第4話 ミット打ち

 葉月と涼は全三一種類の基本的な技をそれぞれ一〇本ずつ行い、基本稽古を終えた。

「じゃあ、五分の休憩な。そのあと移動すんぞ」

 そう言って涼は壁際に置いた自身のペットボトルを手にして水分補給し、滴る汗をタオルでぬぐった。葉月も自分の額を手の甲でぬぐってみるが、その肌はじんわりと湿り気を帯びているていどで拭き取るほどの汗はかいていなかった。地面を見やると、涼が立っていた場所には彼女の飛び散った汗が降り始めた雨のように染みをつくっている。たかだか三〇分ていどの稽古、慣れがないぶん自分のほうが必死だったはずなのに、と葉月は首をひねった。どうすればそこまで汗をかけるのか。

「飲まんのかい?」

 葉月はスポーツドリンクを振っていた涼の隣に座り、壁に背を預けてお茶を飲む。そのとき、剣道部のほうから大きな声が聞こえた。彼女たちが視線を向けると、剣道部は試合形式の練習を始め、面や胴などと相手を打つたびに大声をあげていた。さきほどまでだらだらと防具を身につけていた部員たちは壁際に整列して座り、自分の順番が来るのを待っている。

「うちももっと部員がいりゃあいいんだけどねぇ」

 剣道部を見ながら呟いた涼のことばが聞こえなかったかのように、葉月は視線を逸らすことなくその試合を見ていた。試合をしていたのは晴だった。いつもは自分の稽古に忙しいため、こうしてじっくりと試合を見るのは久しぶりだった。すこしも見逃すまい、と葉月は瞬きひとつしなかった。晴と向かい合った相手は一瞬の間も置かずに地面を踏み鳴らし、面を打つ。しかし、それが晴に届くことはなかった。面、面、胴、面、胴。晴は相手の攻撃をすべてさばく。その動作には一分の焦りもなく淡々と作業をこなすようだった。それでも、素人目で見れば晴が攻められていることには変わりはない。葉月はペットボトルを握り締めた。

 果敢な攻めが最適化された動作に阻まれて効果を上げられないことにいらついたのか、相手の動作が大ぶりになり始めた。

 晴は相手の猛攻に臆することなく踏み込んで鍔迫り合いに持ち込んだ。相手は晴よりも恰幅がいい。明らかに相手の土俵だった。相手は晴の流れるような体運びに動揺を見せたが、すぐに鍔迫り合いに応じようと力を込めた。その瞬間、晴は相手の力を受け止めずに逃がすように身を引いた。反撃を予想していただろう相手は突然の回避に対応できずわずかに前のめりになる。晴はその好機を逃さなかった。身を引いた流れのまま鋭い声とともに引き面を打つ。

「一本!」

 晴に軍配があがった。

「へぇ。いい目じゃん」

 葉月は試合場を見つめたまま頷く。晴たちが互いに向き合って礼をして下がり、次の二人組が入れ替わるように前に出たところで葉月はようやく息をついて手の力を緩めた。一時期あった不調を感じさせない動きに安心したのだった。

「試合、してみたいかい?」

「少し怖いけど」

 涼が手加減してくれるなら、と頷く葉月。

「じゃあ、移動はやめるか」

「組手?」

 涼は葉月の頭を撫で、更衣室横の共同物置部屋に向かった。そこには剣道部の防具や竹刀、柔道部のダンベルやゴムチューブが保管されていた。空手部にもなにか道具があるのかもしれない、と葉月も期待しながらそのあとに続く。

 組手はダメだけど、と涼は棚から六〇×四〇センチていどの黒いビッグミットを取り出した。

「ミット打ちなら大丈夫だろ。ほれ」

 ビッグミットを受け取った葉月はその軽さに驚いた。彼女の上半身を覆い隠す大きさのミットは表面が黒い強化レザーで覆われていて見た目は重厚だったが、中身はスポンジだったので片手でも簡単に持ち上げられる。涼は葉月にビッグミットの持ち手に腕を通させ、体に密着させる正しい持ちかたを教えた。

「まずは組手構えからの左、右のパンチな。基本のときにやったからわかるだろ?」

 葉月はミットも持ったまま頷き、足を前後左右肩幅ていどに広げて組手構えの足になった。吹き飛ばされないように気をつけよう、と足の指で地を掴んで踏ん張る。

 手本を見せるため、涼も組手構えになる。脇を締めて肘を曲げ、拳を顎の高さに据える。相手に呼吸のリズムを悟られないようにゆっくりと静かに鼻から息を吸って口から吐き出す。

「一!」

 彼女は葉月の号令とともに左足を一歩踏み込み、着地とほぼ同時に左拳をミットに打ち込む。ミットに当たった拳を引き戻しつつ右足を摺り寄せ、同時に右拳はひねった腰に押し出されたようにまっすぐ伸びてミットに突き刺さる。右手を引いて元の構えに戻ったとき、葉月はうずくまる一歩手前のような前傾姿勢で咳き込んでいた。涼のパンチはミットがあったにもかかわらずそのクッションを無効化するように衝撃を伝え、密着していた葉月の胸を痛めつけた。殴られた瞬間葉月の呼吸は止まり、それどころか肺に溜まっていた空気が無理やり押し出されていた。苦しい。息を吸おうにもせり上がった横隔膜がそれを許さず、浅い呼吸しかできずに息苦しさが持続する。

「ミット、意味ない……」

「尻餅つかないだけたいしたもんだ」

 涼は声を絞り出す葉月の後ろに回って背中をさすった。

「背筋伸ばしたほうが楽だぞ」

 言いながら涼は葉月からミットをもぎ取る。葉月は深呼吸してから組手構えになった。右拳の位置は涼と同じであったが、左拳は目線の高さに置いていた。

「一!」

 葉月は涼の号令を聞いてミットに拳を打ち込む。しかし、そのときの音は破裂音を鳴らす涼のものと違って枕を叩いたような軽い音だった。

「もっと速く、体重乗せて!」

「押忍!」

「ひとつひとつを素早く!」

 もっと速く、もっと力強く。葉月は延々と左右の拳をミットに打ちつけ、予定していたほかの技を行うことなくその日の練習を終えた。


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