第25話 トラウマ

「つぎはあんたよ。頑張ってらっしゃい」

 晴は葉月の背中を押し、試合場に送り込んだ。相手は前田。背は葉月のほうがわずかに高いが、彼女の体重は涼よりも重そうだった。彼女はゆがんだ顔つきで葉月を見ていたが、それは怒りというよりももっと別の企みがあるような表情だった。嫌な予感がする。絵理ほどではないにしても、なにか邪道なことを仕掛けてきそうだ、と晴は思った。絵理もそれを感じていたのか、真剣味を帯びた瞳で試合場を注視している。

葉月は緊張からか、腕が胸に寄って構えが小さくなっていた。しかし、鼻から静かに息を吸い、落ち着きを取り戻すのと同時に懐深く構えを取った。じりじりと距離を詰め、互いの射程距離に相手を捉えた。先制は葉月の右ロー。しかし、カウンターを喰らってから葉月は一方的に攻められ、流れは前田にあった。後ずさり距離を取る葉月。

「葉月! 下がらず回りなさい!」

 葉月は絵理が涼に対してとっていた戦法を真似、前田の周りを飛ぶように移動した。前田は舌打ちし、回る葉月に背後を取られまいと追いかけた。何度か飛んでいくうち、彼女が惰性で葉月を追い始める。葉月は相手と自分の動きが一致したとき、飛ぶ代わりに右ミドルを蹴った。先走った前田は左半身を葉月に向けてミドルキックを背中に浴びた。前につんのめって転びそうになる。

「よしっ!」

 絵理は拳を握り、葉月の攻めを喜んだ。けれど、ダメージはない。晴は、真奈美が間に入って仕切り直しときに前田が笑っていたことを見逃さなかった。

 前田は大きく踏み込み、右膝蹴り。左に飛ぶ葉月。そのとき、前田は蹴った右足を軸足に変えて体を左回転させ、左裏拳でバックブローを放った。その拳は葉月の顔面を捉える。鈍い音。よろけて膝をつく葉月。顔を覆う手の隙間からとめどなく滴り落ちる鼻血。晴は唐突に自分の母親を思い出した。襖の向こうで言い争う両親。布団を被って耳を塞いでも聞こえてくる酔った父の怒声。涙とともに出ている母の声は甲高くも不明瞭で意味を汲み取れない。武道館内にありもしない安っぽいアルコールの匂いを感じた。母の悲鳴とともに襖が破け、枠ごと寝室に倒れ込んでくる。転がり込んできた母の左まぶたは青黒く膨らみ、鼻は軟骨が変形してくの字に折れ曲って付け根が青く腫れていた。鼻血をまき散らしながら父から逃げる母。晴は母を置いて玄関に逃げた。

「葉月!」

 絵理がいち早く葉月のもとに駆け寄って、怪我の状態を見ようとした。あまりの痛みからか、葉月は鼻を押さえた手を離さない。絵理は力尽くでその手を剥がし、再び触れないように押さえつけた。そのとき晴が見た怪我のようすは、母が負ったものとまるで同じだった。

「晴! 手伝いなさいっ」

 助けないと。そう思っていても晴の足は震えて立ち上がることすらままならない。

「救急車!」

 涼は葉月に肩を貸そうとするが、葉月は立つことを拒否する。止めないと。わたしがお母さんを守らないと。父の暴力に屈しないための剣道だった。しかし、いま晴は暴力を目の前にして怯えていることしかできなかった。剣さえあれば……。

「保健室はどこだ」

 真奈美が葉月を抱き上げ、玄関に向かう。涼は彼女に先に立ち、武道館のガラス戸を引き開けた。ここは武道館だった。晴は板間のさきにある物置に目を走らせた。いまなら鍵がかかっていない物置には剣道部備品の竹刀が置かれている。晴は物置部屋に駆け込み、竹刀を探した。背の高い傘立てのようなケースに差し込まれていたいくつかの竹刀の中から本能的に最も重そうな竹刀を選びとり、試合場に戻って前田に竹刀を向ける。左腕が使えないせいで右腕一本で竹刀を構える、剣道の型とは異なった構え方。ぎょっとし、あとずさりする前田に対して晴は竹刀を振り上げる。木刀ではないことが悔やまれた。袈裟斬り、横胴薙ぎ。

「ちょっ……おい!」

 前田は竹刀を後ろに下がった辛うじて交わした。晴の逆風。切り上げられる竹刀を仰け反って交わしたとき、前田は勢い余って尻餅をついた。晴は大上段に構え、興奮で見開かれた目で前田を見下ろす。荒くなった息を押さえ込むように握る手に力を込める。唐竹。あとずさりする前田の頭部に向かって竹刀を振り下ろした。

「晴ッ!」

 竹の乾いた破裂音。晴の目の前にいたのは絵理で、竹刀が捉えたのは前田ではなかった。突如として割り込んできた絵理は竹刀の鍔元を外腕刀で受け止めていた。

「あんた、なにしてんのよ」

 絵理は手首を返して竹刀を引っ掛けつつその尻に空いていた手を添えて引き、晴の手から竹刀をもぎ取って打ち捨てた。

「そいつはあんたの親父じゃないの」

 絵理は晴の手を取り、前田に中指を立ててから保健室に向かった三人を追いかける。


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