第22話 小兵の流儀

 ミット打ちが終わって休憩に入っても美優は絵理のそばから離れなかった。

「なにビビってんのよ。あいつだって一年そこそこしかやってないんでしょ? あんたと変わらないって」

「でも、いつも負かされてて……」

「だったら稽古なさい。人、十度、我、百度っていうでしょ? 勝ちたくないの?」

「無理です……わたし、こんなだし……」

 絵理は大きくため息をついた。それを聞いて美優は身を小さくする。

「ごめんなさい……」

「ダメとか無理とかごめんなさいとか。あんた、そればっかね」

 西園はうつむき、鼻をすする。体格差は言い訳でしかない、と絵理は自分に言い聞かせていたが、全ての人がそう思えるわけではないことも知っていた。それでも、そんなことに屈するようなことは許せなかった。

「負けたっていうの、やめなさい。そのとき勝てなかっただけよ。あんたはまだ強くないんだから」

「でも……」

 強くないなら勝てなくても当たり前。けれど、そこに甘えていたら成長がない。だから絵理は負けないことにこだわった。

「認めなきゃ負けじゃない。一本取られようが倒されようが、次は勝つって気持ちがあれば負けじゃないの」

「次は、勝つ……」

 西園は上目遣いに絵理を見て、小さく、自信なさげに頷いた。絵理はそれを見てふっと笑った。

「強くなるわ、あんた」

「?」

 涼が手を打ち鳴らし、みんなの注目を集めた。

「組手するからみんなサポーターつけな」

「西と東で対抗戦でもしてみるか?……いや、人数が偏るな」

 真奈美が首をひねっていると、岡野が近づいていた。

「ねぇ、部長。西園のやつ、ずいぶん川東に懐いてるみたいだし、今日だけあっち側にしてやったらどうですかぁ?」

 岡野たちはにやにやと美優を見た。

「いや、ダメだ」

 真奈美は彼女たちの思惑を見抜いたのか、その意見を一蹴した。

「いいんじゃない? 別にそれでも」

 そう言ったのは絵理だった。まさか同意を得られるとは思っていなかっただろう岡野たちは口を開けていたが、それ以上に驚いていたのは美優だった。あまりの驚きように絵理は堪えられずに吹き出した。

「まあ、負ける気はしないわね」

「言うじゃん。上等だし」

 怒りに震えている岡野と違い、絵理は悠然と構えていた。

「……悪ぃ、真奈美さん。あたしかエリーが二回やるってことで五対五にしようか」

「いや。私が審判をしよう。それで四対四だ」

 八人はサポーターを着け、向き合って整列した。美優は胸の前で手を組み、俯いて震えていた。

「ビビらなくていいのよ」

「でも……」

「西園ぉ。そんなに震えなくても手加減するってぇ」

 美優の目の前に立っていた吉崎は嫌らしくニヤつき、後輩を怯えさせる。

「試合とはいえ練習だ。怪我させるほど本気でやらないように」

 試合のルールは一本や技ありを取らない、二分という試合時間をいっぱいに使う練習方式。

「それでは、お互いに礼」

「「押忍!」」

 八人は自分の対戦相手に十字を切った。それから先鋒の絵理と岡野を残し、試合場の外に向かう。

「ねえ」

 絵理は後ろに下がる仲間にしかきこえないような声で呟いた。美優と葉月は立ち止まり、絵理を振り返った。しかし、絵理自身は対戦者を見たまま目を離さない。

「道を示してあげるわ。小さくても勝てるってね」

 美優は彼女のことばに力強く頷いた。

「押忍。見てます、ちゃんと」

 涼に促され、ふたりは後ろに下がって試合場から出て行った。絵理は一瞬柔らかく微笑んだが、次の瞬間には口角を釣り上げ、ぎらぎらと光る瞳で岡野を見やった。

「どうせなら、思いっきり屈辱的なほうがいいわよね」

 岡野と絵理は試合場の中央に二メートルほどの距離を置いて向かい合う。

「お互いに礼!」

「「押忍!」」

「構えて。……始めッ」

 開始の合図と同時に岡野の飛び蹴り。絵理は左斜め前に踏み込み、体を切りつつ蹴りをさばいて岡野の背後に回る。真奈美がふたりの間に割り込み、岡野に反転を促して構え直したことを確認する。試合再開。

 岡野は大きく踏み込んで拳を振るう。絵理はそのすべてを受けずさばかずかわすだけ。大振りで遅いうえに予備動作が大きく、つぎにどんな攻撃がくるのかが簡単に予想できる。一方的な攻防が続いた。岡野の左ミドル。絵理は一歩踏み込み、岡野の足が絵理を捉えるまえに軸足を蹴って足払いした。岡野が尻餅をついて絵理を見上げると、彼女は悠然と構えて左の手のひらを上に向け、立て、と指で手招きするようにして挑発する。岡野は舌打ちして立ち上がり右フックを放つが、絵理は上体を逸らしてそれをかわす。このていどだろうとは思っていたけれど、まさかここまでやり甲斐がないとは。絵理はやや落胆しつつも、虎視眈々と好機を狙った。

「ラスト一分!」

 アラームの管理をしていた涼が残り時間を告げる。そのときすでに岡野の息は切れ、手数が少なくなっていた。そのわずかな攻撃もまるで手足に重りでもつけているかのように鈍く覇気がない。それもそのはず。技の多くは相手の体に当て、もとに戻ってくる。そのときに起こる反作用が元に戻る動作を楽にしてくれるのだが、かわされて相手の体に触れられなければ当然のことながらその恩恵が得られない。相手を捉えられなかった拳あるいは足は空を切り、体を前に持っていこうとする。それを防ぐために岡野は勢いづいた拳を止め、それから体をひねって元の位置に戻る。殴ることに成功したときには必要ない動作があるうえ、その動きは非常に体力を使う。普段なら二分ていど戦い抜く体力がある彼女でも、すべてをかわされてはどうしようもない。岡野は息をつき、攻めることをやめて体力を回復しようと試みた。頃合だ。

 絵理がようやく一歩踏み込む。左ジャブ。狙いは顔面。岡野は目をつぶり、顔を両腕でガードする。しかし、絵理の拳はどこにも当たらない。その代わりのミドルキック。絵理はガラ空きになった岡野の左脇腹を蹴った。ボディへのダメージで息をつまらせた岡野が歯を食いしばって絵理を睨むと、絵理はにやりと笑う。岡野は今の顔面突きを抗議しようと、真奈美を振り返った。

「部長ぉ! いまのは反――」

 破裂音。直後に岡野は口を両手で押さえ、かがみ込んだ。絵理の左ハイキック。

「あら、舌でも噛んだ? ダメよ。試合中によそ見しちゃ」

 絵理は組手構えを解かず、一歩下がる。左手を上に向けて立てと挑発するが、彼女を見上げる岡野の目には恐怖の色が浮かんでいた。彼女はもうその挑発に乗るだけの気力はなさそうだった。やっぱりそのていどか。情けない。絵理のなかにあった愉快に思う気持ちが急速に冷えていった。

「大丈夫か?」

 真奈美は岡野の隣に膝をつき、彼女の背中をさする。岡野は怯えたように首を横に振った。試合終了のブザーが鳴り、向き合って立つ岡野と絵理は互いに十字を切って礼をするが握手はしなかった。ふたりが自分たちの陣営に戻る。

「部長! いまのって反則じゃないんですかぁ!」

 前田が立ち上がり、真奈美のもとに向かう。

「顔面は反則ですよねぇ!」

 しかし、真奈美は頭を振る。

「当てれば反則だ。けれどさっきのは寸止め。それを規制しているところはないよ。それ以上に、試合中よそ見をする岡野に非がある」

 前田は歯を食いしばり、冷ややかにそちらを見ていた絵理を睨んだ。絵理は肩をすくめ、葉月の前に来た。勝者が冷めた顔をしているとひんしゅくを買いそうだ、と絵理は相好を崩した。

「ふふん、どう? 圧勝でしょ?」

「すごかった、です……」

 絵理を賞賛する美優と違い、葉月は絵理を睨むような目つきで彼女を見上げた。

「最後の、反則だと思う」

「はあ? あっち側が反則じゃないって言ってるのよ?」

 公式の大会でだって認められてることだわ、と葉月の無知を諭すつもりで絵理は説明するが、葉月は納得しなかった。

「……なんでよ。あいつはあんたのこと馬鹿にしてたのよ? 見返したいと思わないの? せいせいしないの? ざまあみろって思ったでしょ?」

 葉月が喜んでくれると思ったからやったのに。それもルールの範囲内で。なのになぜ、葉月に否定されなくてはならないのかが理解できなかった。

「ちゃんと謝ってきて」

「なによ……」

 絵理は押し殺したような声でつぶやき、葉月の顔面を踏み抜くように、後ろの壁をかかとで蹴った。葉月は耳をかすっていった彼女の蹴りに身をすくめる。

「エリーッ!」

 涼の怒声を無視し、絵理は足音を大きく立てて更衣室に向かう。


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