第2話 準備運動
六時限の授業が終わった月曜日の放課後午後四時。葉月は空手着を身にまとって白帯を締め、武道館の畳でひとり柔軟体操をしていた。しかし、武道館は騒がしい。剣道部と稽古場を共有していたからだった。川東高校の武道館は柔道部と空手部、剣道部の三つが共有で使用していた。月曜日は中央から右の板間で剣道部が、左の畳で空手部が活動している。
葉月は全身をほぐし終えると畳に座り、開脚する。体が硬い彼女の足は九〇度も開かぬうちに悲鳴をあげた。膝が曲がり縮こまったように固くなっていた薄筋が両側から引っ張られるような痛みを感じる。空手を始めてひと月近くが経過しており、毎日家で柔軟してるのに、と葉月はなかなか実らない努力に歯を食い縛る。
顎を突き出すようにして両手を伸ばし、正面に体を倒す。すると、前方で正座したまま動かない少女が見えた。背中を覆う茶色がかった髪は肩甲骨を隠すていどの長さで、もしハーフアップにして束ねていなければ相当な毛量だろうことを思わせる。例えるならアフガン・ハウンド。先輩を犬に例えるのはどうかと思いつつも、葉月は豊かにうねるその髪に顔をうずめてじゃれつきたいと思った。
もしかして寝てるのでは、と武道館正面の壁にはめ込まれた鏡を見るように体を左に倒す。鏡には訝しげな表情をした葉月自身と、目を閉じたまま動かない少女が映っていた。少女はゆっくりと目を開き、畳に拳をついて正面に礼をする。葉月は見ていたことを誤魔化すように柔軟体操に励んだ。場所が場所なら口笛さえ吹いていたかもしれない。
「待たせたな」
立ち上がった少女は金糸で名前を施した黒帯を揺らして歩きながらにっと笑う。彼女は島津涼。二人しかいない空手部の部長を務める二年生だった。
「お前、髪結ったほうがいいぞ」
言われて鏡を見ると、涼ほどではないがゆるく波打つ葉月の髪は急激な動きに対応できずに散らばって、顔にかかったり肩口から垂れて地面を這ったりしていた。
「ちょっと待ってな」
そう言い残して涼は更衣室に消えていく。同時に、大きな掛け声とともに竹刀を振っていた剣道部がその動きをやめて休憩に入った。ほとんどの部員が竹刀を壁に立てかけて水分補給や雑談に興じるなか、住之江晴はひとりで黙々と素振りを続けていた。艶やかな黒い髪をひとつに束ね、竹刀の動きに合わせてそれを揺らす。鏡に映る彼女の表情は鋭い。別段彼女が部内でいじめられていたり仲間はずれにされていたりするわけではなかった。幼いころから剣道に身をやつしていた彼女特有の真面目さから、わずかな練習のたびに長々ととられる休憩時間が許せないのだろう。そんなことでは強くなれない。生ぬるい部員に対する無言の抗議としてひとり自主練習に励んでいるらしいが、向上心に欠ける同志からの共感は得られていないようだった。
「あいつ、いつもひとりだな」
髪ゴムを手にして戻ってきた涼は葉月の後ろに回って膝をつき、彼女の髪を手櫛で整えた。葉月は晴から目を離さない。ひとりだけ秀でた実力を持っているせいで孤高の存在となりつつある彼女が怠惰な雰囲気に流されまいと自分を律し、懸命に竹刀を振るう姿にはある種の美しさがあった。葉月はかつて、大会でもない限り見ることができなかった友人の勇姿に見惚れていた。それと同時に、寂しさのような、ひとりでもがく彼女に駆け寄ってやれない自分の無力さのようなものも感じていた。胸が締めつけられ、垂れてきてもいない鼻水をすする。
「晴は、強いから」
葉月は涼に、晴がひとりぼっちで可哀想な子だと思われたくなかった。
「だろうな」
涼は葉月の背中を軽く叩いて立ち上がる。鏡を見ると葉月の髪は晴ほど高くない位置でひとつにまとめられていた。頭を振ると髪はその動きに少し遅れてついてくる。ゴムが緩まないことを確認して立ち上がった。
「まだ終わらせねーよ」
楽しげな涼。柔軟はもう勘弁して欲しい、と葉月は思いながら、涼はそれを許してくれないと経験で知っていたので渋々と開脚を再開する。涼は葉月の足を半ば強引に広げて足の間に体を倒させ、胸を彼女の背中に押しつけるようにのしかかって体重をかけた。葉月は痛みをこらえるように歯を食い縛る。
「ほら、息止めんな」
そんなこと言われても、と葉月はすこしずつ口を開ける。一気に力を緩めてしまえば自分の薄筋が断裂してしまうのではないかと思った。
「鼻から吸えよー」
言いながら涼は彼女の体を右に倒させた。腹斜筋が裂けそうな痛みが走り、熱を帯びたように感じる。
「ギブ……ッ」
息が漏れるような声で呻く葉月の膝はほぼ曲がっており、これ以上続けても柔軟体操としての効果は得られそうもなかった。
「体硬いと怪我すんぞ」
柔軟だけで体力を使い果たしたような気になった葉月はビニール製の畳に体を伏し、何度か頷いた。
「冷える前に基本のおさらいな」
涼は葉月の片腕を引っ張って無理やり立たせた。基本的に人を甘やかしがちな彼女ではあったが、こと空手に関することになると厳しくなり剣道部のような長々とした休憩を許さなかった。そんな厳しい指導についていけなかった先輩たちが続々と退部したせいで現在の人数になったらしいのだが、彼女は自身が慣れ親しんだ道場の流儀を曲げることはなかった。
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