第24話 剣士の徒手空拳
絵理は自分の陣営に戻り、葉月と美優の間に腰を下ろした。
「ねえ、エリー。どういうこと?」
葉月は彼女の顔を覗き込むようにして尋ねた。
「別に……。備品の道着を貸しただけよ」
「そうじゃなくて。なんで晴が闘うの?」と葉月は語気を強く言った。「晴が退部したの、肩がまた悪くなったからなのに」
「片手でも空手はできるわ」
「そうじゃなくって」
絵理は質問を無視するようにふいと視線を逸らして美優を見た。
「あんた、どうしたよ。それ」
美優の鼻にはティッシュが詰められていて、赤く滲んでいた。
「負けた?」
美優は試合場から目をそらすことなく頭を振った。
「勝てなかっただけです」
そのことばを聞いた絵理は意外そうに瞬きし、にやりと微笑んだ。
「わたしのほうが先にハイキック決めましたし」
「そう。なら、次は勝ちなさい」
「押忍……」
真奈美の合図で晴と山下の試合が開始する。晴は通常の組手構えとは違い右足を前にした右前組手構えで、左拳の位置は低いところに置いていた。
「住之江! ガードは顎の高さに持っていけ!」
晴は言うことは聞かずに山下を見据えた。彼女はその眼光にひるんだように後ずさりする。しかし、すぐに構え直して右ローキックを放った。晴のストッピング、土踏まずで相手の腿を踏み潰すように押さえつけて蹴りを阻止した。
「底足受けって……。マジかよ」
涼は乾いた声で笑い、前のめりに試合を見た。理屈として知っていても、多くの人は実行しようとはしない受け技。相手より後に動きながら先に当てる速さ、動いている足を捉えることのできる動体視力。正確な体さばき。剣道で培った晴の技術は伊達ではなかった。
山下はすぐに下がるが、晴はそのあとを追うことなく悠然と構えていた。そんな彼女を訝しげに睨み、山下は距離を詰める。晴は山下の攻撃を冷静にさばいていく。ローキックにはすべてストッピングで対処し、力を込めて蹴り足を押し返す。山下は舌打ちし、右ミドルを放つ。晴は臆することなく踏み込んで体を切り、右掌底で蹴り足の膝頭を捉えて強く押した。蹴り足は晴の手で止められる。しかし、膝から下はその勢いを失うことなく晴に向かっていた。膝を中心に、真逆の方向から力が働く。ビチッ、となにかが切れたような音。顔を歪める山下。下ろした足を地面につけることなく片足で後ろに下がった。
「さすが剣道部って感じね。間合いの測りかたがうまいわ」
自分で送り出しておいて感心する絵理。初戦でここまで相手を圧倒できるとは予想外だった。しかし、横に居た葉月はそんな心配はしていなかったようで、戦う晴に憧れにも似た色の眼差しを向けて試合の流れを追っていた。自分の試合のときも、葉月はこんなふうにきらきらとした目で見てくれていたのだろうか、と絵理は胸が締めつけられるようだった。
後ずさりする山下は隙だらけ。いまならばどんな技でも有効打に成り得そうだった。しかし、晴はその場から構えたまま動かない。
「なにやってんのよ! 自分から攻めなさいッ」
晴は絵理をちらと振り返ったが、それだけだった。受けがうまくいったからといって慢心してはダメだ、と警告を発しようとした矢先。
「なめやがってぇえ!」
突然駆け出した山下は痛めた足を軸足に大きく踏み込んで飛び蹴りにも近い左前蹴りを放った。
「――っ」
晴は咄嗟にボディを腕でかばったが間に合わず、山下の中足が晴の腹に食い込んだ。晴は腹を押さえて跪き、うめき声さえ出さなかった。
「晴!」
晴の元に駆け寄ろうと葉月が腰を上げると、絵理はその袖を掴んで行かせまいとした。
「エリー! 放してッ」
「あんたは行っちゃダメよ」
ほかの誰が視線を逸らそうとも、葉月だけはみっともなくのたうちまわる晴から目を背けてはいけない。いま葉月が彼女のもとに駆け寄れば、晴は格好つけることもできなくなってしまう。
「ここで、ちゃんと見てなさい」
「でも……」
絵理は葉月の肩を無理やり押さえて座らせ、晴のもとに駆け寄った。
「大丈夫?」
晴は歯を食いしばり、青ざめた顔のまま頷いた。鳩尾を蹴り上げられてせり上がった横隔膜が肺を押しつぶし呼吸を妨げているのか、彼女は水中に身を沈めているかのように息を止めていた。
「苦しいだろうけど、背筋伸ばして深呼吸なさい」
晴が頭を振る。自力では無理だ。絵理は彼女の背中に膝を押しつけ、肩を持って自身のほうに引き寄せた。無理やり背筋を伸ばし、呼吸を促す。
「息吸って!」
晴は浅く早い呼吸を繰り返した。
「深呼吸だってば」
「そんな、ことより……」
晴は絵理のほうを流し見るように視線を向け、押しつぶしたような声で話した。
「技を教えて。あいつを倒すための技……」
「無理よ。ことばだけじゃ伝わらない」
「いいからッ」
絵理は目を閉じ、すぐにでも実行できそうな技を考えた。しかし、すぐに頭を振る。
「なんでよ……」
「見せる必要があるから」
このわからずや、とでも言いたそうに晴が睨む。
「落ち着きなさい。教えられないけど、アドバイスがないわけじゃないの」
「?」
「いままで見た技を思い出しなさい。あんた、ずっと見てきたんでしょう?」
晴はしばらく絵理を見ていたが、視線を対戦相手に移し替える。山下はすでに勝った気でいるようで、組手構えを解いてにやついていた。晴は頷き、絵理の手をどけた。
「大丈夫かい?」
真奈美が差し伸べた手を取り、晴は立ち上がって構えた。
「まだやれるわ」
真奈美は頷き、試合を再開させた。絵理は涼に近づいてそのそばに跪いた。そして、勝手にアラームに触れる。
「おい。なにしてんだよ」
「倒れてたぶん、時間を戻すの」
残り一〇秒ていどを示していたアラームをいじり、残り時間を一分半にした。
「戻しすぎだって。あいつ、立ってるのもやっとじゃんかよ」
「これくらいなきゃ倒せないじゃない」
構えた晴は自ら距離を詰め、山下に向かった。山下の前蹴り。晴は左斜め前に踏み込みつつ体を切って内受けする。体を戻す勢いのまま右足をすくいあげるように蹴り上げ、山下の右内腿に脛をぶつけた。鍛え難く、柔らかな内腿。山下は顔を歪めたがすぐさま左ミドルで反撃。晴のインロー。山下の蹴りが彼女を捉える前に軸足を狙った足払いで山下を転ばせる。すぐに下がって距離をとって構え直し、左手のひらを上に向けて指を動かした。尻餅をついた山下に向かって、立て、と挑発したのだった。
「そんなとこまで真似しなくていいのに」
そう言った絵理の表情はどこか嬉しそうだった。しかし、山下は立ち上がらなかった。痛めた膝に追撃を食らったのだ。じくじくと続く痛み。これ以上怪我したら、という恐怖に抗えなかったのだろう。晴の勝ちだ、と絵理は満足げに頷く。
ブザーが鳴る。晴はため息をつき、試合場の中央に戻る。山下も立ち上がり、ふたりは向き合って十字を切り、握手を交わすことなく自分の陣営に戻る。
「わたしの判定負けかしら。それとも一本負け?」
晴は絵理に向かって肩をすくめ、そんなことを尋ねた。まだ青白い顔に震える肩。絵理は勇ましく戦った友人を褒めてやりたかったが、それは自分の役目ではないとわかっていた。最低限の事実を告げ、後を託す。
「あんたの勝ちよ。向こうはもう嫌だって顔してた」
「ならいいけど」
晴は葉月を振り返り、柔らかく微笑んだ。
「どう? わたしもなかなかのものでしょう?」
葉月はそのことばに頷き、勇敢な友人を誇るように笑顔を返す。
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