第5話 日常
掃き掃除と着替えを終えた空手部は剣道部より先に帰宅する。武道館の鍵の返却を剣道部に押し付けるためだった。葉月はあと一時間ほど待っていれば晴とともに帰宅できるのだが、それをせずに家路を急いだ。夕飯の支度をせねばならなかった。市営住宅の駐輪場に自転車を止め、部屋がある棟を目指して歩いていると高い位置から子供の泣き声が聞こえてきた。仰ぎ見ても姿は見えないが、いつものことなので探るようなことはせずに歩を進める。子供の泣き声が聞こえているうちはまだいい。夜が更けてくると物が壊れる音や男の怒鳴り声、女の悲鳴や叫びにその声はかき消されてしまう。
エレベーターで四階にたどり着いた葉月は四〇五号室の前で足を止め、その扉を見つめていた。今は新たな家族が暮らしているが、そこはかつて葉月たち家族が入居していた場所だった。葉月は目を伏せて息を吐くと何事もなかったかのように隣の四〇六号室の鍵を開けて中に入る。
「ただいま」
返事はない。玄関を開けたらすぐに台所兼リビングの洋間が広がっていて廊下はなく、襖の向こう側には四畳半の和室がふたつ。築三七年の歴史は伊達ではなく、晴が綺麗に掃除をしていても壁には歴代の住人たちが残した染みや汚れが目立っていた。葉月は鞄を部屋に置き、リビングの椅子にかけてあったエプロンを取って身につけ手を洗う。
「――ッ」
手を濡らした瞬間、痛みを感じて顔をしかめる。彼女の拳は稽古でいくつもの傷ができていた。特に怪我がひどいのは人差し指と中指であったが、薬指と小指も楕円形に禿げた皮膚から桃色が覗いていた。指の間にも怪我はあったが、そちらは擦り切れる手前のように赤紫に皮膚が変色して痣になっているだけだった。怪我は第三関節だけでなく第二関節にも及んでおり、こちらは関節に沿って切り開かれたように流線型に皮膚が剥けていた。
いくら歯を食いしばって耐え続けても痛みはいっこうに引かず、葉月は声を出さないように努めながら石鹸を使う。タオルで優しく手を拭いただけでひと仕事終えた気分になるが、やっとの思いで調理を始める。まず米を炊こうと米びつを見るが、そのためには米を研がねばならない。冷凍庫を見るとすでに炊いた米がジップロックで小分けにされて保存されており、本日の夕飯ぶんは炊かずに済みそうだった。しかし、明日の弁当を考えると……晴にやってもらおう、と葉月は米びつの蓋を閉めた。
主菜の調理に取り掛かる。鳥モモ肉を一口大に切断し、水に一〇分間浸ける。それから水気を取って醤油、酒、にんにく、生姜を混ぜ合わせたものに同じ時間だけ浸して下味をつける。各々の待ち時間に汁物を作ろう、と大根と人参をいちょう切りに、玉ねぎは千切り、里芋ではないことを悔やみながらじゃがいもを雑破に切り、鍋で炒める。じゃがいものふちが半透明になったころ、出汁を加えて煮込む。下味をつけ終えた鶏肉に片栗粉をまぶし、皿に並べる。晴が帰宅したらすぐに揚げることができるようにし、沸騰した鍋の火を止める。
外から鍵を開ける音が聞こえてきた。隣人の亭主が帰宅したようだった。帰ってこなくていいのに、と思いながら葉月は食卓を拭き、三人分の箸を用意する。時計を見ると七時を過ぎており、そろそろ晴が帰宅する頃だった。新しい鍋に油を注いで火にかける。菜箸を油に突っ込んでふつふつと小さな気泡が出来始めたときを見計らって鶏肉を投入。一分半ほど放置し、油から引き上げていると玄関が開いて晴が帰ってきた。
「鍵かけなさいってば」
「おかえり」
晴も部屋に鞄を置き、手を洗う。
「お母さん今日はカントーだってば」
手を拭いていた晴は食卓に出ていた三つの箸を見てそう言い、一膳片付けた。カントー。それは晴母娘がよく使う用語だった。意味は関東地方への出張。晴の母親がやや不機嫌にその四字のみを口にするだけで、晴は母のため出張に必要な用品の準備に取り掛かる。そういった家庭内でのみ通じるスラングのようなものを耳にするたび、葉月はいかに幼いころから知った仲であっても、自分はただの居候であることを自覚させられた。
「三人前作っちゃった」
葉月は菜箸を入れると激しく気泡が発生するていどに油の温度を上げ、三分間休ませた唐揚げを四〇秒ほど二度揚げする。晴は鍋の蓋を開けて火を止め、温まった汁に味噌を溶く。ごぼうも豚肉も入っていない豚汁が出来上がる。
「ごはんレンチンして」
はいはい、と晴は冷凍庫から小分けにされたご飯を二つだし、電子レンジにかける。
漬物を小皿に盛りつけ、食卓に必要なものが全て揃った。ふたりは手を合わせ、夕飯を食べる。葉月が唐揚げに手を伸ばしたとき、晴はそれを見て目を見開いた。
「あんた、手ぇどうしたのよ!」
言われて葉月は箸を止め、自分の手を見下ろした
「ミット?」
晴は頷く葉月の手を引き寄せ、まじまじと観察しては表情を歪ませる。
「うわぁ、こんなんなるの?」
絆創膏、と晴は辺りを見回して腰を上げかけたが、諦めたように中断して席に着く。
「フミが見たら大騒ぎしそうね」
「ねえ、晴」
晴は箸を動かしつつ葉月を見やる。
「空手部入る?」
「なに? 突然」
「涼が部員欲しいって」
「やめとく。バイトもあるし」
葉月はそれ以上の勧誘をやめて箸を進める。
「肩、治ったんだね」と葉月が言うと、晴は左肩を回し、首をかしげた。
「そう見える?」
「涼も褒めてた」
「あんた、先輩のこと呼び捨てにして怒られないの?」
「本人がいいって言ってたし」
ふうん、と晴は頷き、最後のひとつになった唐揚げを葉月のほうに押しやった。
「フミでも誘ってみたら?」
「?」
「部員勧誘」
「でも、文芸部に入ったって」
「とっくに辞めてるわよ」
やってみる、と言ったものの、葉月はあまり期待していなかった。文子は入学当時、彼女の空手部入部に反対していたからだった。
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