狭い晴の部屋が二分され、葉月のものと思われる生活用品をあちこちで見かけた。その質問を受けた文子の目はかつてないほど冷たいものだった。

「それは、言わなくてはならないことでしょうか?」

 いくら絵理が嫌悪し、罵声を浴びせても肩をすくめるだけだった文子がこんな目をするなんて、と絵理は驚きとわずかな慄きを感じた。しかし、唾を飲んで睨み返し、尋問するように圧力をかける。文子は意に介しない。

「晴にも葉月にも、そのような質問はしないでください」

 言われるまでもなく、聞くつもりなどなかった。再会してまだあまり日が経っていない自分に深い家庭の事情など話してくれるはずもない、と諦めのような気持ちが湧き上がる。絵理は断絶していた月日の長さを感じて切なくなった。

「じゃあ……あんたが答えなさいよ」

「お断りします」

 文子は踵を返し、帰路に着く。絵理は舌打ちし、反対の道を進む。

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