第14話 ウォーミングアップ

「待たせたわね!」

 絵理は玄関を開け、晴と葉月の注目を浴びながら仁王立ちになった。その横で文子はふたりに会釈し、靴を脱いで武道館にあがる。畳では涼が入念に柔軟体操をして体をほぐしていた。

「更衣室はあちらのようです」

 文子はそう言って指差し、更衣室とは反対方向にいた晴のもとに向かった。

「副審としてすべきこと、見るべき点の再確認をお願いします」

「オーケー」

 晴は物置に置かれていた大会のパンフレットを片手に、反則技や有効、技ありや一本の条件を説明し始めた。彼女が話を始めると葉月もふたりに近づいて相槌を打つ。

 応援に来てくれたっていいじゃない、とひとり取り残されてそのようすを眺めていた絵理は鼻を鳴らし、靴を脱いで武道館の畳を踏んだ。靴のかかとを整えてから更衣室に入り、道着に着替える。道着の左胸のあたりには彼女が所属する道場の名前が藍色の糸で刺繍されていた。絵理はその文字を指先で撫でて目をつぶり、深呼吸を繰り返す。大丈夫、大丈夫。

 小学五年生のとき、絵理は初めて大会で涼と戦った。いままでは男子たちに混じっていてなお優勝できていた彼女は女子の部に移行しても負ける気はしなかった。しかし、涼には圧倒的な実力差を見せつけられて負けた。一本を取られたわけではなかったが、五人の審判が全員涼の勝利を示すように旗を挙げた。それ以来、彼女が絵理の優勝を阻み続け、とうとう中学生の間は一度も優勝を手にすることはできなかった。悔しかった。破れたこと自体もそうだが、それ以上に、小細工を弄さずに肉体的な才能のみで戦う彼女に負けることが悔しかった。いくら技術を磨こうとも、筋力、体重、身長、体格の有利の前ではそんなもの無意味である、と自分の空手を否定された気がしたから。技は力の中にあり。崇高な空手家はそう言っていた。涼はそれを体現しようとしている。けれど、それではいつまでたっても弱者は強者に勝てない。強者がより強くなるだけの技術に何の意味がある。絵理は自分の空手道を証明したかった。

 胸の高鳴り、脈拍が落ち着いたことを確かめる。恐怖は飲み込んだ。

「よし」

 絵理はカバンからテーピングテープとサポーターを取り出す。拳サポーターは大会用のコットン素材の白いものと、練習用に使っているレザーの青いオープンフィンガー仕様のパンチンググローブがあった。どっちにしたものか。絵理は更衣室の扉を開けて頭だけ外に出し、晴に呼びかけた。

「ねえ。サポーターはなんでもいいの?」

「いいぞ。あたしは指抜き使うつもり」

 答えたのはウォーミングアップのために組手構えで移動稽古をしていた涼だった。彼女が指さす先には絵理とは違うメーカーの黒いパンチンググローブとコットンの黒いレッグサポーター、ニーサポーターがあった。

「そう。ありがと」

 絵理は扉を閉めて手首をテーピングし、きつくなりすぎていないかを確かめてからサポーターを持って畳に移動した。

「ヘッドギアは?」

「いらないだろ。一時間後に始めるから、身体温めとけよ」

 言われなくてもわかってるわよ、と絵理は壁際にサポーターを置き、武道館の壁にかかっている「文武両道」の掛け軸の正面に正座して黙想した。一分後、黙想をやめて立ち上がり、準備体操、柔軟、軽い筋トレ、組手構えからの基本稽古を一通りこなす。

「エリー。ミット使う?」

 物置から出てきた晴はビッグミットを掲げた。絵理の後方からは破裂音が響き渡る。絵理が振り返ると涼がビッグミットで中段廻し蹴りの稽古をしていた。ミットを持つ葉月は蹴られるたびによろけていたが、なんとか尻餅をつくことはなかった。文子はそのようすを不安そうに見ている。

「すごいわね。あんなのくらって大丈夫?」

 さあね、絵理は興味なさげに視線を逸らし、晴にミットの正しい持ちかたを指導した。そして、組手構えになって中段廻し蹴り。素早い動きでミットを捉えた足は鋭い音をたて、元の位置に戻る。身体が仕上がっていることが実感できる。大会に向けて調整された競技用の肉体としてではなく、行住坐臥すべてを戦いとする空手家としての仕上がり。短く息を吐いた絵理は感心していた晴を睨むように見た。

「アタシ、負けないから」

 晴はふっと笑う。

「わかってるって」

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