第15話 決闘

 武道館の畳の中心部にサポーターを身につけた涼と絵理が二メートルほど距離を置いて向かい合っていた。その間に割り込むような形で主審の晴が立ち、彼女と三角形を作るよう畳のすみに副審の文子と葉月がパイプ椅子に座って選手のふたりを見ている。

「それでは、絵理と部長さんの決闘を始めます」

 組手構えになったふたりは互いににらみ合う。じりじりと距離を詰め、相手の出方を窺った。絵理が涼の射程圏内に踏み込む。涼の右前蹴り。絵理はその蹴りを内受けでさばきつつ距離を詰め、右ストレートを打つ。涼は一歩後退して距離をあけた。絵理の突きは的確に涼の水月を捉えていたが、固められた腹筋に阻まれて手応えはなかった。絵理は舌打ちする。涼は基本的に防御をしない。鍛えた筋肉で有効打を耐え、受けに使う労力を攻撃に回す。正面から戦って勝つには彼女以上の体重と筋力が必要だった。絵理にはそれがない。

 絵理が一歩踏み込む。涼は一瞬待ち、脛によるミドルキック。絵理は両腕でブロックするが、勢いに負けてふらついた。受けるのはまずい。完全にかわし、さばかないと。たとえ涼の攻撃が不完全なものだったとしても、体重差のせいで絵理には大きなダメージに繋がりやすかった。いままでは意地になって対抗していた。しかし、今日は勝つことが全て。

 絵理は息を整える。ベタ足をやめて一定のリズムで小さく右に飛び跳ね、涼の周りを回る。弱者はいつだって強者の周囲を回るもの。絵理は傍目から見て、自分はみっともない戦いかたをしているだろうと思った。涼は落ち着いたようすで彼女を目で追い、動きに合わせて向きを変える。リズムをつかんだのか絵理の動きを先読みし、後を追っていた状態からほぼ同時に方向転換。絵理を正面に捉え続けた。そのとき、絵理は飛ぶ方向を左に変えた。先走った涼が右を向く。彼女の背後を取った絵理はその隙を逃さない。高めのミドルキック。肩を蹴られた涼は距離を取ろうとするが、絵理は彼女を射程距離外に逃がさなかった。さらに踏み込んで手が届く距離に。涼の膝蹴り。絵理は蹴りをかわし、涼の道着をつかんで瞬間的に強く引いた。ふらつく涼の肩にミドルキック、パンチ。手応えなし。涼が反撃に出ようとしたとき、笛が鳴った。両者の動きが止まる。

 文子は絵理の反則を示すように旗を振っていた。相手の道着を掴むのは反則だった。発覚したときは注意を受け、二回注意をもらうと減点一。判定に影響が出る。

「確かに、こいつの流派では反則ね」

 絵理は涼を見やり、鼻を鳴らす。

「けど、アタシのところは一秒以内ならいいのよ。言ったでしょ? ホームなら負けないって」

「ふうん。主催の流派によってルールが違うわけね。どうする? 部長さん」

 晴が涼の判断を仰ぐ。彼女が抗議すれば絵理は反則を取られるだろう。しかし、涼はこともなげに絵理を肯定する。

「あたしはいいぜ。たいした問題じゃない」

 絵理は舌打ちして構え直し、主審の合図を待った。晴は呆れたようにため息をつく。ブザーが武道館に響き渡った。

「あら、もう二分? じゃあ、一応判定ってことで」

 晴が副審に目をやると、文子も葉月もともに旗を交差し、引き分けであることを示していた。

「はい。引き分け三ってことで、延長戦ね」

 選手の二人はもといた場所に立ち、向かい合って構える。休憩はない。

「始め!」

 第二回戦が始まる。

 互いに距離を縮めて射程距離に入る。絵理の袖引き。振り払う涼。ボディーブロー、肩へのミドルキック。ブロック、膝蹴り。ガード。ワン、ツー。内受け、袖引き。振り払い。高めの中段廻し蹴り。ブロック。ローキック。膝受け。右フック。躱し、袖引き。振り払い。絵理のミドルキックが涼の腹斜筋にくい込んだ。絵理が高めの中段廻し蹴りを蹴り続けていたせいで慣れが生じた涼は自然とガードを高くしており、脇腹が空いていた。絵理はその隙を逃さない。涼は一瞬ひるむが、鋭く息を吐いてすぐに持ち直した。表情からはまるでダメージなどないように見える。しかし、絵理は涼にダメージがあったことを直感していた。その証拠に、彼女は絵理から少し距離を取っていた。

(顔に出るはずがない。みんなそう指導されてるもの。弱みを見せるなってね)

 だからこそ今、と絵理は果敢に踏み込んだ。鋭く刺すように息を吐いた涼は絵理の腹に膝蹴りを放った。絵理の体が一瞬、宙に浮く。着地と同時に涼は絵理の肩に向けてミドルキックを蹴る。右足を曲げずに地面から跳ね上げ、遠心力を利用した重い蹴り。彼女は蹴りの勢いをそのままに一回転し、元の位置に戻った。相手に背中を見せてしまう隙の大きな蹴り。絵理は力に押し負けて吹き飛ばされ、床を転がった。受身を取って転がる勢いを利用して立ち上がり、何事もなかったように構える。格好つけずにしばらく倒れておけばよかった、と後悔する。ガードした腕が激しく痛んだ。畳の中心にいたはずの絵理は端まで飛ばされていた。荒くなりそうになる息を抑え込み、互いに自分の呼吸を悟られないように静かに空気を吸い込んだ。そろそろ決着をつけないと身体がもたない。

 ふたりはジリジリと距離を詰める。射程距離に入り、絵理は左ミドルを蹴る。受け止めた涼はすぐさま左正拳で反撃するが、絵理は右に回ってかわしざまに袖を取り、突きの勢いを利用して涼の腕を後方に引いた。前かがみになった涼の頭が下がったところを狙って、絵理は彼女の腕をまたぐようにハイキックを放つ。後頭部を蹴られた涼はぐらついて倒れそうになるのを一歩踏み込んでこらえた。絵理はにやりと笑った。一瞬の静寂。絵理を向いた涼の目の色がいままでとは違うものに変わった。ここからが本番。きっと彼女は手加減もなしに自分を潰しにくるだろう。戦慄を覚え、体が逃げることを命じていた。しかし、絵理はその警報を自らねじ伏せる。汗が噴き出す。わざわざ相手を怒らせて本気を引き出したくなるのは悪い癖だ。涼の蹴りで腕が折れ、とどめに顔面を踏み抜かれるところまで瞬時に想像できた。あとはそれをどこまで回避できるか。目の前の凶暴な獣じみた涼が大口を開けて絵理を喰らい尽くそうとしている。

「一本!」

 三人の審判は絵理が一本を取ったことを示すように旗を挙げていた。涼は辺りを見回し、敵意に満ちた目で主審を睨んだ。

「あたしはまだ動けるんだけど」

 絵理は盛大なため息をつく。

「ハイキックもらうのは初めて? あんたでかいものね。……晴?」

 絵理は晴に向かって顎をしゃくった。晴はポケットから丸めて入れていたパンフレットを取り出し、ルールが記載されたページを開く。

「有効打によって戦闘不能に陥った場合、これを一本とする」

「だから、あたしは平気だってーの」

「ただし、少年部及び女子の部は安全を考慮し、ダメージの有無にかかわらず技が決まった時点で一本とする。……ルールブックにもかっこ書きでそう書いてあったの」

 晴はそう言って肩をすくめた。

「そ。一般の部と同じような戦いかたしてるあんたにはわからないでしょうけど」

 女子は技術で戦うものよ、と絵理は得意げに笑う。涼は頭を掻いてため息をついた。

「……わかったよ。あたしの負け」

「オーケー。じゃあ、もとの位置に戻って挨拶」

 選手のふたりは二メートルの距離を置いて向かい合った。十字を切ったあと、ふたりは歩み寄って握手を交わす。

「完敗だよ。最後の蹴りは効いた」

 絵理の表情は暗くなり、彼女は頭を振った。

「ルール上の勝ちじゃあね。……悔しいけど、実戦なら負けてたわ」

 彼女は痛みを堪え、蹴られた腕をさする。主審の声で試合が止まり、安堵を覚えた自分が恥ずかしくてたまらなかった。自分の負けはその瞬間に確定していた、と絵理はプライドが邪魔しなければ泣き喚きたかった。あれが勝者のする顔なものか、と。しかし、今度は涼が頭を振る番だった。

「実戦だったさ」

 絵理は目を瞬かせ、涼を見上げた。

「場所とかルールとか関係ねえよ。拳交えりゃいつだって本番だ」

 格好良かったよ、と涼は笑う。絵理はそのことばを聞き、えも言われぬ感情がこみ上げてきて涙が溢れそうになった。彼女はうつむき、鼻をすする。認められることがこんなにも嬉しいなんて。

「あんたもね」

 ふたりはまるで、最初からわだかまりなどなかったかのように笑いあい、互いの健闘を讃えた。

 葉月は絵理に駆け寄り、彼女の手を取る。

「エリー、すごいね」

「ん。まあね。……ありがと」

 絵理は満更でもなさげに頬を染め、葉月から顔を逸らした。

「……どーしてもって言うなら、あんたに教えてあげてもいいけど?」

 そのことばに葉月はきょとんと首をかしげる。

「細っこいあんたが勝つなら、アタシみたいな戦いかたのほうが合ってるって話! 葉月がどうしてもって言うなら、アタシが指導してあげるって言ってるのよ!」

「負けた場合、入部するという条件だったのでは?」

 文子は怪訝そうに絵理を見た。

「勝ったときは入らない、なんて言ってないもの。それに……」

 葉月を取られまい、と絵理は文子の前に立ちふさがり、舌を出した。

「あんたの思い通りになんてなるわけないでしょ。アタシ、あんたが嫌いなのよ!」

 葉月は困ったように笑い、文子は返事をせずにただ眼鏡の位置を直した。


 完全下校時刻になり、五人は帰路に着こうとしていた。晴と葉月は自転車を取りに、涼は武道館の鍵を職員室に返しに行き、徒歩だった文子と絵理は校門前で三人を待っていた。

「ねえ」

 どうせ絵理は自分とは話さないだろう、と文庫本を読もうとしていた文子は彼女が話しかけてきたことに驚いて本を取り落としそうになった。そちらに顔を向けると絵理は文子を見ていなかった。

「あんた、アタシに怖くないのかって聞いたわよね」

 武道館の道すがら、そんなことを聞いたことを思い出した。けれど、絵理はその答えを教えてくれなかった。何を今更、と思いつつも興味があった。

「正直、怖いわよ。いつだってね」

 それは意外な答えだった。自分のわがままさえ貫ければ、誰を敵に回したって構わないと言わんばかりの振る舞いが目立つ彼女も怖いと思うことがあるだなんて。

「けどね、それを飲み込んで立ち向かうのが空手家ってもんなのよ」

 最大の敵は弱い自分、と絵理は最後に呟いた。葉月も弱い自分に勝とうと必死なのだ。

もし、私も空手を始めたら、なにかが変わるのだろうか。

バカなことを、と文子はその考えを打ち消すように頭を振った。


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