第21話 小さな教え子

「ああ、そうだ」

 それは月曜日のこと。大会の翌日だったせいか剣道部がいない静かな武道館で稽古を終えた空手部の三人は箒で床を掃き、雑巾で畳を乾拭きしていた。そのとき、涼は思い出したように声を上げ、ふたりの注目を集めた。

「お前ら、土曜日暇か?」

「内容によるわ」

「あたし大会の運営手伝うっつってたじゃん」

 そのときに川西高校空手部部長と会った、と涼。絵理はこれからの話をなんとなく察し、眉間にシワを寄せた。

「で、いろいろ話して合同稽古しないかってことになってさ」

 大会も近づいてきたこともあり、経験値を増やしておきたいらしく勝手に開催日を土曜日に決めていた。

「アタシパース」

 絵理は立ち上がり、話を遮った。

「向こうも全員あんたと同門生なら、道場間の交流に他流派がいたら迷惑でしょ?」

「いや、非公式だからそこまで気にしなくていいよ」

 いつも三人だしたまには刺激もほしいだろ、と言って涼は葉月を振り返る。葉月は目を輝かせて頷き、絵理を見た。絵理は渋い顔で目を逸らす。その目を見ていると絆されてしまいそうだった。

 更衣室の扉が開いて晴が出てくる。剣道部を退部することにした彼女は私物を持ち帰るために武道館に来ていたのだった。

「どうしたの?」

「合同稽古だって」

「あら。じゃあ、葉月の初組手記念日ね」

 晴は自分のことのように楽しげに笑ったが、葉月は首をかしげていた。

「え? 合同稽古っていったら試合がメインじゃないの?」

「ああ。そのつもりだよ」と涼が答える。

 おお、と感嘆の声を漏らす葉月。しかし、彼女はまだきちんと組手を行ったことがないせいかいきなりの対外試合に不安そうだった。

「練習通りやれば大丈夫さ」

 部長以外はみんな初心者だ、と涼は葉月を安心させるように言う。その情報は絵理にとって、あまりいいものではない。ちゃんとした稽古になるのか心配だった。

「せっかくの記念日なら見学にでも行こうかしら。いいでしょ、部長さん?」

「ああ。構わないよ」

 なんなら参加してくれてもいい、と笑う涼。

「エリーは来ないの?」

「行くわよッ。悪い?」

 葉月が頭を振って笑うと絵理は唇を尖らせた。


 着替えを終えた六人は柔軟体操をしてから三人に合流して基本稽古をこなした。それから二人ひと組になり、ミット打ちをする。せっかくの合同稽古なのだからと絵理、葉月、涼は身長的に見合う川西高校の部員と組むことになり、一人余った真奈美は指導員として号令をかけながら後輩たちを指導する。

 絵理は自分より背の低い美優と組んでいた。しかし、非力な美優はミットを蹴られるたびにふらつく。いい加減にしてよ、と絵理は美優に合わせて手加減しなくてはならないことにうんざりした。彼女は体格的に優れている人間との稽古に慣れていたので、小さい者同士でという真奈美の配慮が余計なお世話でしかなかった。

「八!」

 真奈美の号令にあわせて四人がいっせいにミットを蹴る。そのなかで美優はやや遅れ気味で、すでに息も切れて足が重そうだった。絵理が舌打ちすると、彼女は身をすくませた。

「あんた、膝曲げないからすぐバテんのよ」

 絵理はミットを放り投げて組手構えになった。

「どうかしたのかい?」

「ほっといていいから先に進めて」

 絵理は近づいてきた真奈美を見ずに追い返し、ミドルキックの正しい軌道をゆっくりとしてみせた。膝を畳んで高く上げ、足を寝かせつつ軸足を回して内くるぶしを相手に向ける。膝が相手の目の前に来たとき、ようやくそこで膝を伸ばして蹴りを放つ。

「わかった? あんたの蹴りは足が棒みたいになってんの」

 膝を曲げない蹴りかただと遠心力があって威力は大きくなる。しかし、重い足をそのまま持ち上げようというのだから疲れやすい。そういう蹴りは筋肉つけてからにしなさい、と涼や真奈美をちらと見やる絵理。美優は唾を飲み、小さく頷いた。

「返事は押忍でしょうが」

「お、押忍……」

「じゃあ、中段廻し蹴り一〇本。一!」

 彼女はゆっくりと、絵理に言われた通りの軌道で足を運び、膝を伸ばす。背足がミットを捉えた瞬間、小さいが鋭い破裂音が鳴った。

「やればできるじゃない」

「号令くらいはあわせて欲しいんだが」

 再び真奈美が困り顔で近づいて来ると、絵理はそちらを見ずにかすかに顎をしゃくってあっちに行けと示し、美優のために号令をかけ続けた。真奈美はため息をついたが、不安げに彼女を見上げる美優を見て安心させるように微笑み、彼女たちの独立した稽古を許した。まるで姉妹のようだ、と思ったが、絵理は自分の姉がこんなに優しげだったことはなかったことを思い出した。

「じゃあ、足を変えて二〇本。まずは軽く三本蹴っておこうか。……一!」

 空気が抜けるような鈍い音がし、ついでなにかが地面に落ちたような低く大きな音がした。絵理が振り返ると、葉月がミットを持ったまま尻餅をついていた。蹴ったのは岡野だった。彼女は転んだ葉月を見下ろして馬鹿にしたような笑みを浮かべていた。それから絵理を見やり、勝ち誇ったようににやついていた。

「大丈夫かい?」

 葉月は真奈美の手を借りて立ち上がり、また構える。

「ごめんねぇ。まさかこのくらいで尻餅つくなんて思わなかったからぁ」

「つぎは大丈夫」

 ほかの三人が葉月を笑う声が聞こえた。真奈美が睨みを効かせてもその声は小さくなるだけですぐに消えはしなかった。

「素人臭い蹴りね。あんたはあんなふうにしたらダメだからね?」

「……え?」

 絵理は美優を見ながら、わざと聞こえるような大きな声でそう言った。美優は戸惑ったように絵理と岡野を交互に見やる。

「いつまでもミットに足を残したりしてダサいし、隙が大きい。なにより、吹き飛ばすことばっかで全然威力がないもの」

 音でわかるでしょ、と絵理が問いかけても美優はぽかんと口を開けて彼女を見ているだけだった。

「わかるでしょ? 痛くないのよ、全然ね。あんただって蹴られたことくらいあるでしょ?」

 美優はちらと岡野を見た。岡野は彼女を睨んでいたが、絵理がぐいぐいと圧力をかけてくるので、それに負けた美優はきつく目を瞑って小さく頷いた。

「西園ぉ」

 絵理は岡野の低い声に身をすくませた美優の肩に優しく手をかけた。

「さ。練習しましょうか。あんなふうにならないように、アタシがみっちり教えてあげるわ」

 ふふん、と絵理が得意げに鼻を鳴らすと、岡野の標的は彼女に変わったようで、歯ぎしりしながら絵理を睨んだ。涼も真奈美も後輩たちの対立に辟易したようにため息をついていた。

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