第7話 決意
木曜日の放課後、文子は晴に手を引かれて武道館に来ていた。その日の稽古は柔道部が武道館の左側に敷かれた畳を使うため、空手部は普段剣道部が使っている右側の板間で練習することになっていた。柔道部はいつもどおり部員が来ていなかったが、気まぐれに姿を現してときにもめないように、と涼は晴と文子に説明して板間で練習する旨を伝えた。畳に座ろうと思っていたふたりは剣道部の部室からパイプ椅子を出してそこに座り、空手部の稽古を見学する。
「葉月も、あんな顔をするのですね」
拳が仮想敵の身体を打ち抜いた瞬間、爆発が起きたと錯覚するような道着の破裂音、葉月の発声。文子は力強い正拳突きを放つ葉月から目を離すことができなかった。格好いいかもしれない、と。
「入部する気になった?」
「ないですね。しかし、格闘技が野蛮なだけだという意見は撤回してもいいかもしれません」
晴は文子の僅かな変化を喜ぶように笑っていた。
空手部のふたりは三〇分の基本稽古を終え、物置からビッグミットを取り出してミット打ちの練習を開始する。文子は組手構えで涼と対峙する葉月を見ながら眉をひそめた。
「葉月の手は大丈夫でしょうか……」
「あるていどは仕方ないわ。怪我して強くなることだってあるし」
晴の言い分を認めてしまえば、葉月は年中怪我した手のままで生活しなくてはならない。彼女が野蛮だと言う理由はそこにもあった。
「せめて治るまで……」
「だからって休めないでしょ。部活は週二しかないんだし」
文子は辛そうに表情を歪める。葉月が怪我するところなど見たくなかった。
「自ら怪我をするなんて、どうかしています」
「かもね」
「では……」
やめさせてください、と文子はすがるように晴を見る。きっと自分の言うことは聞かなくとも、長年連れ添っている晴の声なら届くかも知れない。しかし、晴は頭を振った。文子と違って同じ武の道を志すものとして、怪我をしてでも強くなりたいと願う葉月の気持ちが理解できるのだろう。
「慣れれば怪我は減るのでしょうか」
「どうだろ。部長さんの流派、フルコンっぽいし」
文子は説明を求めるように首をかしげた。それに気がついた晴はすこし頭を悩ませるよう、顎に手を当てる。
「フルコンっていうのは直接殴り合う空手のこと。かなり実戦的だし、稽古のたびに怪我の危険はあるでしょうよ」
そんなのは喧嘩と変わらないのでは、と文子は空手野蛮説撤回を取り消したくなった。
「スポーツマンシップに反しませんか?」
「スポーツじゃないもの」
ミットを突く音が変わり始めた。今までは枕を叩くような柔らかい音だったが、拳に体重が乗り始めてすこし重く鈍い、ミットを押し込むような音になった。
「押すな、引くんだ。ミットに拳を残さない!」
その指示を聞いた途端、間延びしていた音が速さのある軽快な破裂音に近いものに変わり始めた。涼は注意を飛ばすことなく号令をかける。体重が軽いぶん弱々しい力ではあるが、葉月はすこしずつ理想に近づきつつあった。晴も感心したように口角を上げたが、文子だけは胸の前で両手を組み、眉根を寄せて葉月を見守った。どうかこれ以上怪我を大きくしませんように。
しかし、その願いは叶わなかったことを悟った。
「いけません!」
「ちょっ……なに?」
文子は晴の制止を振り切って葉月たちのもとに駆け寄り、葉月の手首を掴んで練習をやめさせた。
「どうしたの?」
「血が出ています!」
葉月の拳は治癒しかけていた薄い皮膜が破けており、さらに擦られたせいで怪我がより深くなって出血にまで及んでいた。血は流れるほど大量に出ていたわけではなかったが、にじみ出てくるように血の水滴を作ってはミットとぶつかることで飛散し、拳を赤く染めていた。
「ミット、汚れちゃったね」
「保健室!」
葉月がミットに付着した血液を道着の袖で拭おうとすると、涼はそれをかわすようにミットを床に置いて文子ごと葉月を保健室に連行した。
葉月の怪我は浅く、包帯を両拳に巻くていどで済んだ。しかし、その日はそれ以上稽古を続けられなかった。涼が後片付けのために武道館に戻り、保健室には文子と晴、葉月の三人だけになる。もっと早く止めるべきだった、と文子はおとなしく見学していた自分を責めた。
「なぜ、痛みを感じた時点でやめなかったのですか」
「気づかなかったし……」
「嘘をつかなくても良いのです。こんなになっておいて痛くないなどと」
葉月は唇を尖らせる。それを見た文子は葉月が嘘などついていないことを察した。しかし、それでも納得ができなかった。血まで出しておいて痛みを感じないなどということがあるのだろうか、と。
「フミ。嘘じゃないかもよ」
座っていたふたりはベッドの柵にもたれて立っている晴を見上げ、首をかしげた。
「アドレナリンってゆーか、やってる最中って痛くないのよ」
わたしも稽古が終わってから痛みに気がつくこととかあったもの、と実体験混じりの話を聞いても文子には納得できなかった。
「まあ、ミットの血に気づかなかったのは注意散漫だけど。見えにくかったけど、拭いたら結構な量だったわよ?」
「ごめん。そんなことまでさせて」
「いいのよ、べつに」
晴は笑って手を振った。
「……」
葉月は何か言いたげに身をよじり、上目遣いに文子を見やった。
「それで、空手部……入る?」
「これを見て、やる気になると思いますか?」
だよね、と葉月は肩を落とす。文子は怪我をしてなお空手を続けようとする葉月の考えが理解できず、その理由を訊ねた。しかし、葉月は恥ずかしそうに身をよじって黙り込み、晴のほうをちらちらと見ていた。
「どうしたの?」と晴が訊ねた。
「晴、先に帰ってて」
晴が呆気にとられたように葉月を見ていると、しびれを切らした葉月が彼女の背中を押して保健室の外に追いやろうとした。
「ちょっと!」
「晴は聞いちゃダメ」
有無を言わさずに晴を追い出した葉月は鍵をかけ、訴えかける晴の声を無視してベッドに戻った。そして、小声で文子に空手をしたい理由を話す。
「強くなりたいから、だよ」
葉月はまっすぐに文子の目を見た。
「フミは、晴が肩を怪我したときのこと、知ってる?」
「ええ。本人から聞きました。その、父親に乱暴されたときに痛めたのだと」
晴たちと初めて会った中学校初日。そのときすでに彼女は三角巾をつけて入学式に参加していた。しかし、怪我の真相を聞いたのはずいぶんとあとになってからだった。体育の授業前と後。着替えのときに決まって葉月は晴が着替えを終えるまで廊下に佇んでいた。気になってはいたが、彼女たちのあいだにあるルールなのだろうと気にしていなかったが、それがあまりにも徹底されていて、修学旅行中であっても葉月は晴が服を脱いでいる場面では席を外していた。おかげで彼女一人だけ入浴の時間はほかのクラスに紛れているくらいだった。
「晴ね、自分の体が汚いから見られたくないって言ったの」と葉月は言った。「私、何を言っても晴のこと傷つけそうで何も言えなくて」
そして晴が望むまま、葉月は晴が服を脱がざるを得ないときには必ず席を外すようにしているのだった。
「でも、それって私が弱いからなんじゃないかなって。もし私がもっと強かったら、晴にそんなことないよって言ってあげられたのにって」
変だよね、と葉月は泣き笑いような表情を浮かべた。いますぐそう言ってやればいいとわかっているのに、晴を傷つけてしまうことが怖くて何も言えないでいる。
「嫌われたくないからって逃げるのは卑怯だよね」
だから、強くなりたい。
そのことばを聞いたとき、文子は涙を止めることができなかった。彼女の決意に感動したからではなかった。
「いけません」と文子は頭を振った。「趣味や遊びならばともかく、そんなこと……」
「フミ?」
葉月が彼女に向かって手を伸ばすが、文子はそれを払って葉月の両肩を掴む。
「逃げることのなにがいけないのですか。多くの人たちはそうやって生きています」
葉月ひとりが強さを強いられる必要はない、たとえ嘘でも、いまが優しく温かであればそれでいいではないか。文子は途切れがちな震えた声で訴えた。それでも葉月は首を縦には振らなかった。両肩に食い込む文子の手をゆっくりと外し、それを両手で温めるように包み込んだ。
「晴は強いけど、弱いから。守ってもらうだけじゃなくて、私も守ってあげたい」
いつのまにかできてしまった見えない壁を壊さねばならない。そのために強くなりたい。葉月の瞳には曲がらぬ決意が込められていた。
「私は……認めません」
文子は葉月の手を振り払って立ち上がる。
「必ず退部していただきます」
文子は、葉月には弱いままでいて欲しかった。現実から目を逸らし続ける限り、自分が優しく支えてやるから、と。しかし、強くなってしまえば葉月は晴とより強く結びついてしまう。その結果……。文子は自分の醜さから目を逸らすように口をきつく閉じ、考えることをやめた。
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