第10話 演武

 木曜日の放課後、空手部は演武を決行した。

柔道部が来ないことを祈りつつ観客を畳に座らせ、葉月と涼は板間にブルーシートを敷いてそこを舞台とした。シートの上にはすでにふたつのブロックが立てられ、その間に掛かるように四枚ののし瓦が上に乗っている。演目がばれてしまわないようにシートが被さっていたが、隅のほうには四本の木製バットも準備していた。事前告知として手書きのポスターを貼っていた効果もあってか二〇人ほどの生徒が武道館を訪れていたが、そのほとんどは涼の顔見知りという有様だった。

 そろそろ時間だ、と言って道着姿の涼は観客に向き直り、簡単な挨拶を済ませてすぐ演武に移った。彼女は瓦の後ろに回り、それを軽くノックする。

「これはのし瓦っていって、実際に建築物にも使われてる瓦なんだ」

 本当は割りやすい試割り用の瓦もあるのだが、空手家がそんなものに頼るのは格好悪いから、と涼はあえて本物ののし瓦に挑んだ旨を話す。真奈美に対する対抗心だろう、と本当の理由を知っているのは葉月だけだった。

 涼は首にかけていたタオル折りたたんで瓦に被せる。組手構えになって上体をやや前傾にし、右腕を伸ばして軌道を確認するように拳を瓦に触れさせた。右拳を軽く突いたり引いたりしてイメージトレーニングを繰り返す。武道館に響き渡るほどの勢いで息を吐き、右拳を脇の下まで引いて半身になる。息を呑む観客。

「ッシャ!」

 涼は鋭く短い呼吸音とともに腰を切って肩を回し、右の縦拳を振り下ろす。陶器が弾けたような高い音。感嘆の声。拍手。涼の下段突きは瓦の中心点を捉え、四枚の瓦を貫くように砕いた。殴られた瓦がおのおのふたつに割れてシートの上に細かい破片とともに落ち、ブロックの上にはなにも残らない。身体を起こした涼は安心したように笑い、葉月に目で合図してバットを持ってこさせた。葉月が手にした一本のバットを見た観客はつぎになにが行われるかを理解し、はやし立てるように声を投げかける。

「次の演目は見ての通りバット折りな」

 そう言って涼は見物人たちに向かってバットをかざして見せた。

「軟式野球部のやつは見覚えあるんじゃねーか?」

 そのバットの黒い胴体部にはミズノとメーカーロゴが刻まれており、持ち手は温かな木の色で境目がはっきりと見て取れた。スポーツ用品店で売られている本物のバット。涼は打者のようにバットを構え、一度素振りをしてみせる。空を切ったバットは風をかき分けるように低く唸る。

「ほんとに折れるのぉ?」

 バットを見たときに一番よい反応をした女子生徒がヤジを飛ばす。きっと日頃から木製バットに親しんでいる野球部なのだろう。よく使っているがゆえに、彼女はバットの丈夫さを知っているはずだ。人の力で折れるものではない、と。葉月も初めは同じ思いだった。しかし、彼女は実際に人がバットを蹴り折るさまを目にしており、知っていたのだ。見てろよ、と自分が蹴るわけでもないのにすこし得意げな気持ちで葉月はバットの上部を両手で握り、地面に突き刺すような形で構えた。バットの下部を固定しているのは瓦割りの台座になっていたブロック。重りとしてはすこし心もとなかったが、横に動くことはない、と断言する涼を信用し、葉月は自身ができることに最大限意識を傾けた。

 涼は葉月の対面に立って二、三度ジャンプして肩の力を抜き、組手構えになる。その鋭い視線を初めて向けられた葉月は鳥肌が立つのを感じ、体が震えたのがわかった。しかし、涼が蹴るのは自分ではなくバットだ。自分の体に当たるはずはない、と涼の実力を信じるように頭の中で唱え、周りに気づかれないように静かに息を吸った。すると震えは止まり、むしろ、あの感動的でさえあった美しい技をもっとも近くで見ることができる、と胸が高鳴った。

 涼が鋭く息を吐いた次の瞬間、彼女の右足がぬらりと上がった。少しも見逃すまい、と武道館にいた全員が瞬きどころか呼吸さえ止め、一本のバットに意識を集中させる。

 脇腹よりも高く上がった涼の足は急加速し、吸い込まれるようにバットに向かって落ちていった。乾いた木が弾ける。涼は蹴り足を元の軌道で返すことなく勢いのまま一回転して組手構えに戻った。バットは葉月が握っていたグリップだけを残し、胴体はブロックの穴に刺さったまま地面に横たわっていた。観客たちは声を出すこともできずに舞台上の折れたバットを見つめている。涼が勝ち名乗りを上げるように右拳を天井に突き上げると、正気づいた観客たちは閧をあげるように涼を讃えて拍手を惜しまなかった。その声に応えつつ、涼は葉月と顔を見合わせて頷いた。三本に挑戦する。葉月は隠していた三本のバットを涼のもとに持ってきた。ビニールテープを両端に巻いて三本をひとつに束ねた代物。見物人からはどよめきとともに、涼ならばこれもやってくれるだろう、と期待の声があがる。

「三本は初めてなんだよなぁ」

 涼は苦笑いしつつ束ねられたバットを持ち上げ、物々しい静物の脅威を示す。

「涼ならイケるッ!」

 観客たちの気持ちはひとつになっていた。葉月も彼女たちと同じ気持ち。涼から受け取ったバットを両手で持って動かぬように固定した。さきと違ってブロックの穴にバットを入れることはできず、下部の固定はせいぜいふたつのブロックでバットを挟み込むような気休め程度のものだった。

 緊張をほぐし、涼は再び構えを取る。それを見た観客たちに最初のような静寂はなく、勢いづいた期待と熱気に満ちていた。涼の額から汗がにじみ出し、頬を伝って顎から滴り落ちる。

「ッシャアッ!」

 シートに落ちた汗の音を合図にしたように、涼は足を大きく回してバットに叩き落とす。爆ぜる木の音。しかし、涼の足はバットを突き抜けることなく止まり、動かなかった。表情を歪める涼。同じ軌道を辿って元の位置に戻る。一本目のバットは折れかけて鋭い破片を覗かせていたが、二本目三本目に阻まれて完全に折れてはいなかった。武道館が静まり返る。誰もが忘れていた失敗の可能性。それが現実になった。

「涼……」

「クソッ!」

 葉月が手を緩めた瞬間、涼は二度目の蹴りを放っていた。きちんと固定されていなかったバットは折れることなく床に投げ出されて跳ねた。勢いのまま一回転して元の位置に着地する涼。蹴り足の脛から滴る血。

 涼の挑戦は失敗に終わった。


 部活を終えた葉月が帰ってきたとき、時刻は午後七時だった。夕飯は葉月よりもさきに帰宅していた晴がすべて準備を整えており、葉月はとくにすることもなく夕飯を食べ始める。

「で? 勧誘はどうだったのよ」

 涼の友達しかこなかった、と集まった人間について話し、それから演目の詳細を告げる。瓦割りと一本のバット折りは成功したが、三本束ねたバットはダメだった、と。

「破片が刺さって血ぃ出て、みんなドン引きだったし」

 涼の失敗に失望したのか、足から流れる血を見て空手に恐怖したのか、入部を呼びかけても手を挙げる観客はいなかった。

 そう、と晴は腕組みしてため息をつく。隣の部屋では酔った男が暴れだしたのか、女の悲鳴と物が壊れる音がしはじめた。

「ほんと、呪われてる」

 晴は騒ぎが聞こえる壁の向こうを睨んだ。

「このアパートに住む男ってみんな同じようなやつばっかり」

 酒飲んで暴れて、女殴って泣かせて、と晴は目をきつく閉じた。葉月が心配して声をかけると晴は疲れたような顔で笑う。手を振り、この話はやめよう、と合図する。

「そうそう。エリー来てなかった? 演武見に」

 葉月は首を振り、見覚えがないと答える。

「そう……。やっぱ、こっちからいかないとダメみたいね」

「なんでエリー?」

「あの子、空手やってたでしょ?」

 ふうん、と葉月は小学校時代の友人を思い浮かべた。とくにそんな話を聞いた覚えはなく、小柄な彼女からはそういった格闘技の類に心得があるとは想像し難かった。

「月曜にでも声かけて――」

「てゆーか、同じ高校だったんだね」

 薄情だわ、と晴は首をかしげる葉月に苦笑いした。

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