第8話 ローキック
その日の稽古は剣道部と武道館を分け合っていたため、空手部は畳側で練習していた。葉月の拳は包帯こそ取れたものの傷の治りは完全ではなく、薄い皮膜ができたていどで怪我の部分だけが名残のように桃色のままだった。
葉月と涼は基本稽古を終え、物置に入る。
「道着?」
扉からほど近いスチール棚の上から三段目に綺麗に畳まれた道着が三着重ねて置かれていた。以前の稽古で物置に入ったときにはなかったものだった。
「ああ。退部したやつらの置き土産だよ。捨てるのもあれだし、備品にね」
ふうん、と葉月がその道着に触れてみると、もとが白であるから色あせもなく、目立つシミやほつれも見当たらなかった。せいぜい裾が擦れて毛羽立っていたくらいだろう。
「これから梅雨だろ? 乾かなかったときにでも使いな」
そうする、と頷きつつ、葉月は自分が着られるサイズかどうか、タグを見る三つとも彼女のものと同じ号の平均的なサイズだった。
涼はすこし背伸びをして二段目の棚に手を伸ばし、ビッグミットをどかしてその奥を探る。
「今日は蹴りにしとこうか」
そう言って彼女が棚から取り出したミットは以前のものよりも小さい四〇×二〇サイズの直方体で、ふたつでひと組のキックミットだった。受け取った葉月はその軽さに驚く。ビッグミットよりもサイズが小さいことを考えても、軽すぎる。あれで受け止めきれなかった涼の技をこんなもので防御できるのだろうか、と不安になった葉月がミットの頂点にある空気を逃がす穴を見やると、なかのスポンジが覗いていた。ビッグミットよりも柔らかで変形しやすく、カステラを連想させるものだった。
「まずはローからな」
涼は背面にある三つの持ち手のうち、最上段を掴んでミットを腿にあてがうような形で構えた。怪我をしないための正しい持ちかた。練習する技によって変わる持ちかたを一通り説明してから葉月にミットを渡す。
「さて、稽古じゃ基本的に廻し蹴りは背足で蹴るわけだが……」
実戦では脛を使うんだ、と涼は自身の脚に手を這わせる。脛、と言われて葉月が思い出すのは弁慶の泣き所と言われているところだった。軽くぶつけたとしても涙がにじむほどの痛みを感じる部位であえて蹴るなど、むしろ自分のほうが痛いのではないだろうか。
「相手の膝でも蹴らないかぎりたいしたことないさ。あとは慣れかな」
そう言って涼は笑う。結局痛いんじゃん。葉月は訝しげに彼女を見て、それから足元に視線を落とすと涼の足の甲が自身のものと違って、背足の部分だけがかすかに腫れたように膨らんでいることに気がついた。その膨らみの中にあるものは足の骨。ミットをはじめてとし、人の足、腕、砂袋とどんどん硬いものを蹴っていくうちに、元来脆い甲の骨が蹴る対象に負けないように発達しているらしかった。一〇年もすればこうなるさ、と涼は言うが、葉月はその膨らみからカブトガニを連想し、同じようにはなりたくないと思った。
「試合中、背足を使うのはハイキックとか、牽制、スピード重視の蹴りのときくらいだな。で、蹴るところだけど……」
涼は自身の腿に指を這わせ、膝から拳二個分上の位置で指を止めた。
「このあたりにある伏兎っていう急所を狙うように」
葉月は自身の膝に拳を当て、ふたつぶんを測ってその位置に触れた。まっすぐに立ったときに道着の裾に隠れるか隠れないかという境目にちょうど行き当たり、それが目印になりそうだった。そこに向かって垂直に蹴る、と涼は葉月の伏兎に手刀を振り下ろした。
「じゃないと力が逃げちまうからな」
ふむふむ、と葉月は頷き、ミットを持って腿に添えて組手構えになる。体で覚えるための実践。涼も組手構えになり、相手に気取られないように静かな呼吸をはじめる。
「一!」
葉月の号令を聞き、涼は下段廻し蹴りを放った。畳んで上げた膝を支点に足を寝かせ、同時に軸足の内くるぶしを葉月に向けて半円を描くように腰を切る。最後に膝を伸ばして鞭のようにしなやかな動きでミットを蹴った。その瞬間、風船が割れたような破裂音が武道館内に響き渡る。休憩中であった剣道部員たちが一斉に空手部のほうを振り向いた。ミットを蹴ったその足はビデオの逆再生ように同じ軌道で元あった場所に降りる。
葉月はミット越しに蹴られたとは思えない肌がひりつくような痛みを足に感じながら、涼の足から発せられたあまりにも大きな破裂音に感嘆のため息以外出てこなかった。
「つぎ、脛で蹴るからしっかり構えろよ」
「押忍!」
ふたりが組手構えになって向かい合うと、涼は半歩踏み込んだ。射程距離が背足のときよりも短くなるぶんを補うようにあらかじめ間合いを詰めたのだった。葉月はさきの蹴りよりも威力が強いとわかっていたので、腰を落として大きな衝撃に耐えられるよう蹴られる左足に意識を集中した。
「一!」
葉月の号令とともに涼は蹴りを放つ。さきほどと変わらぬ軌道。しかし、膝を伸ばした足はさきのしなやかさが失われ、代わりに力強さが増していた。鞭というよりは金属バットや斧を振り下ろすような勢い。上から垂直に、ミットに隠れた葉月の伏兎に脛が叩き落とされる。鈍い音。破裂音は微塵もせず、骨に直接当たったような低く重い音が耳にまで届く。その衝撃が床を通じて剣道部にまで届いたのか、彼女たちは訝しげに足元を見やった。窓が揺れて音を立てる。葉月はミットを落として膝をつき、伏兎を押さえてうずくまった。その痛みは声にすることすら難しく、肌に痛みを残した背足の蹴りと違い、脛の蹴りは腿の筋繊維を断裂せんばかりであった。膝をついていることすら辛い。葉月は床に倒れこむ。
「大丈夫かい?」
葉月は頭を左右に振り、膝を抱えて横になったまま動かなかった。
「すこし休憩にするか」
涼はそう言って葉月のそばに腰を下ろし、彼女の痛む箇所を撫でた。
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